第8話 20×0年。一月二十三日。日本、神奈川県相模原市。

 武国の湖西市で流行している新型肺炎は収束する気配を見せず、逆に他の国でも感染報告が次々と上がっていった。


 日本でも湖西市から観光で来たツアー客を乗せたバスの運転手が、新型肺炎に罹って入院している。


 今のところ日本での感染例はその一人だけだが、武国からやってくる観光客の数からすると、もっと多くの患者が現れてもおかしくない。


 マスコミでも新型肺炎のニュースを伝えるようになり、人々は目に見えないウイルスというものに漠然とした不安と恐怖を抱え初めていた。


 その不安から、マスクの買い占めや消毒薬の買い占めが始まり、薬局の棚からはそれらの商品が消えていった。


 テレビでは武国人が買い占めて転売しているのだと、より人々の不安を煽る報道をしている。


 だが新型肺炎はインフルエンザと変わらない季節風邪だという専門家のコメントに、人々は対岸の火事として湖西市の様子を見ていた。


「大村、あっちの様子はどうだ?」


 中島はPCでニュースサイトを巡回しながら、メールを開いて唸っている大村に声をかけた。


 製薬会社では研究する際にマスクと消毒薬は必需品だ。ある程度の備蓄はあるが、これ以上買い占めが起こればどうなるか分からない。


 なにしろ日本で流通しているマスクの生産地は、武国である事が多い。


 だがその武国でマスクの買い占めが起こっていて、輸出せずに国内に回せという上層部の指示が出ているという噂だ。そうすると、このままの状態が続けば、いずれ日本でも慢性的なマスク不足に陥るだろう。


「湖西市の知り合いが、街が封鎖されるかもって言ってます。そうなったら交通機関が全部止まるから、その前に逃げ出そうとする市民で電車が大混雑してるとか」

「封鎖するんなら、あらかじめ告知するんじゃないのか? 湖西市の人口は……千四百万人か。東京が九百万人くらいだから、かなりの大都市だな。それだけの人口がいるのに、いきなりの封鎖は無理だろ」


 武国は、最近は開かれた政府を目指しているはずだ。一昔前ならともかく、いきなりこれから都市を封鎖しますなんて真似はしないだろう。


 そう考えていた中島は、ニュースサイトの速報を見て思わず声を上げた。


「嘘だろ、おい。こんなの前代未聞だ」


 大声に、大村だけではなくフロアの他の社員も何事が起ったのかと中島を見る。


「大村の言う通りだった。湖西市は封鎖される」

「アウトブレイクですか」

「いや、下手するとすぐにエピデミックに移行するぞWHOが緊急事態宣言を見送りやがった」


 アウトブレイクというのは湖西市のような地理的に狭い範囲内である疾病が急増することで、エピデミックはその病気が最初に急増したコミュニティの外に広がった場合を言う。


 さらにエピデミックが国境を越えて広がり世界中で大勢の人々に影響を及ぼすようになると、パンデミックと呼ばれるようになる。


 現時点では新型肺炎の流行は湖西市を中心としているから、アウトブレイクの状態だ。


「湖西市を封鎖する事態だってのに?」

「WHOの事務局長が言うには、死亡者の多くは基礎疾患を持っていて、普通の肺炎でもリスクの高い患者だった事。武国以外では人から人への感染が確認できていない事。感染源として疑われる動物の確定もまだできていない事。これらの理由から緊急事態宣言を行うには早いという見解、だそうだ」


 WHOは「国際的な拡大で、他国に公衆衛生の危険がある」「国際的に協調した対応が求められる」などの条件を満たした場合に緊急事態の宣言を出す。


 今回はそれに当たらないという事だ。


「でも、緊急事態宣言がないって事は、それほど深刻じゃないって事ですかね?」


 知り合いからのメールも、ただ単に市民が過剰なパニックに陥っているだけで、肺炎自体の死亡率は高くないと書かれている。


 基礎疾患のない患者は重症化しないのであれば、一度かかって免疫をつけても良いかもしれないとも書き加えていた。


 それに遠い湖西市での流行は、上村にとって遠い国での出来事にしか思えないというのもあった。


「馬鹿を言え。あの国でまともな情報が伝わるわけがないだろう。今のWHOの事務局長は武国の飼い犬同然だ。武国のマイナスになるような発言はしないだろうさ。今、WHOが緊急事態宣言なんて出してみろ。明日からの春節が潰れて、武国の経済はガタガタになる」

「明日からでしたっけ」


 思い出したように言う上村の顔色がさっと変わる。


 春節の時期は、武国人が一斉に休暇を取って休む。

 昨今の経済成長に伴い、武国では春節の休みの時期には旅行に出かける人が多くなっている。国内はもちろん、海外へも。


「大村。湖西市からはどれくらいの市民が逃げ出したんだ?」

「ちょっと待ってくださいね。えぇと、およそ五百万人だそうです」

「……春節で、その五百万人が世界に散るぞ」


 しんと静まったフロアに、中島の声だけが響く。


「パンデミックだ」



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