第27話 まちぶせ
地上への出口だった建物へ戻ろうと思った。
置いてきたランタンとリュックを持ってもう一度、地下の暗闇へ帰ろうと思った。早くしないと建物の入り口が閉まってしまうかもしれなかった。やってきた通りに向かって記憶をたよりに、歩いた。何度目かの通りを横切り角をまがると、あたしは自分が人気のない通りにいることに気づいた。両側の建物にそって大きな鉄のゴミ入れが続けて置かれていた。人通りはなく、新聞紙や、何かの包み紙の切れはしが、歩道に落ちて散らばっていた。
夕暮れが近づいてきていた。
あたしはまわり道をしようかと思ったけれど、できるだけ早く、地上への出口だった建物へたどり着きたかった。あたしはこの通りを突っ切ることにした。あたしは半ば走るように通りを進んだ。
建物の壁に描かれた、こわい落書きや、歩道にところどころあいた、四角い鉄格子の穴から立ちのぼる、くさい臭いをできるだけ気にしないようにした。あと少しで通りの反対側にたどり着けそうだった。腕にかかえた荷物が揺れてだんだんと重くなってきていた。あたしはそれでも急いだ。
あたしの吐く息と、歩道を蹴る靴の音だけがまわりにこだました。早くこんなところから抜け出したかった。この通りに入り込んでしまったことを半分くらいは、やめておけばよかった、と思った。
そのとき、通りの影から誰かが飛び出すと、あたしの前に立ちはだかった。
あたしはぎょっとして、立ち止まった。心臓はまだ、とくとくと鳴って、あたしの肩はしきりに上下していた。アンダーシャツが汗で胸にくっつき気持ちが悪かった。
目の前にあの髭だらけの汚い格好をしたおじさんが立っていた。
あたしは、気づいた。
あのときから、ずっとつけられてたんだ。ここで先回りして、待ち伏せされてたんだ。
おじさんは、いやらしい顔つきで、手を動かした。食べものとお金をよこせといっているようだった。
あたしはかぶりを振った。おじさんはあたしのほうに近づいた。あたしは首をかすかに横にふりながら、あとずさりした。おじさんはあたしに掴みかかると、あたしが胸に抱えていた袋をむしり取った。りんごやオレンジが歩道に転がった。バゲットが飛びだした。
なんてことするの!
あたしはおじさんの腕にかみついた。おじさんは悲鳴をあげると、あたしを振り払い、頬をげんこつで殴った。あたしはいきおい余って石畳に叩きつけられた。気を失いそうになりながら、腕を伸ばした。おじさんの脚が指先に触れた。その脚にしがみつく。おじさんは、空いている方の脚であたしのお腹を力いっぱいに蹴った。何度も、何度も。
やめて!
あたしは、うめき声を上げると手を離し、体を折り曲げた。
二、三度、しゃくりあげると、あたしは、引きつけを起こした。両手でお腹を抱えたまま、さっき食べたものを吐きもどし始めた。止まらなかった。どろどろしたものが、とおり過ぎるたびに、つっぱるように喉がこわばった。あたしの顔は苦しさにゆがんでいたと思う。涙が目の横をつたって何度もこぼれ落ちた。どろどろしたものは見る間に、口元から石畳の上に広がり、いやなすっぱい匂いがあたりに漂い始めた。喉が焼けるように痛かった。
あたしは、糸を切られたあやつり人形だった。石畳の上に力なく転がる、でくのぼうだった。おじさんの脚が動きまわり、手が食べものを拾い集めるのを、しき石に横たわったまま、まばたきもせずに見ていた。りんごも、オレンジも、ぶどうも、野菜も、食べ残しのチーズも、牛肉も、バゲットも、マーガリンも、おじさんがみんなポケットに入れてしまった。あとには、割れたドレッシングのビンと、破れた袋と、汚れものにまみれたあたしだけがとり残された。
おじさんは、あたしを見た。そのとき、あたしは気づいた。おじさんの横に悪魔がいた。悪魔はうす笑いを浮かべて、ずるそうな目でこちらを見ていた。悪魔に肩を押されるように、おじさんは近づくと、あたしのジーンズの前ポケットに手をつっこんだ。
お願い……もう……やめて……
あたしは、おじさんの手を引きはなそうとした。でも、力なく触れただけだった。おじさんはポケットから手を引きだした。手には、カードと黒い長方形をしたものが握られていた。
だめ……もっ……てかないでよ……
あたしは取りかえそうと、震える手を懸命におじさんに伸ばした。でも体にすら触れることができなかった。おじさんはあたしへの仕返しとして、あたしの背中を力いっぱいに蹴った。あたしは海老のように体を反らせた。おじさんは、そのまま行ってしまった。
なんの、おともきこえなかった。
しんぞうのおとも、きこえなかった。
においも、しなかった。
いたみも、なかった。
さむさも……
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