第11話 20×0年。ニ月八日。日本。AtoZ。

 日本のマスコミでは連日クルーズ船の話題で盛り上がっていた。


 1月20日に横浜を出港したクルーズ船の日程は、16日間かけて香港、ベトナム、台湾を巡り、2月4日に横浜へ戻ってくるものだった。


 だが1月25日に香港で下船した乗客が1月23日から風邪の症状を表した。1月30日になると高熱を発した為に検査した結果、新型肺炎の陽性反応が確認された。


 そのため日本政府は、当初の予定より一日早い2月3日に横浜港へ帰港したクルーズ船に対し、クルーズ船の乗客2666人、乗員1045人、合計3711人の乗員乗客全員の下船を許可しなかった。


 だがこの時点でクルーズ船の人々をどうするか、まだ何も決まっていなかった。


 そこで動きの遅い官邸に業を煮やして迅速に動いたのが、神奈川県知事の黒木修造だ。


 黒木は医師と検疫官を派遣し、2月3日からの二日間、全乗員乗客の健康診断を実施し、症状のある人とその濃厚接触者に対しては新型肺炎の検査を行った。


 このクルーズ船の船籍はイギリスにある。横浜港を母港として登録をしているが、国際法では公海上の船舶は所属国が取り締まる「旗国主義」という考え方をとるので、公海上ではイギリスに責任がある。


 クルーズ船の場合も、横浜に帰港する前にイギリス政府が感染拡大を防止する責任があった。


 だがアメリカにある船会社もイギリス政府もこの問題には沈黙を貫く。


 後に船会社の幹部が語った事によると、人道的配慮でクルーズ船を横浜港に帰港させ、全ての責任を日本政府に取らせるつもりだったという。


 だがクルーズ船での新型肺炎の集団感染という前代未聞の状況に、神奈川県知事及び厚生労働省は試行錯誤しながら最善の道を探り、事態の収拾を試みる。


 最初の検疫で新型肺炎の陽性になった乗客はすぐに神奈川県内の病院へ搬送されたが、それ以外の乗客は二週間、船内で待機した後に下船するという事になった。


 それでも船内での新型肺炎の陽性患者は日々増えていき、船内で体調を崩すものも多かった。


 元々クルーズ船でのんびり旅行を楽しむのは、リタイアした富裕層が多かったことから、そういった層に対する注目もあり、ワイドショーでは連日その話題で盛り上がっていた。


 厚生労働省はDMATディーマット(災害派遣医療チーム)と呼ばれる、専門的な訓練を受けた医師・看護師などからなり災害発生直後から活動できる機動性を備えた医療チームを派遣し、陽性患者が次々と増えていく中、マニュアルもなく試行錯誤しながら懸命な医療活動を行った。


 神奈川県知事の黒木はクルーズ船との連絡を任せている秘書の望月からの報告を聞き、こめかみを指で揉んだ。


「また陽性患者か……。県内の病院ではもう無理だろう」


 新型肺炎に罹患した患者は、病院の陰圧室で治療を受ける。陰圧室というのは特別な空調設備を設置していて、部屋の中の空気圧が部屋の外より低くなるように設定されている。


 そうすると、例えば病室のドアを開けた際に、廊下側の空気が部屋の中に吸い込まれる。

 つまり、病室の中の汚染された空気が、外には漏れないような仕組みになっているのだ。


 だが陰圧室の数は多くない。できる限り県内の病院でクルーズ船の患者を受け入れてもらっているが、クルーズ船の乗客以外にも患者はいる。


 むしろ神奈川県知事として、県民の患者がきちんとした治療を受けられなくなるというのは本末転倒だ。


 できれば他県でも患者を受け入れてもらいたいと、厚生労働省には陳情している。


「その件ですが、静岡の病院で四名受け入れの承諾を頂きました」

「そうか。それは良かった」


 黒木は黒い革張りの椅子に深く背をもたれて天井を見上げる。


 クルーズ船が横浜に帰港してからというもの、休む間もなく忙しい。


 そもそもクルーズ船の乗客は神奈川県民どころか、日本国民ですらない者も多い。けれどもその人々を、指定感染病を予防するという観点から公費での負担をして治療している。


 県民から頂いた大切な税金を、県民ではない人々の治療に使う。

 理不尽なものを感じるが、これも港町を擁する自治体の宿命だ。


 人の命を見捨てるわけにはいかないのだから、国や横浜市と連携して乗り切らなくてはならない。


 黒木は、望月から何か新しい情報はないかと尋ねた。


 政治家としてはまだ若手と呼ばれる黒木は、SNSでの情報の収集を部下に命じている。

 もちろん間違った情報も多いが、現場にいる者にしか分からない情報が発信されるなど、取捨選択すればとても魅力的なツールだ。


「クルーズ船内部の乗客は比較的落ち着いているようです」

「ふむ。それは良かった。クルーズ船に対する海外の反応はどうだ?」

「概ね日本政府の対応に好意的ですね」


 初動の成果は日本政府ではなくほぼ神奈川県と横浜市の職員による奮闘のおかげだが、評価されているなら良しとしよう。


「他に何かあるか?」

「気になったことがあります。先日のテレビで感染症の専門家である白川教授がコメントしていたのですが、そこでアティオズというインフルエンザ治療薬が効くという話をしていたVTRをSNSにアップすると、なぜかすぐに削除されてしまうと一部で話題になっています」

「どういう意味だ?」


 黒木が怪訝な顔で望月を見ると、彼は「分かりかねます」と生真面目に答えた後に話を続ける。


「権利者による違反申し立てで削除されているという事です。ただ、芸能人ではなく、単なるコメンテーターとして発言した教授の発言をSNSにアップしただけで削除されるというのも、おかしな話だと思いませんか」

「どこかから圧力がかかったのか」

「可能性はゼロではありませんね」


 マスコミは自分の流したい情報だけ流す事も多い。だが生放送の場合、うっかり話してはいけない事を喋ってしまうといった事態も起きる。


「その番組のスポンサーに製薬会社がいました。その関係かもしれません」

「となると、その薬は本当に聞くのかもしれないな。何といったか……」

「アティオズです、知事」

「変わった名前だな」

「本来はAtoZにしたかったみたいですよ。RNAを複製して増えるタイプの全てのウイルスに効くという意味でね」

「RNAを複製する?」


 聞き慣れない専門用語に黒木が聞き返すと、望月はすぐに手帳を取り出して説明する。


「ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに分かれます。DNAウイルスが原因の主な病気は水疱瘡やB型肝炎などですね。RNAウイルスの方が種類が多く、インフルエンザ、コロナウイルスなどになります。この全てのRNAウイルスの複製を阻害する効果があるという事になったら、画期的な事ですよ」

「なるほど。ティOZオズか」


 黒木は、薬にしてはなかなかシャレた名前をつけるものだと感心した。




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