第30話 ポチとミスティエ
「あぁ?」
ミスティエが振り返った。
「ポチ。てめぇ……今、なんつった」
心臓が止まるかと思った。
地獄の門番のような表情だった。
こ、この人、なんつー怖い顔が出来るんだ。
いつもはチャーミングな八重歯も、今はサーベルタイガーの牙に見える。
だが――俺はさらに続けた。
止まっちゃいけない。
一度止まると、絶対に動けなくなる。
俺は左手の中指を立て、
「う、うるせえ! テメーが俺のいうことを聞かねえからだ! い、言っとくが、怖かねえぞ! かかって来いよ、この糞ビ〇チ野郎!」
海原に声が響き渡るほど叫んだ。
キースもシーシーも、エリーまでも驚きの表情を浮かべている。
こいつ――ついにトチ狂ったか?
全員が、そんな表情を浮かべている。
船上は一転して静かになった。
俺はぶるぶると小刻みに震えていた。
カチカチと鳴る奥歯がうるさい。
「……死にてぇようだな」
目の前の鬼――いや、ミスティエがゆらり、と揺れた。
かと思うと、いきなり姿を消し、突然、俺の目の前に姿を現した。
そして、俺の喉元を掴んだ。
「ガキが。調子に乗って舐めた口きいてると、この首引きちぎるぞ」
「ず……ずびばぜん」
「今さら謝って済むか馬鹿野郎」
「でぼ、おでにも言い分があっで」
「言い分だと? は。しょんべんくせえガキがいっちょ前な口を叩くな」
「ずびばぜん……でぼ――ぎいでほじいんでず」
「聞くまでもねえ。テメーの言いそうなことはもうわかってる」
「おねがいじまず。おねがいでず」
俺は必死に懇願した。
右目から涙が出た。
それを合図にしたように、今度は両目から一気にそれがあふれ出した。
命を賭けると、ツヴァイに約束したんだ。
「船長(ぜんぢょう)、下(じだ)を見に行ってぐだざい。おでがいじばず。奴隷だぢを見でぐだざい。あどひどだぢを――」
だずげであげでぐだざい、と俺は潰れる喉で言った。
ミスティエは表情を変えなかった。
不機嫌そうに、苛立った顔のままだった。
そこまでが限界だった。
喉を圧迫されたせいでほとんど息が出来ず、意識が朦朧とし始めた。
やはり――届かなかった。
死の天使と呼ばれたキャラコには、俺の想いなど何の意味もなかった。
「……チッ」
そのように観念したとき。
ミスティエが小さく舌打ちをした。
そしてその時、俺は確かに見た。
ミスティエの瞳が微かに揺れるのを。
ほんの一瞬だったけど――たしかに揺らいだ。
「――がぅ」
身じろぎをして、俺は言葉を発しようとした。
だが、それは言葉にはならず、ただの雑音(ノイズ)として霧散した。
もう言葉も紡げない。
意識は徐々に薄れていき、目の前はどんどんと暗くなっていく。
駄目だ。
今、気を失っては絶対にだめ。
最大のチャンスなんだ。
ミスティエを説得する、最初で最後の――
「なーなー」
と、その時である。
朦朧とした意識の中、シーシーの声が聞こえてきた。
目をやると、彼女は、ミスティエの袖をツンツンと引いていた。
「なんだ」
「あんなー、うちなー」
「なんだ」
「うち、ポチが死んだら嫌なんだけど」
「うるせぇ」
「うちなー、うちなー」
「しつけーぞ」
ミスティエに言われ、シーシーは目を伏せた。
だが、掴んだ袖は離さない。
「うち、上手く言えないんだけど……」
シーシーは胸に顎がつきそうなくらいに俯いた。
「ちょっとだけ、ポチの話、聞いてやってくれんかなー」
悲しそうにそう呟き、口を尖らせる。
ミスティエは、いよいよ不機嫌な顔になった。
怒りを凝縮してぐつぐつと煮詰めたような面相。
触ると破裂して、船ごと爆発してしまいそうだ。
だが――その表情とは裏腹に、彼女はふと、俺の首を掴む力を緩めた。
そしてほとんど同時に、ミスティエはちらりと視軸をよこにずらした。
その目線の先には、倒れたままのポラの姿があった。
「ったく、面倒くせぇ野郎どもだ」
吐き捨てるように言い、彼女は俺を投げ飛ばした。
俺はボテッと甲板に転がった。
すぐに自らの首元を抑えたままゲホゲホと咳き込み、ひゅーひゅーと音が漏らしながら息を吸い込んだ。
や、ヤバかった。
今のはマジで死ぬかと思った。
「おいポチ」
ミスティエは俺をねめつけた。
「テメーに3分やる。それでだめなら諦めろ」
いいな? と凄む。
ぞっとするほど美しい三白眼。
俺は刹那、金縛りにあったように動けなくなった。
それは恐怖なのか畏怖なのか――それとも場違いに見惚(みと)れていたのか。
一瞬のことで、判然とはしなかった。
「……分かりました」
俺は立ち上がった。
すー、と深く呼吸をして息を整える。
そしてミスティエの方へ3歩だけ歩み寄り、宣言するようにこう言った。
「俺はこれから、命がけであなたを説得します」
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