第37話 地下道


 地下道に入ると、プリムはカバンから小型のカンテラを取り出して火をつけた。

 どうやらその覚束ない光を頼りに、これから奥へと向かうようだった。


 前方から少しひんやりとした風が吹いている。

 視界は暗くて怖気づいてしまうが、この穴がどこかへ通じていることは間違いなさそうだ。


 動物のフンが転がっているのか、饐えた臭いが鼻をついた。

 時折キキッとネズミの鳴き声がして、そのたびに俺はひっと小さく怯えた。

 埃っぽいし、床には小動物のものであろう骨がそこかしこに落ちている。

 うっかりそれを踏むとパキリと脆く崩れて転びそうになった。

 はっきり言って居心地は悪く、とても不快な場所だ。


 しかしともかく、どうやらこれで追手は撒けた。

 

 道は幾度も分岐があり、10分も経つ頃にはもはや元の入口に戻ることは不可能だろうと思われた。

 このトンネルはフリジアの地下に張り巡らされている。

 プリムのこの言葉に嘘は無いようだった。


 途中、何度も振り返ったが、奴らが来る様子はなかった。


 Ж


「もう少しで着くわ」


 地下道に入って15分ほど経ったころ。

 プリムが言った。


 やっと出口か、というのが本音だった。


 俺はほっと胸をなでおろした。

 正直、こんなところからは一秒でも早く出ていきたい。


 それに、もう随分歩いた。

 リュカは文句も言わず歩き続けていたが、かなり疲弊しているのに違いない。


「街のどこらへんに出るの?」


 と、俺は聞いた。


「街に出る? なに言ってんのよ。まだでないわよ」

「へ?」

「この先に少し開けた空間があるの。聖十字兵団がモスクに使っていた場所なんだけど、そこで少し休もうと思って」

「いや、もういいよ。いい加減、ここいらで外に出よう」


 俺が文句を言うと、プリムは肩を竦めた。


「出ても良いけど、ここってまだポッチの言ってた13番地区まで来てないよ」

「来てなくてもいい。外に出たい」

「やめたほうが良いと思うけど」

「どうして」

「今出たら、きっとまた追いかけ回されるわよ」

「ま、また?」

「そう。さっき追っかけてたチンピラ。あれ、多分、でかいマフィアに依頼された半グレどもだわ。あいつらに目をつけられたら面倒よ。きっと、今は街中のならず者がこの子を探してる」

