第21話 第七章 2

 部屋に上がった吉田先生は周囲を見渡しながら「部屋、綺麗にしているんじゃないか」と言った。なるみは食器棚から手前に置いてあったマブカップを二つ取り出し、素早くコーヒーを注ぎ、居間に向かった。

 吉田先生に座るように促し、彼の前に青みがかかったマブカップを置くと、なるみはやるべき事を見失った。

「川島も、とりあえず、座って……………」

吉田先生から、そう言われて、なるみは自分が立ったままである事に気づき、慌てて彼と向かい合うような場所に腰を下ろした。

 目線をどこに向かわせれば良いのか分からないのもあったが、自分の欲望に勝てず、至近距離で彼の瞳を見つめる。ブラウンの海の中心で浮いているような瞳孔に自分の顔が写っているのを確認し、なるみは微動も出来なくなった。吉田先生が怪訝そうな声で「川島?」と呼ぶと、なるみはそっと目をそらしながら「すみません」と、呟いた。

 なるみは、なるべく彼を見ないように意識しながら「先生を自分の部屋に上げてしまうなんて、今日の私はどうかしていました」と言った。

「そうなの?」

 なるみは「はい」と頷く。「男性と二人きりになる事も数年ぶりですし、ましてや、その相手が先生だったなんて…………」

「そうか」

吉田先生の声が悲しそうに聞こえ、なるみは慌てて「違うんです! 誤解です! 誤解」と言いながら、彼の方を見る。

吉田先生は苦笑した。

 なるみは、もう一度、「私は、ただ、吉田先生を部屋に誘った自分に驚いているだ

けなんです…………」と言いながら、テーブル越しに上半身を前に出した。吉田先生はテーブルに差し出したなるみの右手を優しく握ると、顔を上げ「そんな事、分かっているよ」と言い、微笑んだ。

 なるみは、俯いて手をそっと引くと暗い寝室の方に行き、彼に背を向けたまま「さっき、先生、『私の事が好きだった』って言ってくれましたよね」と発した。

「うん」

「その…………。それは先生の本心とも」

「そうだね」

「私の…………、どこか…………、いったい良かったのでしょうか?」

————余計な事を聞いちゃっちゃかもしれない。でも、聞かずにはいられない。

吉田先生は「そうだな…………」と言うと、立ち上がり、なるみの方に歩み寄って来る。「どう言えば良いのか分からないけど、うん。川島は素朴な感じがしたからかな」

「素朴な感じ?」

 吉田先生は「そう」と答えると、背中から、なるみを抱きしめた。「他の生徒は垢抜けているというか、大人びていたけど、川島は普段から目立つ方じゃなかったから」

なるみは身を固くしながら「それって、単純に地味だったっていう事でしょうか?」と聞き返す。

「そうかもしれない、けど」

「けど?」

「教師は、案外、そういう目立たない生徒を注意して見ているんだよ」

————教師って、そんな感じなんだろうか?

「で、気がついたら、俺は川島の姿をいつも目で追っている事に気づいた。それと同時に君を見ると自分の胸がざわつく事も感じていた」

————だから、授業中に目がよく合っていたりしていたのか。

「誰かを好きになる理由なんて、意外にシンプルだったりするから、時に説明ができない事もあるんだよ」

「はぁ…………」

 吉田先生が「ずっと二人で立っているのもなんだから、座らないか?」と提案してきて、彼に誘導されるまま、数センチ左側のベッド上になるみは腰を下ろした。

 一瞬で、なるみの鼓動は激しくなっていく。

「まさか、川島を抱きしめられる日が来るなんて」

吉田先生が背後から、なるみを抱きしめながら囁く。

「私も信じられません」

「でも…………、気持ちのどこかで、こんな日が来る事を期待していたかもしれない」

————それって、いつからなのだろう?

「この前の同窓会で君と再会した時から」

なるみは何も言わず、ゆっくりと頷いた。

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