第13話 20×0年。ニ月十九日。イタリアの医療事情。

 娘のサラからビデオチャットがかかってきた時、家には京子だけではなく大学から帰ってきている長男のマルコもいた。


 マルコは現在、医学部の2年だ。医者になるには医学部に6年通い、更に外科医としての専門コースで学ぶのに6年かかる。マルコはかなり優秀だと言われているので最短で卒業できそうだが、多くはそれよりも長い年数で卒業するので、どうなるかは分からない。


 それでも日本人である京子にとっては、マルコが父と同じ医者を目指すというのは嬉しい事だった。


 特に外科医は、訴訟のリスクが高い。


 京子の夫であるマリオが訴えられた事はないが、同僚が患者から訴えられたという話は聞いた事がある。裁判の結果、不当な訴えとされて無罪になったが、必死に治療した患者から裁判を起こされたという精神的なダメージから立ち直る事ができず、結局その同僚は医者を辞めてしまったそうだ。


 同じようなケースは他にも聞いた事がある。


 最低でも12年間、学校で学んで外科医となっても、常に訴訟のリスクがつきまとう。

 その結果、外科医を希望する学生が激減して、毎年の外科医希望者は約3割ずつ減っている。


 更にイタリアは欧州連合EUが求めた財政緊縮策として医療費削減を進め、公立病院の統廃合や医師の給与カットを進めている。


 では一般開業医はどうかというと、イタリアでは地域の保険局ASLの管轄にある医者をホームドクターとして届けると保険証が発行されるという仕組みになっている。


 医者ごとに患者が登録され、1登録につきいくらという風に報酬が決まっていて、一人の医者が最大1500人までを受け持つ事ができる。


 報酬は、患者の負担はなく無料なので、治療内容、人数、日数に関係なく、登録している患者の数で決まる。最大登録者数で大体25万円程度だろうか。


 諸経費を引くと生活をしていくのにやっと、という金額になるので、小さな診療所には待合室と診察室だけで、秘書も看護師もいないという所がほとんどだ。医療器具も聴診器と血圧計くらいしか置いていない事が多い。


 しかも人口に占める医師の数は日本よりかなり多く、医師過剰と言われている。「イタリアに行くと失業した医者がタクシーの運転手をしている」と言われているのは、噂ではなく事実だ。


 マルコの同級生で優秀な生徒は、医者ではなくITや金融を目指す者が多い。能力に見合った報酬を得ようと思うなら、医者では難しいからだ。


 その気持ちが分かるだけに、マリオも京子も、息子が医者にならなくても良いと思っていた。

 けれどマルコは、大学進学の際に父を尊敬しているので医者を目指すと言った。


 父の宝物である日本の医療漫画を読んで泣いていたのが一番の原因かもしれないが。

 つまり、血は争えないという事である。


「サラ、日本は大変みたいじゃないか。イタリアに帰ってきたらどうだい?」


 マルコは京子に似て黒髪黒目だが、その顔は父のマリオによく似ている。日本とイタリアの血を受け継いでいるはずだが、性格も陽気で明るく、どこからどう見てもイタリア人にしか見えない。


「うん……。相模原でも先月入院した人が亡くなって、調べてみたら新型肺炎だったんだって。その人が入院してた病院で院内感染が起こったみたいで、何人か新型肺炎の患者さんが出てる」

「感染力がかなり高いな……。今日からクルーズ船の乗客で検査の結果が陰性だった人たちが下船するんだっけ? 乗客乗客2666人のうち、621人が感染か。クルーズ船の中では感染病が蔓延しやすいといっても、この数は多すぎるよね」


 マルコはビデオチャットをしているPCとは別の、自分用のPCを横に置いて日本のクルーズ船の状況を検索しながらサラと会話をしている。


 一応日本語も読めるが、難しい漢字があると読めないので、隣に座る京子に訳してもらっている。


「そうなの? インフルエンザくらいの感染力だって言ってるけど」

「同じくらいの感染力だって、かなりのものだよ。一人の患者が二人から三人に感染させちゃうからね。そのまま増えたら大変な事になる。今のところ、死亡患者は高齢者か持病のある人に限るって書いてあるね。ああ、武国語も勉強しておけば良かったな。そっちのサイトにアクセスすれば、もう少し分かるかもしれないのに」


 マルコの通う大学にも武国人の留学生はいるが、医学部には一人もいない。武国人に人気の学部は工学部や建築部で、多くの武国人が留学しているのはイタリアの誇る美術大学や音楽大学だ。


「学校はまだ休校にならないの?」


 マルコの横から京子が心配そうに尋ねる。サラが通っているのは京子の母校である私立学校だ。幼稚園から大学まである学校で、進学校というわけではないが、のんびりとした校風の良い学校だ。


「まだみたい。私立なんだから、早く休校にすればいいのに、って皆言ってる」

「やっぱりこっちに帰ってきたほうがいいんじゃないの?」


 そう言う京子に、サラはチラリと机の片隅を見た。そこには今お気に入りの漫画が載っている雑誌の最新号が置いてある。


 ちょうど今クライマックスで、続きを見逃したくない。


「とりあえずまだ様子みようかな。あっ、マスクとかアルコール消毒があればこっちに送って。ドラッグストアにも全然売ってないの」

「もちろん。たくさん送るわね」


 イタリア人は風邪をひいてもマスクをするという習慣がないから、ドラッグストアにはマスクがたくさん売れ残っている。


 マスクどころか、イタリアでは鼻をかむのにティッシュではなくてハンカチを使うという習慣に衝撃を受けたものだ。


 日本人の京子には到底耐えられなくて、実家からは箱いっぱいのポケットティッシュを送ってもらっている。送料を考えるとかなり高くつくが、鼻水まみれのハンカチを洗濯するよりましだ。


 サラとの会話の後に、せっかくマルコもいるのだからと、実家の両親ともビデオチャットをすることになっている。


 京子はその時にまたポケットティッシュをたくさん頼んでおこうと思った。

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