第35話 野球


 それから、俺はリュカに野球のことを教えた。

 細かいルールはよく分からないだろうから、とにかくバットでボールを打つスポーツだとだけまず伝えた。


 リュカは器用で頭がよく、一度教えたことはすぐできるようになった。

 そして、驚いたことに、意外と素直だった。

 偉そうなのは口調と態度だけで、これをやって、こうするんだよ、と丁寧に指示を出すと、逆らうことなく言う通りに動いた。

 褒めると得意げになり、嬉しそうにはにかむところなんか、子供らしくて微笑ましく思えた。


 木のバットは彼には少し重いかと思ったが、そんなこともなかった。

 一時間もするころには、リュカのスウィングは驚くほど上達した。


「よし。それじゃあ、今度は実際にバッティングをしてみよう」

「バッティング?」

「そのバットでこのボールを打つんだ。楽しいよ」

「うむ。やってみてやる」

「じゃあ、これから投げるから、今やってたスウィングの要領で、ボール目がけてバットを叩きつけてみて。それじゃあ行くよ――あ、ごめん、ちょっと待って」


 俺はそこで言葉を止め、すっかり眠りこけているプリムの元へ向かった。


「プリム、ちょっと起きてくれ」

「んー? なにー?」

「ほら、立って」


 眠い目を擦る彼女を強引に立たせる。


「守備を――球拾いをやって欲しいんだ」

「なんのことー?」

「頼んだよ。ボールが転がって来たら、俺の方に投げ返してくれればいいから」


 それだけ言い残し、俺はリュカの方へ戻った。

 形だけでいい。

 守備がいて欲しかったのだ。


「さあ、いくよー」


 俺は笑みを抑えきれなかった。


 ピッチャー。

 バッター。

 そして守備。


 これは紛れもなく――野球。

 野球だ。

 俺は今、間違いなく野球をやっているんだ。


 そう思うと、鼻先がツンとして、なんだかとてもジーンとした。


 Ж


 どれくらい経っただろうか。

 俺たちはそれから、時間を忘れて練習に励んだ。


「そう! その感じ!」

「うむ」

「もうちょっとヘッドを上げるように意識して」

「こうか?」

「いや、それだと下げ過ぎだ。もっとこう、ボールを引き付ける感じ」

「……こうか?」

「そう! それ! よし、じゃあそのコツを忘れないうちにもっと打ち込もう!」


 俺はストライクゾーンど真ん中に、いかにも打ちやすいように山なりのボールを投げた。

 リュカは狙いを済ませ、足を踏み込み、綺麗なスィングでそれを捉える。


 パキン、という快音がして、ボールは外野の位置まで飛んでいく。


「ナイスバッティン!」


 俺が親指を立てると、リュカは目を丸くし、口をムズムズさせながら、


「うむ! 次じゃ! 次!」


 そう言って、再び構えるのだった。


 俺がボールを投げてはリュカが打つ、それをプリムが取りに行く。

 そうして、その繰り返しを延々と続けた。

 単純な作業だったが、楽しくて仕方がなかった。

 

 リュカもバットにボールが当たるのが嬉しいらしく、飽きることなくバッティング練習を続けた。

 俺はいつまでもそれに付き合った。

 すごく嬉しかった。


 野球ができることが“だけ”じゃない。

 どこの誰だか知らないけれど、リュカが野球を楽しんでいることがとてつもなく嬉しかったのだ。


 Ж


 すっかり陽が傾き、空き地はオレンジに染まった。

 直に蒼い夜がやってくると、ボールも見えなくなる。

 

「よし、そろそろ終わろうか」

 

 さすがにこの辺が潮時だろうと、俺はそう言った。

 すでに、プリムは走りつかれてダウンしている。

 リュカにもいい加減、疲労の色が見えてきていた。


「いや、リュカ、なかなか才能があるよ」


 俺は汗を拭きながら、隅にあった土管の上に座ってそう言った。

 なにも言っていないのに、リュカは俺の隣に来て腰を下ろした。


「そうか?」

「そうだよ。マジで、こんなに呑み込みの早い人、そうはいない」

「うむ。まあ、そうだろうな。なんといっても、余だから」


 リュカは得意げに胸を張る。

 俺はくすりと笑った。


「いやー、しかし、楽しかった。今日は超楽しかったよ」

 俺は笑顔を向け、リュカと肩を組んだ。

「ありがとな、マジで。キミのおかげで、最高の一日になった」


 夕日が目に染みる。

 この心地よい疲労感。

 野球をやったんだという実感。

 今日と言う日は、こっちの世界に来て一番楽しい日になった。


「うむ。余も、なかなか楽しんだぞ。褒めてつかわす」

「そう? 楽しかった?」

「ふむ。野球というのは奥が深いの。力任せに打てばいいというものではない」

「そう! そうなんだよ!」


 俺はリュカの肩をゆすった。

 この子、本当に野球に興味が湧いているようだ。


 ああ、悔しいなあ。

 もっと人がいれば、きちんとしたチームが組めるのに――

 

