第29話 帰還
「ど、どういうことです?」
メドアが手を広げて問うた。
「計画を全て白紙戻す、ということだ」
ツヴァイはぴしゃりと答えた。
「我々はこれから、直ちに進路を変え、接岸するための陸を探す」
「陸を探すって――一体どこに」
「どこでもいい。接岸し、そこから小型ボートを使って彼らを逃がす」
「馬鹿な! それじゃあ、奴隷たちはどうするんだ」
「まずはこの3人を解放することを優先する。そうする以外に、キャラコ海賊団から逃れる術はない」
「しかし」
「ミスターキースの言ったことは、全て脅しということはないだろう。ミスティエという女の噂は私も聞いている。彼女を怒らせるべきではない」
「だが、ここまで来て」
「いいから舵を切れ。命令だ」
メドアは見るからに不服そうだった。
しばらくそうして睨みつけるような眼で見ていたが、やがて、力なく「はい」と頷いたのだった。
「すまないな、メドア」
ツヴァイは眉尻を下げた。
「お前たちも、もはやウェンブリーには戻れなくなってしまった。私のせいだ」
「……私らのことはいいです。でも、彼らは」
「どうにかする。するしか――ない」
ツヴァイはいっそ吹っ切れたような迷いのない眼差しを向けた。
メドアは目を伏せ、しばし黙考した後、「分かりました」と顎を引いた。
彼はようやくキースへの戒めを解いた。
キースは「ったく、いてえな」と右腕をさすりながら文句を言った。
「ツヴァイさん」
俺は銃を降ろした。
「それで、いいんですか?」
「ああ」
「会社はどうするんですか」
「無論、このまま退社する。心配しないでくれ。私にも同士がいる。フリジア以外にも、心当たりがなくもない。奴隷(かれ)らには、とりあえずそこへ行ってもらう」
「それで……大丈夫なんですか」
「さてね。かなり危険なことには変わりないが、成り行き上、仕方がない」
ツヴァイは肩を竦めて首を振った。
俺は「あの」と声をかけた。
「あの、僕に出来ることはありませんか」
「君はキャラコの一味だ。立場上、これ以上私たちに干渉しないほうが良い」
「しかし、こうなってしまったのは僕の責任だ」
「君に責任はない」
ツヴァイは短い息を吐いて笑った。
「うぬぼれちゃいけない。責任を取るのはもっと上の立場の人間だ。私やミスティエさんのような、ね」
「……ツヴァイさん」
「ああそうだ。ミスティエさんの所に戻ったら、彼女たちに謝っておいてくれ。騙して悪かったと」
ツヴァイはそう言い、海原の方へ目を移した。
ほとんど同時に、船首が右側へゆっくりと動き出した。
俺はポラに駆け寄った。
意識はないが、呼吸は正常だ。
スースーと寝息を立てている。
どうやら力を使い果たして気を失っているだけのようだ。
「少しだがお金を渡しておくよ。陸に着いたら、それでフリジアに向かうと良い」
ツヴァイは右手を上げて、踵を返した。
それから彼は胸を張り、ゆっくりと操舵室に向かって歩きだした。
――よう、どこに行くんだよ
と、その時だった。
少しドスのきいた、だが、どこか華やかで澄んだ声音が船上に響いた。
「この有様は一体どういうことだ? 説明をしてくれなきゃ困るぜ、専務」
ミスティエだ。
「船長!」
「ミスティエ!」
俺とキースはほとんど同時に言い、振り返った。
そこには、船楼の屋根から俺たちを見下ろすミスティエの姿があった。
ツヴァイは目を大きく開き、ごくりとつばを飲み込んだ。
みるみるうちに汗がにじんでいく。
そして、ぐらりとよろけた後、小さく「帰って来ていたのか」と呟いた。
Ж
ベント=ツヴァイには、その時のミスティエが死神に見えた。
彼女の背負う身の丈ほどもある大剣は、さながら私たちの首を刈る鎌だ。
ミスティエは私を殺し、下にいる奴隷たちを地獄へ連れて行く案内人なのだ。
強烈な予感に身が震えた。
死神に感情はない。
善も悪もない。
彼女は科せられた仕事を淡々とこなすだけ。
いくら許しを乞うても聞く耳を持たない。
出会ってしまえば、もはや逃れる術などないのだ。