「マ……マジ?」


 俺はごくりと息をのんだ。


「暗くなるまでの我慢よ。そこで夜になるまで待ったら、外に出て安全なところまで逃げましょ」

「……分かった」

「ま、これから行くモスク跡はかなり清潔だから。安心して」

「そ、そうなの?」

「うん。人も住んでるし」

「人が?」

「ええ」


 プリムはそれだけ言うと、さっさと歩き出した。

 俺ははあとため息を吐き、リュカを見下ろした。


「リュカ。大丈夫か?」

「何がだ」

「いや、かなり疲れたろ?」

「心配するな。余は結構楽しい」

「楽しい?」

「ああ。こうやって市井に出て自由に動けることが、そのすべてが、余にとっては新鮮で楽しいのだ」

「こんな汚いところなのに?」

「ああ」


 リュカはにこりと笑った。


「変な奴だな」


 俺は苦笑した。

 リュカの笑顔を見ると、不思議と元気が戻った気がした。


 Ж


 それから少し歩くと、通路が太く、広くなった。

 天井も高くなり、いつの間にか臭いも薄れている。

 その代わりに、壁には卑猥な文字や派手なイラストのような落書きが増えてきた。


 やがて、プリムの言った通り、何やら部屋に通じる扉のようなものが現れた。

 彼女はそれを3度、ノックした。

 少しすると、中から「誰だ」と声がした。


「『ペイパーカット』のプリムです。プリム=スカーレット。ヨシュア君はいるかしら」

「ペイパーカット?」

「新聞記者(ぶんや)よ。ヨシュア君にそう言ってもらえれば分かると思う」

「……そのまま待て」


 そう言って扉は沈黙した。

 今の声。

 女の人っぽかったが――かなり幼い感じがした。


 やがて、ガチャリ、と大げさな開錠音がして、扉が開いた。

 中から顔を覗かせたのは、思った通り、リュカよりも幼そうな女の子だった。


「入れ」


 女の子は顎をしゃくった。


「ありがと」


 プリムは俺に目顔で合図を出し、中へと進んでいった。

 俺は少女に会釈しながら、リュカと共に入室した。


 中は思ったよりも広かった。

 天井はドーム状になっていて、一番奥には古ぼけた祭壇のようなものが設えてあった。

 それからこちらに向け、椅子やベッドが無造作に置かれている。


 そしてそれらには、てんでに子供たちが座ったり寝転がったりしていた。

 彼らは俺たちを一瞥すると、またすぐに自分たちのおしゃべりに戻っていく。


 部屋にはうっすらと水蒸気が充満していた。

 それが何とも煙い感じがして、俺は少し鬱陶しかった。


「ヨシュア君は?」

「祭壇の前にいるわ。挨拶に来いって」

「うん。分かった。ありがと」


 俺たちは部屋のど真ん中を祭壇に向けて歩いた。

 思ったよりもたくさんの人間がいる。

 だが驚いたことに、彼らは全員が少年少女であり、この部屋には一人も大人がいなかった。

 そして、彼らはみんなどこか気怠げで、無遠慮に煙草を吸ったり酒を飲んだりしていた。

 この国では子供も酒が飲めるという話ではあったが、小学生くらいの子たちが享楽に耽っているのは異様な光景であった。


「よう、プリム」


 祭壇に腰かけ、大股を広げた上半身裸の少年が、俺たちを見て右手を上げた。

 褐色の肌に細いけど筋肉質な肉体。

 顔の造作はかなり濃いが、なかなかの美形だった。


 麻のズボンに直接銃を突っ込んでいる。

 どうやら、彼がここの子供たちの中では一番年長のようだ。


「こんにちは。ごめんね。いきなり押しかけて」

「別にいいぜ。で、どうしたんだよ、今日は」

「ちょっと追われてるの」

「は。なんだそりゃ。ヤバイ事件(ヤマ)でも踏んじまったのか」

「どうやらそうみたい。詳しい話はまたいつか」


 プリムはそう言って、辺りをきょろきょろと伺った。


「今日は、タガタさんは?」

「親父は来てねえよ。なんでも、今夜は第一地区にオペラを見に行くんだと」

「オペラ? 珍しいわね。騎士団長にそんな趣味があったなんて」

「仕事だろ。あの朴念仁に芸術なんて分かるもんか」


 カカッ、とヨシュアは笑った。


 オペラ歌劇?

 俺はその言葉に、思わず眉を寄せた。

 今夜の第一地区のオペラには、船長(ミスティエ)とポラも行くと言っていた。


 しかも――あの二人も“仕事”で。


「仕事、ね。それなら納得」

「今日はどうも街全体が騒がしい。こういう日は、決まってあのおっさんが忙しいんだ」

「街が騒がしい?」

「ああ。チンピラどもがいつも以上に殺気立ってる。その中には見覚えのねえ海賊もいた。それから、ゲットーからは警察が減っている。きっと、何かが起こってる」


「……ふーん」

 プリムは眉を寄せた。

「ヨシュア、あなた、その“何か”に見当はつく?」

「さてね。ただ、警察がいないのは気になるな。おそらく、富裕層地区(プリメイラ)で何かあるんだろう」


 ヨシュアは短く言い、肩を竦めた。


 やはり、今夜のフリジアは何かがあるらしい。

 そしてそのことに、またもミスティエが絡んでいるんだろうか。

 いや――あの人のことだ、きっと絡んでるんだろう。


 今夜、富裕層地区(プリメイラ)のオペラホールで何かが起こるのだ。


 だが、その前に。

 俺には一つ、聞きたいことがあった。


「ちょ、ちょっと待って」


 俺は口を挟んだ。


「さっきからタガタって名前が出てるけど、タガタさんって、フリジア騎士団の?」


 フリジア騎士団の団長である“タガタ”という男。

 俺にとって、この人は無関係ではない。


「そうよ。知ってるの?」

「い、いや、直接の面識はないんだけど――俺はあの人に恩があって」

「恩?」


 プリムは短い間考え込み、それから「ああ」と短く頷いた。


「それって、例のムンターからの難民受け入れの件のことかしら」

「そう。俺、一度会ってきちんとお礼が言いたいんだけど、まだ会えてなくて」

「なによ。やっぱりあんた、ムンターの奴隷制告発事件に関わっていたのね」


 プリムはにやりと笑った。


「まあ、その話は今度ゆっくり聞くわ。それより、残念ね。今日はタガタさん、ここには来ないみたい」

「あの、こことタガタさん、何か関係があるの?」

「そうみたいね。私も詳しくは知らないけど――」

「タガタのおっさんは俺たちの親代わりだ」


 プリムの代わりに、ヨシュアが答えた。


「親代わり?」

「そうだ。俺たちみてえなどうしようもねえのに、色々と世話をしてくれる変わりもんだ」

「それって」

「ああ、面倒くせーから、これ以上聞くんじゃねえ」


 二の句を継ごうとしていた俺は、その言葉で口を閉じた。


「とりあえず、お前はおっさんに恩があるんだな」

「うん」

「それじゃあ、今度来た時に伝えといてやるよ。名前は」

「田中陸太」

「タナカだな。分かった」

「あ、ありがとう」

「いちいち礼を言うほどのことじゃねーよ。タガタの親父に恩があるやつはこの街にゴマンといる」


 ヨシュアは肩を竦めた。


「それで? お前ら、いつまでここにいたいんだ」

「分からないけど、とりあえず暗くなるまで」

「そうか。まあ、気の済むまでゆっくりしてけ。おっさんの知り合いなら、追い出すわけにも行かねえしな」

「ありがと。助かる。あ、それから、少し食べ物と飲み物を分けてくれない?」

「分かった。すぐに持って行かせる」


 プリムはもう一度「ありがと」と言って、踵を返した。

 