 そこまで考えて、俺ははたと思いついた。

 そうだ。

 これから、チームを作ってはどうか。


 無理やりでもいい。

 メンバーは少なくても良い。

 まずは枠組みを作るんだ。


「……なあ、リュカ」

 と、俺は言った。

「キミ、俺のチームに入らないか?」

「チーム?」


 リュカは眉を寄せた。


「そう。チームだ。今作った。だから今は僕しかいないけど、絶対にメンバーを増やしてみせる」

「ふむ。なかなか面白そうだの」

「でしょ? もし入ってくれたら、リュカがメンバー第一号だ。そしてある程度人が集まったら、もっと本格的に練習を始めよう。ノックをして、キャッチボールをして、ベーランして。10人超えたら、紅白戦をやるのもいいかもしれない。道具は僕が作るよ。海賊って、結構暇なんだ」


 俺は嬉々として喋った。

 リュカとの出会いに感謝していた。

 この世界にも、こういう子もいるんだ。


 それなら――もしかしたらこっちで野球が出来るかもしれない。


「海賊?」


 ふと、リュカが怪訝そうに俺を見た。


「貴様、海賊なのか」

「ああ、うん。そう言えば、まだちゃんと自己紹介してなかったっけ」

「……どこの傘下だ」

「傘下?」

「ジュベか。チェスターか。それとも――ミュッヘンか」


 リュカは少し神妙な顔つきになった。

 すでに、さっきまでの野球少年の顔ではなかった。


「どこでもないよ」

 と、俺は言った。

「俺はキャラコって海賊団に所属してる。3大海賊とは無関係だ」


「キャラコ?」

「知らないかな。割と有名なんだけど。船長がミスティエって名前で、いつも白木綿のベスト着てる超美人」

「キャラコのミスティエ、か」


 リュカは一人ごち、何やら思案し始めた。

 聞き覚えがあるんだろうか、と俺は少し訝った。

 

 この子、一体何者だろう。

 俺は改めて思った。

 口調と言い、海賊への態度と言い、やはりただの子供ではない。


 身なりからして、少なくともフリジアのスラムエリアの住人ではなさそうだ。

 態度からして、軍のえらい人の息子か何かだろうか。

 

「よし。キャラコのタナカ。貴様を余の家来にしてやる」


 やがて、リュカはそのように言い、口角を上げながら威張った。


「け、家来?」

「うむ。光栄に思うがよいぞ」

「い、いや、ちょっと待って」


 俺は両手を突っ張った。

 さすがの俺にもプライドがある。

 シーシーのペットであるだけでも屈辱なのに――こんな子供の家来にまでなるのは避けたいところだ。


 なあリュカ、と俺は言った。


「リュカは俺のチームの一員だろ?」

「うむ。そうだの」

「なら、主君と家来なんて間柄はやめようぜ」

「それじゃあ、どういう関係がいいのだ」

「そりゃあもちろん――」


 チームメイトだ、と俺は言った。


「チームメイト?」

「そ」

「チームメイトとはなんだ」

「うーん……なんだって言われるとよく分からないけど、まあ、仲間って感じかな」

「仲間」

「そう。仲間だ」

 

 リュカはよく分からないという風に顔をしかめ、小首をかしげた。


「よく分からんが、まあよい。貴様を、余のチームメイトにしてやる」


 リュカは満足げに言った。

 うーん。

 やっぱりよく分かってないな。

 でもま、なんか嬉しそうだからいいか。

 俺は苦笑しながら、「うん」と頷いた。


「それじゃあ、今日から『チーム田中』の立ち上げだ。メンバーは俺とリュカと、それからプリム。いやあ、嬉しいなあ」


 俺は「んふー」と鼻から大量の息を吐いた。

 興奮が止まらない。

 今日俺は、野球のチームを持ったのだ。


「……ちょい待ち」


 少し離れたところで倒れているプリムが右手を上げた。


「それ……私も……入るのかしら」

「当然」


 俺はにんまり笑った。


「え、遠慮しておく――」

「さあ、それじゃあみんなでご飯でも食いに行こうか」


 俺はプリムを遮り、親指を立てた。


「食事をするのか?」

「うん。もう腹ペコだ。リュカ、何か食べたいものはある?」

「カイガ鮫の卵とコックルの実のスープが飲みたい」

「か、カイガ鮫?」


 俺はプリムを見た。


「プリム、リュカの言ってる料理が食べられる店、知ってる?」


 俺の声でプリムはゆらりと揺れながら立ち上がった。

 それからまるでゾンビのように歩きながら、俺の元に来て――


「そんな高いもの、食べたことないわよ! っていうか、どうして私がずっと球拾いなのよ! 大体そのガキは一体だれなのよ! ヤキューってなんなのよ! わけわかんない! もういい! お腹空いた! ポッチ! ごはん食べるなら、あんた奢りなさいよ!」


