第7話 20×0年。一月二十ニ日。武国、湖西市。
新型肺炎の猛威は瞬く間に湖西市を席巻した。
市民たちは検査のために病院へ押し寄せ、あっという間に医療崩壊を起こした。
感染の疑いのある患者たちは診察のために長い列を作り、中には自分で折りたたみの椅子を持参している者すらいる。
病院職員たちは押し寄せる患者たちに対応できず、列を作る人々の数は増える一方だ。
市内では市の職員たちが「噂を拡散しないように。体調が悪い人は、間に合ううちに病院を受診しましょう」と拡声器で呼びかけていることもあって、具合の悪くない者ですら心配になって診察してもらおうと長い列に加わっている。
中には二日間、寝ずに色々な病院を回っているが未だに診察してもらっていないという人もいる。
だが長時間待っている間に、具合を悪くして倒れる患者も多い。
そうして丸一日並んで診察してもらっても、症状が軽いし病室に空きがないから家で療養しているようにと言われて帰される患者がほとんどだ。
リンは休む間もなく発熱外来で診察を続けていた。専門は眼科だが、今はそうもいっていられない。
医者も看護師も、防護服やマスクや手袋までもが足りない。
防護服の数も足りない為、食事やトイレはなるべく少ない回数にしている。仮眠をとる時も防護服のまま、医局の椅子に座り机につっぷして眠る。
もう一週間も家に帰っていない。というより、忙しすぎて帰れない。
やっとの思いで診察を他の医師と交代してわずかな休憩の時間を得たリンは、仮眠を取らず、ある決心をして妻に電話をかけた。
「あなた! ずっと心配していたのよ」
この数日間、SNSでメッセージは送っていたが、直接電話をかける時間がないほど忙しかった。
久しぶりに聞く妻の声に、医療用ゴーグルの奥のリンの目が和らぐ。
「メイファ、メイファ。時間がないんだ。よく聞いてほしい」
「……あなた?」
かすれたリンの声に、いつもとは違う雰囲気を感じ取ったのだろうか。メイファは息を殺してリンの言葉を待つ。
「すぐに支度をして実家に行くんだ。街では……そう、たちの悪い風邪が流行っているから、必ずマスクと手袋をして。帽子もかぶった方がいい。コンタクトじゃなくてメガネをかけるんだ。ほら、君によく似合っていたメガネがあるだろう? あれもかけて。そして実家についたら、来ていた服を全て捨てて、すぐにシャワーを浴びるんだ」
メイファは突然の夫の指示に、とまどう。
今の湖西市は、ウイルスが蔓延してパニックになっていた。買い物で街に出ると、道を歩いていて何の前触れもなく突然倒れた人がいるだとか、湖西市の保健局の発表よりも実際の患者数や死者は多いのではないかといった噂が聞こえてくる。
どうやら南都からきた若い弁護士がSNSを通じて湖西市の状況を配信しており、それを見た市民が、さらに不安にかられているようだ。
「あなたはどうするの?」
リンの歯に物の詰まったような発言に、もしかしたらこの会話は盗聴されているのかもしれないと思う。
今は特にウイルスの蔓延で公安警察が神経質になっているとも聞く。医者が家族に向けた通話は、全て盗聴されていると考えて良いだろう。
「僕もこの状況が落ち着いたらすぐに行くよ。だから向こうで待っていてくれないか?」
リンの言葉に、それはいつなのかと聞き返したかった。
けれどあまり込み入った話をすると、すぐにこの通話は突然のアクシデントによって切られてしまうだろう。
おそらく、これからもしばらく夫は休み暇もないくらいに忙しいのだろう。こちらに電話をかけてくる時間すら取れないかもしれない。
だったら、少しでも長く夫の声を聞いていたかった。
「分かったわ。私もこの子も……待っているから」
それからしばらくリンは妻と話をした。
電話を切った時、仮眠を取れなかった体は疲れていたが、久しぶりに気分は向上している。
病院内では診察に忙殺されて外の出来事が分からない。
だが今が異常事態である事は確かだ。
今朝、病院長の家族が湖西市を離れたという話を聞いた。
病院長の親族は湖西市の幹部だ。おそらく、急いで湖西市を離れなければいけない事態が、すぐそこまで迫っているという事なのだろう。
賢く立ち回らなければならない。
これから先は、どんな些細な出来事にも目を配り、先手を打っていかないと大変な事になる。
この新型肺炎について、WHO、世界保健機関は緊急会議を開いている。
WHOから緊急事態宣言が行われれば、もう少し事態が改善されるのかもしれない。不足している医療従事者も物資も、全世界からの協力を得られることだろう。
それまでの辛抱だ。
落ち着いたら、キャンセルした旅行に行こう。ちょうど四月なら日本は桜が綺麗だと聞く。メイファも喜ぶだろう。
テレビで見た桜並木を思い出しながら、リンは一つ、乾いた咳をした。
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