思えば最初に出会った時、彼女と握手をした瞬間から、ツヴァイは嫌な予感がしていた。
ミスティエのあの瞳。
少しの隙も見逃さぬという如才のなさで満ちていた。
綻びは至る所にあった。
強引に事を運んでいたため、些末な掛け違いが残っていたのだ。
ただ、それは小さな瑕疵(かし)のはずだった。
フリジアへ着くまで3日間。
大人しくしていれば絶対にバレない程度の穴だった。
だが、相手が死神ならば仕方がないのか。
私の計画は失敗する運命だったのか。
ツヴァイは力なく笑った。
彼はこれまで、さまざまな方法を用いて奴隷たちを解放しようと尽力してきた。
だが、すでに出来上がってしまったシステムは変えようがなかった。
利権を握る鵺(ぬえ)たちに、普く計画をつぶされてきた。
だからこのような強硬手段に出たのだ。
しかし――今度もまた失敗してしまった。
ツヴァイは十字を切り、天を仰いだ。
神のご意志は本当に読めないものだ。
なぜ――なぜ。
なぜ主は、罪のない人たちを助けることへ、これほどまで反対なさるのか。
右の眼から涙が一筋、つと流れ落ちた。
紺碧の空にはカモメが2羽、気持ちよさそうに飛んでいた。
だが――
このまま無抵抗でいるわけにはいかない。
そう。
私には、最後まで戦う義務がある。
ツヴァイは目を見開き、血が滲むほど奥歯を噛み締めた。
このままでは今回の計画に乗ってくれたみんなに申し訳が立たない。
なによりも――自分を信じ、希望を抱いて船に乗っている“彼ら”に。
Ж
「……キャラコ」
ツヴァイは足元を踏ん張らせ、ミスティエを睨みつけた。
「いつの間にこの船に戻っていたんだ」
ツヴァイの顔は青ざめていた。
俺には、その表情が絶望に彩られているように見えた。
「なんだ、その顔は。帰ってきちゃまずいのか」
「いや、そんなことはないが」
「説明しろよ。うちのクルーが二人も負傷してるじゃねえか。一体、何があった」
ミスティエは顎を上げ、俺たちを睥睨した。
口の端に微かに笑みを浮かべている。
この人は全てを察している。
俺はそう直感した。
どこから聞いていたのかは知らないけれど――あの目は全てを見通している。
俺はチラとツヴァイを見た。
すると彼は、微かに唇を動かした。
それは「すまない」と言っているように見えた。
と、次の瞬間。
ツヴァイは突然、俺から銃を奪い、俺を羽交い絞めにした。
それからこめかみに銃口をあて、
「動くな! 少しでも動いたら、この少年を殺すぞ!」
震える声で、そのように脅した。
ツヴァイの立場からすると、もはやこれしか方法はなかった。
俺を人質にして、彼女に引き返してもらうしか。
ミスティエは「へぇ」と呟き、顎をさすった。
「ミスティエさん。悪いが、契約は全て反故にさせてもらう」
「反故?」
「もう君たちとは何の利害関係もない。私たちはこれから陸へ向かう」
「つまり、あたしたちにお前を見逃せと頼んでいるのか」
「頼んでいるわけないじゃない。これは命令だ」
ツヴァイはそう言って、ゴリ、と銃口を俺に強く押し付けた。
「駄目(ノー)だね」
ミスティエは言った。
「お前が言っていることは悉く否だ。お前はあたしたちを騙した。そして一方的に契約を破棄した。そんな無法が通ると思うか馬鹿野郎」
「通る。通らせる」
「うるせえ。お前は身柄を確保し次第、ムンターへ戻り、警察へ突き出す」
「こいつが――タナカが死んでもいいのか」
ツヴァイは銃のグリップで俺のこめかみを殴った。
「私は――本気だ」
ミスティエはまるでつまらないものを見るように顎を上げた。
それから「よくねーな」と言って、首を横に振った。
「そいつはうちの乗組員だ。あたしの財産(もちもん)だ。勝手に壊されたらムカつくね」
「そ、それじゃあ言うことを聞け」
「は。声が震えてるじゃねーか。慣れないことをするもんじゃねーぞ、専務」
そう言うと、ミスティエは小さく顎をしゃくった。
同時にパチュン、という銃声がして、彼の手から銃が弾かれる。
ツヴァイは「ぐあ」と小さく呻いた。
「にっしっしー」
ミスティエの肩から、シーシーの顔が覗いた。
