第5話 20×0年。一月九日。武国、湖西市。

「リン先生、ちょっとよろしいですか?」


 看護師長のフェイに呼び止められたリンは、休憩に向かう足を止めた。

 リンの専門は眼科だ。午前中の診療を終えて、遅い昼食を摂ろうと食堂に向かうところだった。


「フェイ看護師長、どうしました?」


 フェイは立ち止まったリンに、抱えていたファイルを見せる。それはリンが担当している女性患者のものだった。


「閉塞隅角緑内障で入院しているホウさんなんですけど、今日も食欲がないそうです」

「術後の予後がよくないのかな。眼圧は?」

「正常に戻っています」


 閉塞隅角緑内障は目の中の水の出口である隅角が閉塞するために、急激に眼圧が上がる病気だ。


 治療が遅れると短期間で失明に至ることがあるので、虹彩にレーザーで小さな穴を開けて隅角が閉塞しにくくするレーザー虹彩切開術を行い、手術は成功した。


 他に気になる既往歴もないので、眼圧が正常に戻っているならば順調に回復するはずだ。


「発熱は?」

「少し発熱があるようです」


 昨日の時点では食欲の減退は見られるものの発熱はなかった。

 一番怖いのは感染症だ。リンはすぐに血液検査の指示を出した。


「そうだ。念のため、肺のCTも撮ってもらって」

「肺ですか?」


 先ほど、湖西市の保健当局から、未知のウイルスによる肺炎が流行しているという発表があった。


 SARSほどの感染力と毒性はないが、そのウイルスによる死亡者が一名出たので、十分に注意すること、という内容だ。


 当局が発表したということは、もう隠しきれないほど患者数が増えているということだろう。おそらく表に出ていない患者数は、もっと大いに違いない。


 だからリンは念のためCT検査をしておこうと考えた。





 数時間後、検査結果を見たリンはホウの両肺に白い影が映っているのを見て難しい顔をした。


 通常、肺炎を起こす場合は、左右どちらかの肺に影が映ることが多い。この写真のように両方の肺に炎症を起こすのは、新型の肺炎に違いない。


 他の各種検査結果も、新型の肺炎を起こしていることを示している。


 人から人に感染はしないということだったが……。


 リンはすぐに呼吸内科の医師に連絡を取った。

 この肺炎はあまりにもSARSに似すぎている。もし人から人への感染をするならば、年末に自分が警鐘を鳴らしたように、防疫を十分にしないと院内感染が起こってしまう。


 リンは先ほどのフェイ看護師長からの報告を思い出して、眉間に皺を寄せた。


 新型肺炎の疑いがあるホウの熱が下がることはなく、入院に際して付き添いをしているホウの娘も発熱しているというのだ。


 それは明らかに人から人への感染を起こしているという証拠ではないだろうか。


 リンは棚からカップ型のN95微粒子用マスクを取り出すと、それを装着した。

 今までは普通の医療マスクをつけていたが、ウイルス性の新型肺炎には効果がない。


 繊維の密度が高いので、N95マスクを装着すると息苦しくなるが、防疫のためには仕方がないと我慢した。


 これからは来る患者が新型肺炎に罹患しているかもしれないと用心して治療しなくてはいけない。


 さすがにホウの治療時に自分が感染していることはないとは思うが、身重の妻に移しでもしたら大変だ。


 リンは帰りに薬局へ寄って、消毒薬を買って帰ろうと考えた。


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