「ちょっと待て」


 と、その時、ヨシュアが声をかけてきた。


「なに?」

「そっちのガキは何者だ」


 ヨシュアは顎に手を当て、リュカを見た。


「知り合いよ」

「紹介しろよ」


 ヨシュアはうっすらと笑った。

 プリムははあと短く息を吐いた。


「この子は私の上司の子供。色々あって、今日は一緒にいるの」

「ふーん。上司の子供、ね」


 ヨシュアは目を細めた。

 やはり、薄っすらと笑みを湛えている。

 

「それじゃ、適当に休ませてもらうわ」


 プリムはそれだけ言い、今度こそ踵を返した。


 Ж


「どうして嘘を吐いたの?」


 子どもたちから少し離れた椅子に座りながら、俺は小声で聞いた。


「なんのこと?」

「リュカのことだよ」

「ああ。ま、念のためよ」

「念のため? 彼らを信用してないの?」


 俺が問うと、プリムは間髪入れず「うん」と頷いた。


「どうして? 良い人そうじゃんか」

「良い人?」

「うん。俺たちを受け入れてくれたし、何といってもタガタさんが世話をしてる子たちだ」


 プリムははあと深い息を吐いた。


「あんたってほんと、呆れたお人好しね。そんなんで、よくこの街で生きていけるものだわ」

「ど、どういう意味だよ」

「あの子たちは単に私に利用価値があるから匿ってくれてるだけよ。たしかにタガタさんの影響は受けてるけど、彼らはみんな、基本的には悪党だから」


 簡単に信用しちゃいけないわ、とプリムは肩を竦めた。


「悪党?」

「そ。昔よりマシになったというだけで、今でも金のためなら平気で罪を犯す連中。この地下道にある電気だって、勝手に他所の家から引いてるんだから」

「そ、そうなんだ」

「ま、騎士団長さんのおかげで、以前とは比べ物にならないほど大人しくなったけどね」

「そんなに――凶暴だったの?」

「ええ」

「こんな小さな子供たちが?」

「子供と言ったって、刃物があれば人を刺せる。銃があれば人を撃てる。殺意があれば人を殺せるわ。それに、中にはヨシュアのような戦闘の天才もいるし」

「あの男の子……そんなに強いの?」

「強い。問答無用に強いわ。その辺の大人が束になったって敵わない。色んな海賊やマフィアからスカウトされてる人気銘柄なんだから」

 

 俺はごくりと喉を鳴らし、遠くで酒を煽っているヨシュアに目を移した。

 

 そうだ。

 この世界には、見た目と強さが比例しない人間がたくさんいるのだ。

 例えばそう――キャラコ海賊団のシーシーのような。


 青ざめている俺を見て、プリムはアハハと笑った。


「ごめんごめん。ちょっと脅しすぎちゃったかも」


 プリムは苦笑した。


「今の彼らは悪党だけど、悪人じゃないわ。それに、頭もいい。不要に他人を傷つけるようなことはしないわ」

「そうなんだ」

「ええ。こちらから危害を加えなければ大丈夫」


 プリムはそう言ってほほ笑んだ。

 うーん。

 この子、俺と同じくらいの年なのに――なんだかすごく頼もしい。


「ん」


 プリムと話し込んでいると、いつの間にか少女がお盆を持ってすぐ近くに来ていた。

 俺たちを招き入れてくれた少女だ。


「ありがと。えと、あなた、名前は」

「トコ」

「トコちゃんね。はい、これ」


 プリムはそう言うと、ポケットから紙幣を一枚取り出した。

 トコはそれを無言で取り、踵を返して駆け出した。


「さ、ご飯にしましょ。リュカも、お腹ペコペコでしょ」


 そう言って、リュカを見た。

 すると彼は、プリムの言葉が聞こえていないかのように、室内にいる子供たちに目を奪われていた。


「リュカ?」

 

 俺が声をかけると、リュカはようやく「ああ」と言ってこちらを見た。


「どうしたの?」

「プリム。今の娘、余と同い年くらいなのか」

「ええ。多分、そうね」

「こやつらは、生まれてからずっと、この地下で暮らしてるのか」

「まあ、ほとんどはそうね」

「この不衛生で光の届かぬ地下で、親もなく生きて来たのか」

「うん。そうなるわね」

「……そうか」


 リュカはしばらく黙り、目を伏せた。

 なにを考えているのか、随分と長い間、そうしていた。


 プリムはその横顔を見て目を細めた。

 それから「この子たちに、興味あるかしら?」と聞いた。


「ある」


 リュカは即答した。

 その双眸は無垢で、なにより真摯そのものだった。


「そう。それじゃ、私が知ってる限り、彼らのことを教えてあげるわ」


 プリムはにこりと笑った。

 そして、お盆の上のパンを手に取り、ぱくりと食いついた。


 

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