第4話 20×0年。一月六日。日本、神奈川県相模原市。

 藤田化学本社で働く中島圭吾は、仕事始めで溜まっていた郵便物のチェックをした。


 藤田化学は富山の薬売りだった創業者が作った従業員二千人足らずの小さな製薬会社だ。大手ほどの潤沢な研究開発費があるわけではないが、細菌に効く医薬品の開発に定評がある。


 中島はそこでインフルエンザをターゲットとする新薬の研究グループを率いていた。


 大手の製薬会社が新薬を開発する際は、自動化されたロボットを使って化合物の組み合わせを生み出すのだが、藤田化学ではそれをすべて研究員が手作業で行っていた。


 新薬というものは、偶然から生み出されることも多い。


 多くの人々をウイルスから救った抗生剤のペニシリンも、イギリスの医者アレクサンダー・フレミングがブドウ球菌を培養中に、偶然カビの胞子が培養皿に落ち、カビの周囲のブドウ球菌が溶解しているのに気づいたのがきっかけで発見された。


 敬虔なクリスチャンの大村などは「偶然に見えるようでも、実は神が人々を救うために起こした奇跡なんですよ」と言っているが、日本人によくいる無神論者の中島ですら、この世界では偶然という一言では言い表せないような不思議な事が起きる事を知っている。


 中島が開発した新薬も、二万六千種類の化合物をランダムに選んで、片っ端から手作業でインフルエンザウイルスに効くかどうか試していって、偶然見つけたものだ。


 マウス実験でもインフルエンザウイルスを完全に封じ込めた。


 インフルエンザウイルスは細胞の中に入りこんで増殖していく。そして細胞から飛び出して、また別の細胞に入りこむ。往来の治療薬は、増殖するウイルスを細胞内に閉じこめて、感染の拡大を防ぐものだ。


 だが中島たちのチームが開発した薬は、ウイルスの複製そのものを阻害する効果を持つ。その為、薬に耐性ができにくいという画期的な薬だ。


 往来の治療薬では耐性ができて効かない患者が現れた今、この薬が新たな治療薬として流通していく可能性は十分にある。


 その、はずだった。


 中島たちの期待をよそに、日本の小さな製薬会社の開発した新薬は、インフルエンザ治療薬としての治験が終了し後は発売するだけとなったにも関わらず、見向きもされなかった。


 その理由は明白だ。インフルエンザ治療薬の市場は巨大製薬企業メガ・ファーマが占拠していて、そこから圧力がかかったのだ。


 政府からは、将来毒性の高い新型インフルエンザが流行した時に耐性菌をつけないために、伝家の宝刀として、流通させず備蓄しておくという通達があった。


 備蓄量は、およそ二百万錠。


 中島たちが十六年の歳月をかけて開発した新薬は、そうしていつ抜くのか分からない、もしかして永遠に抜かれることがないかもしれない宝刀として政府管轄の倉庫に収められることとなった。


 仕方なく、藤田化学はまた別の薬の開発を始めた。


 インフルエンザの薬は投与しても最長で一週間で利益の幅が薄く、しかもその年によって流行した時とそうでない時の差が激しい。


 製薬会社としては、長期的な投与が見こまれる、糖尿病や心臓病、高血圧に効く薬を開発した方が大きな売上が見こまれる事から、これらの薬の開発にシフトした方が安定した利益を得られることもあり、中島たちの開発した薬はお蔵入りとなってしまった。


 今年度から、藤田化学では中島のグループを解散して、新たに抗リウマチ剤の開発チームを発足する予定になっている。


 中島がこの机で仕事をするのも、あと三カ月だ。


「目ぼしい手紙はないな」


 昔と違って今はメールで重要な連絡を取り合える。机の上に置かれているのは殆どダイレクトメールだが、宛て先に住所が書いてあるものはシュレッダー処理をしなければならない。休みの間に数が溜まると、それだけでも面倒だ。


 ああ。煙草が吸いたい。


 最近はレストランだけではなく、どこもかしこも禁煙の圧力がかかる。中島も社内の禁煙室がなくなったのをきっかけに禁煙に踏み切った。最近では値上げもひどく、妻に文句を言われていたのでいい切っ掛けになった。


