第47話そして谺する声を聞け

喪われた人々だけがわたしの心を慰撫する夜更けにあって、そのしじまの中にわだかまる闇があり、その最奥に傷口が刻まれ、そこからとめどもなく涙があふれる、とささやいてしまえばよかった。実際にはもはやとうに涙も枯れて、ただ小瓶に入った水ばかりが減ってゆくのを、涙の代わりとして干し、永遠に癒ない渇きをなぐさめようとした。かつて故郷に湧き出でた水も今は濁り、ただ孤独な虫ばかりが這う草木の下に、いくつもの人々の営みがあったことを思う。その小さな池の底にいた鯰も今は姿を消し、立ち枯れた梅樹の横の碑文がありし日の姿を物語る。文筆を生業としていたかつてのわたしからすでに筆は奪われ、この施設にあってはただこの電子端末に声を吹き込んで断片的な文章を綴ることだけが残された。それも人目を憚って、見回りとしてやってくる看護師の目を盗まなくてはならなかった。ささやき声で綴ったものに、書物に編むに値するものはなく、すぐに容量は圧迫されて、古いデータを消さなくてはならない。失われた記録の中に、かつての友の姿があり、師の言葉があった。そのいずれも携えてはゆけぬ身が呪わしい。今、何か言いましたか。看護師のカメラを搭載した巨きな双眼がわたしをじっと見る。その目はものを写すが、言葉を刻むことはない。わたしは舌打ちをしてから、ああ、論文の帯出許可を願いたい、とだけ口にする。認可できません。ここではいかなる書物も、あなたの持ち物ではない。機械音と共に発せられる言葉をわたしは黙して聞き、そして手元にあったデバイスの音量を最大量にして、こぼれ出る記録が音声となって部屋に、施設中に響きわたる。かつて、星が堕ちたこと、その土地の上に長い年月をかけて築かれた永世平和都市があったこと、さらにその一軒の雑居ビルの一室に友が間借りしていて、夜明けまで共に語らった日々のこと。切れ切れの音声の洪水に、看護師は叫び声を上げ、その声があちこちでアラームとなって響き渡る。聞け、人間の声を。わたしは看護師を押し除けて立ちあがろうとし、やがてめまいを起こして倒れ伏す。足元に転がったデバイスからは延々と繰り返される音声がこぼれ、それはやがて故障して停止した看護師を圧して施設中にこだまする。


原爆忌に寄せて

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る