第26話 行進
気がつくとあたしはかなり遠くまで歩いてきていた。
一時の興奮がおさまると疲れがやってきて足取りが重くなった。歩くのがやっとだった。あたしはたまらず、近くの建物の入り口にある階段のわきの石のでっぱりに座りこんだ。
まだ体中が熱かった。あたしは、お空に高く舞いあがった凧みたいだった。その凧の糸は切れていた。風は凧を遠くまで運んだ。凧はいつまでもお空の上で、ひらひらと舞っていた。
通りを吹きぬけていく風が体にあたって、気持ちよかった。体のまん中がじんじんして、いくら、よしよししても、あたしの気持ちはゆりかごに戻ろうとしなかった。
座りこんでいるうちに空腹感がこみ上げてきた。
あたしは袋の中からベーグルを急いで取りだすとむさぼるように食べた。バナナとチーズも食べた。チーズを切り分けるのにナイフがほしかったが、あたしは持っていなかった。ビニールの包装は歯で食いちぎった。食べものが、のどに詰まって、あたしは飲みものを買わなかったことを後悔した。
そのとき、トマトのことを思いだした。トマトを取りだし、かぶりつくと、汁がまわりに飛びちって、口のまわりがぬるぬるした。それでも、あたしは幸せだった。袖で口の周りを拭った。食べものが、あたしをこんな気分にしてくれるなんて、今まで思いもしなかった。
あたしは黒い長方形を残してくれたフロレンに、あなたのおかげであたしはやっと食べものにありつけたの(はしたなくてごめんね)、いっぱいありがとう、っていった。
ぶーんという機械にも、ちょっとぶっきらぼうだけど、ほんとはやさしんだね、カードをくれて、ありがとう、っていった。
アイスクリーム・パーラーのおじさんにも、笑顔すてきだったよ、アイスクリームおいしかったよ、ありがとう、っていった。
お店の係りのお姉さんにも、ちょっと怖い思いをしたけれど、お会計をしてくれて、いちおう、ありがとう、っていった。
それから、あたしの、ありがとう、の行進は、急に立ち止まった。みんな、にこりともしていなかった。
進もうとする先に、あの男の人がいた。
あたしをからかった、あたしにはずかしい思いをさせた、あの男の人がいた。
あの男の人だけは、死んでもいやだった。
でも、もうひとりのあたしが、こういった。
あのね。この人がいたから、無事に買いものが済んだんだよ。それがなかったら、今ごろあなたは、牢屋にいたんだよ。
あたしは、そんなもうひとりのあたしのいうことなんか、聞かないことにした。あたしは袋の中身を確かめる振りをしながら、こういった。
あなたこそ、牢屋に入っていればいいんじゃない? あの男の人があたしにどんなにひどいことをいったか、思いかえしてごらんなさいよ。それでもあなたはあの男の人に笑顔で、いいよ、何でもないよ、っていえるの? 心のそこから、本当に、ありがとう、っていえるの? もしかして、あなたって、お人好しで、とっても気のいい、おじょうさん?
あたしは袋の中身を確かめ終わった。もうひとりのあたしは、もう、何もいってこなかった。
で、なんであたしが捕まらなくちゃならないんだろう? 黒い長方形をしたものが、フロレンがあたしにくれたもので、それをあの機械がカードに替えてくれたんだとしたら、それはあたしのものだった。
それを使っても、だれも、あたしに、どろぼう猫、なんていえないはずだった。でも多分、あたしが、子どもなので、信じてもらえないんだと思う。おとなの人だったら、例え、盗んで手にいれたカードでも、お金でも、あのお店で使うことはできただろう。
そう思うと、あたしは唇をかんだ。
あたしは向こう側の建物の屋根を見つめた。それから足元を眺めた。先の丸まったスニーカーはどことなく汚れていた。両手を前にかざすと、自分の手のひらを見つめた。細い指先が少し震えていた。あたしはこんなに、何もできない子どものままでいることが、我慢ならなかった。一日も早くおとなになりたかった。
しばらくして落ち着くと、あたしは買いもの袋を抱えて立ち上がった。
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