 だがこうしてやりたくもない仕事をしなければならない時には、気分転換に一服したいと思ってしまう。


 気を逸らすように、机に座った中島はPCをつけて海外のニュースサイトに目を通していく。

 休みの間にも家でチェックは欠かさなかったから、目ぼしいニュースは見当たらない。


 だがクリックした先のニュースを読んでいた中島の目が止まる。


「湖西市の海鮮市場で新型のコロナウイルスが発生か……。人から人への感染は認められない、ねぇ」


 中島が椅子の背もたれにもたれかかると、ギイと軋んだ音が聞こえる。そろそろこのオンボロの椅子を新調したいが、完全に壊れてからでなければ経理部が認めてくれない。


 中島は当てつけのように、ギイギイと椅子を鳴らす。


「あっ、中島課長。おはようございますじゃなくて、明けましておめでとうございます」


 そこへ明るい声で入ってきたのは、部下の大村だ。たれ目で人懐っこそうな顔をしている気の良い男だ。


「ああ。明けましておめでとさん。正月はどうだった?」

「どうって……昨日までシャーレにつきっきりでしたよ……」


 独身の大村は、人が良いせいか長期の休みには休日出勤を任されることが多い。カレンダーには休日と書いてあっても、培養している菌には休みなど関係ない。誰かがお世話してあげなければならないのだ。


 この正月休み期間中も、殆ど大村が出勤していたに違いない。


「そうか、すまんな。振替で月末には休めるように手配しておくよ」

「課長、ありがとうございます! 俺、一生ついていきます!」

「相変わらずお前は調子がいいな」


 苦笑する中島は「そうだ」と言って、大村を手招いた。


「これ、どう思う?」


 長身の大村は体を屈めると、中島の横からモニターを見る。


「うーん。あの辺は野生動物由来のウイルスが多いですから、なんとも言えませんねぇ」


 湖西市の辺りではしっかりと検疫されていない野生動物の新鮮な肉が好まれている。その場で絞めた動物の方が、風味が豊かだというのだ。


 そうした野生動物由来のウイルスは人に移らないものも多いが、変異して人に感染してしまうこともある。


 感染する人が多くなれば、ウイルスがどこかで変異して人から人への感染が起きる。

 二十年ほど前に流行ったSARSがそうだ。ハクビシンを媒介にして人に感染するウイルスに変異した。


「知り合いに湖西市の研究室に行ったやつがいるんで、ちょっと聞いてみましょうか?」

「頼めるか?」

「課長のそういう第六感って、結構侮れないんですよね。まあ聞くのはタダですし」


 新型インフルエンザの新薬は、中島の思いつきで化合した成分が基になっている。何となく、これだ、と思ったのだ。


 クリスチャンである大村に言わせるとそれこそが神の奇跡らしいが、無神論者の中島はただの偶然だと思っている。


 だがどうにもこの新型のコロナウイルスが気になるのは確かだ。


「武国に行ったやつって結構いるんですよね。確かに給料がいいもんなぁ」

「お前は何で行かなかったんだ?」


 せっかく大学院まで行って勉強をしても、今の日本では研究所に就職できるとは限らない。

 国からの補助金はどんどん減らされ、運よくどこかの研究所に拾われても、研究費が少なく満足な研究もできない。


 それに比べると武国の研究所の待遇は抜群だ。メイドつきの家を用意してくれ、新卒でも日本の三倍の給料を保証してくれる。しかも研究費は日本とは比べ物にならないくらい潤沢だ。

 多少、行動の制限がかかるだろうが、普通に生活をする分には不自由がない。


 その結果、日本の優秀な若手の研究者が武国へと流出してしまっている。


「確かに給料とかは良いんですけど、なんていうか……。やっぱり日本のためになる研究をしたいって思ったんですよね」


 たれ目をさらに下げて、大村は照れ笑いをした。

 まだ若い大村は、青臭い理想論に燃えているのだろう。


 昔はそんな若者が多かったと中島は思う。かつての自分もそうだった。


「よし。今日の昼飯は俺が奢ってやるぞ」

「マジですか。やった! 天苑でもいいですか?」

「ったく、また高い店を指定しやがって。ランチならいいけどな。さあその前に、仕事だ仕事」


 中島は横に立つ大村の尻を軽く叩くと、再びPCのモニターへと目を走らせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る