第46話海原の揺籃期
そうして、失われてしまった記憶のうちにただよっている無貌の水母を母と呼ぼうとしたこともあった。目ばかりが大きく見開いて、わたしを呑み込み、咀嚼されて吐き出された切れ切れのわたしから、裁断された自我がしたたり落ちて、しみとなってゆく。それを拭い去るための指はもはやわたしには残されていない。ただふたつの眇の目を体内に宿した水母は、ゆらゆらと深海を彷徨いつづける。あらゆる原初の感情が渦を巻く水底で、ひとつ、またひとつと命は生まれてゆくのに、祝福され得ぬわたしは彼らの糧になることもなく、水母に抱かれたまま、その触手が何も捉えることもできずに宙を掻くのを眺めていることしかできない。うつつを見る目ばかり冴えて、地上の報せが海鳥の死骸とともに降ってくるのを、水底から煮沸される怒りに染まることもできずに眺めていた。怒り、に染まる、水母の瞳がわたしを射すくめる。大きくなってゆくばかりのまなこに囚われて、その奥に部屋があることにわたしは気づかない。果たしてそこから排出されてきたのだったか、わたしは、かつて。しかしその扉は今や固く閉ざされ、その奥にある痛覚への耐え難い刺激が、絶えず水母を蝕みつづけている。ついに海中をふるわせて悲鳴をあげたその口から、わたしは吐き出され、瞳を閉ざす瞼も今はなく、ただ流れてゆく生命の渦に飲まれてゆく。言葉、が、生まれる前の、感情に侵されて、枯れ尽きていた涙が、今ふたたび眇の双眸から、静かに、こぼれ出る。わたしは、ふたたび生まれ、水母から隔たって泳ぎはじめる。藻がまとわりつき、瞳を覆う膜が生成され、そこに小魚たちが踊り、わたしは巣となる。今ならば匿うこともできる、そう、己以外ならば、何ものでも。そうして絡まり合った生命から生まれ出た魚たちは、もはや水母を欲しない。
BGM:John William Coltrane/Blue Train:The Complete Masters
参考資料:水口博也・戸篠祥編著『世界で一番美しいクラゲ図鑑』誠文堂新光社、2022年。
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