第34話 少年
ブンッ、ブンッ、と言う空気を震わせる音が響いている。
一定の間隔で、延々と、いつまでも続いている。
少し離れたところでプリムは折れたブロック塀の上に座り、つまらなそうにこちらを見ていた。
俺はお構いなしに、一心不乱に“バット”を振った。
ブン、ブン、ブン。
大事なのは意識すること。
ただ振る、というんじゃあ素振りは意味がない。
踏み込み、ヘッドの出し方、足のあげ方、腰の回転。
一振りひとふりに思考と工夫を重ねて振り抜くのだ。
そうすることで、初めて“練習”となる。
「ねえ、それ、何が楽しいの」
30分ほど経った頃だろうか。
やがて、焦れたようにプリムが言った。
俺はバットを止め、首から下げたタオルで汗を拭いながら「楽しいよ」と言って笑った。
「超楽しい。マジでストレス解消」
「人の趣味って、はあ、分からないものね。大体、それってなんなの?」
「これは、野球ってスポーツの練習なんだ」
「ヤキュー?」
「そう。こぶし大くらいのボールを投げて、こういう、木の棒で打つんだ」
「へえ。スポーツ、ねえ」
「そうだ。プリムさんって、新聞記者だよね。聞いたことない? このスポーツ」
「無いわ。私スポーツ嫌いだし」
「やっぱりそうか」
「ポッチーの国だと盛んなの?」
「うん。すごい人気」
「ふーん」
プリムは少し口をとがらせ、足をぶらんぶらんと揺らした。
この子、興味ないことにはとことんドライだ。
俺は苦笑しながら、もういっちょやるかと、バットを握りなおした。
それから、また素振りを再開したのだった。
フリジアという街は大きく分けると2つの地域に分かれている。
金持ちの暮らす街と貧乏人の街。
裕福な地域は川で区切られた向こう側で、地区の番号で言うと第1から第9地区。
貧困層の地域は海沿いから山間まで横(ストリート)と縦(アベニュー)の道で碁盤のように区切られていて、地区番号は第10から第53地区まである。
山間の方へ行くほど治安は悪くなり、貧困の度合いもひどくなる。
30番台を超えるともうそこは完全なスラムで、決して丸腰で入ってはならぬ危険地帯らしい。
裕福な地域は通称『楽園(プリメイラ)』と呼ばれ、貧困地域は『劣悪(ゲットー)』などとそれぞれ呼ばれている。
二つの街はさほど離れていない。
距離にしてみれば、田舎の駅で3つか4つ程度しかない。
豪華なシャンデリアでご馳走を食べているすぐ横で、飢えた子供たちが物乞いをしているわけだ。
そうして、まるで違う世界が隣同士で共存しているのだ。
俺が今いるのは17地区にある空き地だ。
ここはぐるりを工場に囲まれていて、通りからはまるで見えない。
少し騒音があるが、人目を気にせず素振りが出来て中々具合のいいこの街のエアポケットだ。
バットはお手製。
いい具合の木材を知り合いの大工に分けてもらい、それをナイフで削った。
グリップには布を巻き、それっぽく仕上げた。
実は、ボールもある。
下流の川で拾った野球ボールくらいの大きさのものを見つけて、生地屋に売っていた手ごろな厚い革で巻いた。
それから針と糸をポラから借りて、強引に縫い付けてみた。
二つとも不細工だが、それは紛れもなく野球道具だった。
いつか材料にめどがついたら、グローブも作ってやろうと俺は目論んでいる。
「お前、何やってるんだ」
夢中になって振っていると、背後から声がした。
振り返ると、そこには背の低い少年がいた。
年のころは10歳くらいだろうか。
前髪をぱっつんにしたオカッパ頭。
一瞬、女の子かと思うような綺麗な顔立ちをしている。
表情も乏しく、まるで人形だ。
一番目を引いたのは着ている服。
全身に襞(ひだ)の付いた紫色の民族衣装のようなワンピース。
腕には金色のブレスレットをはめている。
フリジアの貧困エリアにはいかにも似つかわしくない。
一目で金持ちと分かるお坊ちゃまだ。
「キミ、一人かい?」
バットを肩に乗せ、眉を寄せて問うた。
「質問に答えろ。貴様、それはいったい何やっているのだ」
偉そうな口調。
ちびっこの癖に、ものすごい上から目線だ。
「野球だよ」
「ヤキュー?」
「そういうスポーツがあんの」
俺ははあと息を吐いた。
また一から説明か。
正直、どうせ興味を持たれない事柄を説明するのは結構面倒くさい。
これまでポラやシーシーにも何度も野球のことを話したが、先ほどのプリムのように全員食いつきが悪かった。
シーシーに至っては次に野球の話をしたら殺すぞと脅してきた。
ふと、プリムに目をやる。
彼女は俺の素振りがつまらなすぎて、壁にもたれて眠ってしまっていた。
はあ。
人に何かの関心を持ってもらうことが、こんなに大変なことだなんて。
「ふむ。この国の第三階級はそのような遊びをしているのか。どれ。余にもやらせてみろ」
などと思っていたら、少年がそのように言い、興味を持ってくれた。
俺はぱあと表情を明るくした。
「しょ、少年! キミ、野球に興味があるのかい!」
「うむ。やってみたい」
「よ、よし、じゃあ、一緒にやろう! お兄さんが教えてあげるから!」
少年は「うむ」と偉そうに言うと、後ろに手を組み、ふんぞり返りながらこちらに歩いてきた。
「キミ、名前は?」
「リュカ」
「リュカ君か。いい名前だね。俺は田中陸太。よろしく」
そう言って手を差し出す。
するとリュカは「無礼者」と言って、それを弾いた。
「ぶ、無礼者?」
「そうだ。貴様、余を誰だと思っている」
「い、いや、誰なの?」
「それは言えん。だが、偉いのは間違いない」
「なんだよそれ!」
「ふむ。信じられんか」
「そういう問題じゃない。いや、というか、そういうのは別にどうでもよくて」
「どうでもいい?」
「うん。とにかく、リュカ、キミは野球に興味があるんだろ?」
「ある」
「じゃあ、野球をやろう。身分なんて関係ないんだから」
リュカは顎を上げた。
それから俺を値踏みするように眺めた後、「よかろう」と言った。
何この貫禄。
あんた一体何歳なのよ。
「ま、まあいいよ。とにかく、まずはバットを振ってみよう」
そう言って、俺はバットを差し出した。
リュカはうむと頷き、少し笑った。
うん。
言動はともかく、笑顔はちゃんと子供らしいじゃないか。
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