第12話 20×0年。ニ月八日。日本。メガファーマ。

「しかし、そんな名前のインフルエンザ治療薬は聞いた事がないな」

「それはそうでしょう。一般に流通してませんから」

「流通してない?」


 黒木は驚いて聞き直した。

 それほど効果の高い薬が使われてないというのは、到底信じがたい。


「調べてみましたら、ちょうど他のインフルエンザ治療薬が少し前に開発されていて、特に必要とされなかった、というのが建前ですね。実際は、巨大製薬企業メガファーマの圧力により販売までこぎつけなかったようです」

「ふむ」


 製薬業界では、巨大製薬企業のように莫大な資金を使って新薬を開発できない会社が利益を上げ辛くなってきている。


 そうした技術を持つが資金力のない製薬会社を買収し、巨大製薬企業はどんどん大きくなっていっている。


「でも政府もその効果は無視できなかったようで、毒性の強い新型インフルエンザが流行した時に備えて、二百万錠を備蓄しているようです」

「なるほど。効果の程は政府のお墨つきという事か」


 そう言って黒木は知事室の窓の外を見た。


 冬晴れの雲一つない空が広がっている。知事室からは本牧と大黒ふ頭を結ぶベイブリッジが見える。その向こうに、新型肺炎の患者を数多く持つ、巨大豪華客船が停泊している。


 生活に余裕のある乗客がのんびり楽しんでいた豪華客船での旅は、その最後に予想外の事態に陥ってしまった。


 武国の湖西市を封鎖するほどの新型肺炎のウイルスが蔓延し下船する事ができず、何が起こっているのか分からないまま船室に閉じこめられている者も多い。


 日本語も英語も通じない乗客もいる中、厚生労働省の職員、神奈川県と横浜市の職員、そしてDMATの医療チームは一丸となって対応に当たっている。


 だが感染者は日を追うごとに増え、「船はウイルス培養皿と同じ」とまで言われるようになってしまった。


 政府の後手後手の対応に、世間の批判の声が高まる。マスコミも政府を非難するような事ばかり取り上げて、こうして懸命の努力をしている黒木達の事など、報道する素振りもない。


 黒木はふと、そのやるせなさを、多くのウイルスを治療する薬を開発していながら、表に出す事ができなかった製薬会社の社員たちも感じたのだろうかと考えた。


「望月。忙しいところ済まないが、その薬について調べてくれないか。もし効果があるのなら神奈川県が主導して治験してみよう」


 現在、この新型肺炎には治療薬という物が存在しない。


 SARSと同じコロナウイルスではあるが、未知のウイルスであり、一部にはHIVと似た遺伝子を持つという報道もある。


 そこでHIV治療薬や、別の感染症であるマラリアの薬を投与して治療しているが、思ったような効果が出ていないというのが現実だ。


 黒木は、この「アティオズ」という名前の治療薬が新型コロナウイルスに対する特効薬となりうるかどうか、その可能性に懸けてみたいと思った。


「他に何か気になった情報はあるか?」

「武国の情報ですが、アウトブレイクの可能性にいち早く警鐘を鳴らしていた湖西市の医師が、新型肺炎に感染して亡くなったそうで、武国の英雄として祭り上げられていますね。そして封鎖された湖西市の様子を伝えていたジャーナリストや学生が当局に逮捕されています。感染したので隔離したという発表があったそうですが、信じている者はいないでしょうね」


 おそらく行方不明のまま消されてしまうのだろう。今までもあった事だ。

 命の危険があったとしてもなお、国民に真実を告げなければという使命感に燃えたのに違いない。


 黒木は、その行動を若いなと思う。


 だが若いからこそ、がむしゃらに自分が正しいと思った事に命を懸けられるのだろう。


 黒木には既にその無謀ともいえる若さはない。だが、知事という職にある自分だけにしかできない事があるなら、それを全うするのが真の政治家という物だ。


「この新型肺炎は高齢者しか重症化しないというデータになっているが、それも怪しいな」

「現地の情報はデマも多いので中々実際がどうなのかという判断が難しいところではありますね」

「急ぎ、PCに詳しい者たちを集めて『情報収集チーム』を作らせろ。海外の情報も全て分析するんだ」


 このまま官邸や厚生労働省に任せていては、対応が遅れてしまう。

 彼らは彼らなりに最善の道を考えてはいるのだろうが、施策を決定するまでの時間がかかりすぎる。


 このクルーズ船内部での感染の拡大、湖西市の封鎖、そして武国の、感染は封じこめているという発表により春節の休暇で世界中に散らばった武国人。


 ここでしっかり食い止めなければ、おそらく大変な事になる。


「それからアティオズを開発した製薬会社とのアポイントを取ってくれ。効能を詳しく聞きたい」

「承知いたしました」


 一礼して各所に連絡を取るべく部屋を出た望月を見送った黒木は、立ち上がって窓の外を見た。

 青い空にカモメが一羽、飛んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る