右手には小型の拳銃を持っている。
これで、ツヴァイには銃も人質もなくなった。
勝負あり、だ。
「お前の敗因を教えてやるよ、ツヴァイ」
と、ミスティエは言った。
「お前には、覚悟が足りねえんだ」
「覚悟、だと」
「そうだ」
「ふざけるな。私は全てを投げうつつもりで」
「なら、どうしてこんなコソコソするような真似をした」
ツヴァイを遮り、ミスティエは続ける。
「お前は常々、こう思ってたはずだ。なにがあっても、自分はウェンブリー社の役員という立場は守る。それは自らの保身のためではなく、これからも奴隷解放に尽くすため、自分はその地位にいる必要があるのだ、と。だから今回のような面倒くさい計画を立てた。だがな。構築された体制を壊そうと思ったらそんなぬるいことは言ってられねえんだ。“いい人”でいようとすることは出来ねえんだよ。ルールというものは、人々から非難され、罵倒され、泥を被らなきゃぶち壊せねえんだ」
ツヴァイは目を見開き、呆けたように聞いていた。
だがやがて顔を伏せ、「私の負けだな」と呟いた。
「どうやら、私は最初から間違っていたようだ。手を組むなら、あなたのような悪(ワル)と手を組むべきだった」
「は。シャバに出て来れたら訪ねて来い。3割引きで請け負ってやるよ」
ミスティエは肩を竦めた。
やはり、彼女は全てお見通しだったわけだ。
格が違う、と俺は思った。
「さあ、一件落着だ」
ミスティエはポケットに手を突っ込んだ。
「キース、少し話がある。操舵室へこい」
「命令すんな、ボケ」
キースは口調とは裏腹に少し嬉しそうだった。
「それからポチ」
ミスティエは俺を見た。
「お前は右手の手当てが終わったら、シーシーと一緒にこいつら全員を縛り上げておけ。エリーはポラを介抱しろ。落ち着いたら、ウェンブリー社へ違約金を要求する書類を作らせるんだ。船がムンターに着くまでにな」
抑揚無くテキパキと指示を出し、踵を返す。
その背中を見ながら、俺は言い知れぬ焦燥感を感じていた。
一件落着?
いいや、違う。
まだ、何も解決していないじゃないか。
このままでは――奴隷たちはまた地獄へ逆戻りだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は叫んだ。
「船長! 僕の――いいや、“俺”の話を聞いてください!」
ミスティエは半身だけ振り返った。
「なんだ」
「お願いです。この人たちを見逃してあげてください」
「駄目だ」
「お願いします。お金の問題なら、俺が肩代わりします。一生タダ働きでいいですから」
「金の問題じゃねえんだよ」
案の定、一刀両断される。
しかし――
俺はあえて、一歩前に足を出した。
脳裏に、先ほど見た船倉の光景が瞬いた。
ここで引き下がるわけには行かない。
罪もないのに苦しんでいるあの人たちを、見殺しには出来ない。
「それじゃあ、何の問題ですか」
俺はミスティエを睨むように見上げた。
「船長。あなたは前にこう言っていた。あたしたちは金が全てだって。それなら――お金で解決してあげてもいいじゃないですか」
ミスティエは少し驚いたように目を見開いた。
「ポチ。お前、このあたしに口答えすんのか」
「はい」
「あたしはお前のボスだぞ」
「分かってます。でも俺は――船長(あなた)に逆らってでも、あの人たちを助けてあげたいんです」
「うるせえ。お前は黙って言うことを聞いておけばいいんだ」
ミスティエはそれだけ言い残し、再び踵を返した。
すたすたと船尾楼の方へと歩いていく。
駄目だ。
このままでは絶対に。
俺は拳を握り、唇を噛み締めた。
ずきり、と血だらけの右手が痛んだ。
その痛みで、“覚悟”を決めた。
ミスティエの背中をねめつけ、すー、と息を吸った。
「ちょ、ちょっと待てよ、この野郎!」
俺は思い切り怒鳴った。
慣れない言葉を、腹の底から、力の限りに叫んだ。
「ちょっとは俺の――俺たちの話を聞けよ、このクソ野郎!」
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