 ものすごい剣幕でまくし立てた。


「ご、ごめん。ごめんって」


 俺はとにかく平謝りした。

 たしかに――今日は奢ってあげないとな。

 プリムにはお世話になった。


「機嫌直してよ。次からは、プリムもバッティングさせてあげるから」

「うるさい! ヤキューなんて二度とやらないわ!」


 そう言って、ぷんぷんと怒りながら歩いていく。


「ヒステリックな女だな。ああいう女は家来にしたくない」


 背中を見ながら、リュカが言った。

 その言葉を耳ざとく聞き、プリムは踵を返した。

 そして、ずんずんと歩いて、彼の目の前までくる。

 

「生意気なガキね。年上には敬意を払いなさい」

「貴様こそ控えろ。不遜な口を叩きおって。誰の御前にいると思ってる」

「知らないわよ。誰なのよ」

「秘密だ。だが、偉いことは間違いない」

「偉いって、あんたみたいなガキが偉いわけないでしょ。ま、どうせ父親が金持ちなんでしょ。それってつまり、あんたが偉いわけじゃないないから。あんたはただの七光りだか――ん?」


 プリムはそこで言葉を止め、リュカの首元あたりを見つめた。

 そして、途端に小刻みに震えだし、みるみる内に顔が青くなっていった。


 俺は眉を寄せ、プリムの目線の先に目を移した。

 そこには何か飾りのついたチョーカーが巻かれてあった。


「あ、あんたそれ、どこで手に入れたの」

「これか? これはただの貢物の一つだ」

「み、貢物?」


 プリムは顔を顰めた。


「なになに? この首飾り、なんかすごいの?」


 俺が聞くと、「知らない方がおかしいわよ」と言って、プリムは首をぶんぶんと振った。


「この子が着けてる首飾りのこのペンダント。これ――神の魔石だわ」

「か、神の魔石?」

「そう。世界を焼くと言われる虹石(フェノーメノ)。昔博物館で見たから間違いない。この虹色に輝く光彩。詳しく鑑定してみないと分からないけど、多分、本物。もしもこれが発露したら――フリジアは火の海だわ」

「は? な、なにそれ」


 プリムは小声で「この子一体、何者なの」と呟いた。

 明らかにビビってる。

 しかし、恐怖の奥には、興味の色が隠れているのを俺は見た。

 彼女はやはり――“記者”なのだ。


「ねえリュカ。あなたさっき、これを“貢物”って言ったけど、誰からもらったの」

「これか? これはバチュアイからもらった」

「バチュアイ? ちょ、ちょっとまって、それって、あの“バチュアイ”?」

「バチュアイ=シルベストルだ」

「ひっ」


 バチュアイ=シルベストル。


 その名を聞いて、プリムは小さく悲鳴を上げた。

 小刻みに震えながら目を見開き、肩を竦め、自らを抱いた。


「やややややばい、これはやばいわ。記者生活3年。ついにやばいことにぶつかった」


 ものすごい怯え方。

 俺は小声で「だれなの?」と問うた。


 するとプリムは俺の耳に口を寄せ――


「バチュアイは海賊。それも超大物で――ジュベ海賊団の船長だわ」


 と言った。


 俺は背中に氷柱を突っ込まれたように体が冷えた。

 一瞬で汗が引き、目の前がグラグラ揺れた。


 ジュベ海賊団。

 アデル湾を牛耳る3大海賊団のひとつ。

 その中でも、誘拐、略奪、奴隷売買、麻薬密売、そして殺人に暗殺あらなどあらゆる犯罪を無差別に行う悪の権化。


 ――その船長から貢物をもらった、だと?


「さあ、さっさと行くぞ。余はもう腹ペコだ」


 リュカが前を指さして急かす。


 俺とプリムは目を合わせた。

 それからリュカに聞こえないように、小声でヒソヒソ話し出した。


「……行く?」

「……行きたくない」

「……だよな」

「……でも、私は行く」

「マジ?」

「マジ。私も記者の端くれだもの。新聞記者にとってピンチはチャンス。彼が何者なのか――確かめなくちゃ」


 プリムは顎を引き、自分を鼓舞するようにうん、と頷いた。

 俺はしばらく黙り込んだ後、「俺も行くよ」と言った。


「マジ?」

「マジ」

「多分、これ以上は関わらないほうが良いよ」

「だろうね。でも行くよ」

「どうして?」

「どうしてってそりゃあ――」


 俺はそこで言葉を切った。

 それからリュカの背中を見つめながら、


「チームメイトだからさ」


 と言った。


 

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