第16話夜の言葉

言葉を越えるために夜が必要で、夜を越えるために言葉を欲さずにはいられないのだが、おおよそ私に夜は与えられず、言葉を発する力もない。発する前にほろほろと崩れる言葉をか細い声で発しても、すぐに渦に呑み込まれて霧散し、ひとかけらの残骸の切っ先に著しく傷つけられ、あるいは隔絶した他者の意図を超えたところで痛みを感じて、その痛覚を遮断するすべももたず、不埒な片恋ばかりをして、書物に弾劾されるまで恨んでやまない。ともすれば喃語なんごになるのをこらえて、鋭い言葉をできるだけ婉曲えんきょくにして、あるいは別の形へと変えて伝えても、置き換えられた言葉は蝸牛であったり湖であったりして、その真意が人形の永久の眠りのさなかに観る夢の中の苺であることは伝えようもなく、言葉を補おうとしても見えざる手に阻まれる。母国語を用いて話せないのであれば、他国の言語を用いようと意を決するも、ドイツ語のおおよそすべての文法を亡失し、猫のほかの単語を忘れた私になせることはなく、かつて他言語学習に滞りがあるということに対して向けられた医師の憐憫を思い起こしてふたたび憎悪する。絶え間ない感情の波が私を押し流し、あらゆる言語は原初的な憤怒へと変わる。激情はやがて熱を失い、かつて耳にした無数の言葉が鋭い刃となって私に歯向かう。細部を検分する間もなく闇は濃くなり、男の、女の、あるいはそのどちらでもない声が満ちた密室に閉ざされたまま炎に包まれて、丸いちいさな球体を抱えてうずくまったまま、はるか遠くから聞こえてくる無声の音楽に耳をすませる。

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