第16話 眠る女
女の人は目を閉じていた。
かすかに寝息が聞こえる。薄暗がりの部屋の中にはベッドと女の人以外に何か機械のようなものが置かれていた。その機械からたくさんの紐や管のようなものが出ていて女の人のところに伸びていた。
天井からわずかに空気が降り注いでいるのがわかった。ベッドの前に椅子が一つ置かれている。しばらくためらっていたが、疲労と膝の震えにたまらず、あたしは椅子に座った。
どうしてこの人はこんな風に眠っているんだろう? その人は穏やかそうな顔つきで瞼を閉じたままだった。あたしは飽きずにながめつづけた。心のどこかで、こんな静かな顔つきで最後の時を迎えられればいいのにという思いがふと浮かんだ。
覚えていなかった。でももしあたしが覚えていたなら、こんな顔をして眠っている誰かを思い出せたかもしれなかった。あの女はそのことを何もあたしに話さなかった。どういうふうに、あたしを引き取ったのかをいっさい話してくれなかった。
その話をすると、あの女はいつも悲しそうな顔をした。あたしはもうそれ以上、聞けなかった。あたしも誰かから生まれたんだ。そう思うと、それは心のすきまを少しずつ埋めてくれるような気がした。でも同時に何かが大きく欠けていて、ぽっかりとあいた穴をのぞきこんでいる自分がいるような気もした。
この女の人のように眠っている顔を目の前に思い浮かべてみた。あたしはそこではベッドの中で毛布にくるまって、その人の顔をのぞきこんでいた。まっすぐな額、柔らかな頬、かすかに閉じられた唇。想像の中でもその顔はこんこんと眠りつづけていた。
ふと、目のすみで何かがちかちかしているのに気づいた。
我に返って、首を向けるとそれは赤い光で機械の丸い小さな穴から漏れていた。いや穴じゃない。それは機械の表面に取りつけられたごく小さな電球のようだった。
何かを急かせるようにまたたいている。あたしはしばらくぽかんとして見ていたが、震える足で立ち上がるとドアの近くへ行き、壁際のスイッチを押した。そして明るくなった室内を見回した。
機械の前に小さなものが床に転がっていた。なんだろうと思ってみると、それは銀色に光る丸い筒のようなものだった。そのそばに背の高いスタンドのようなものが一緒に倒れていた。
スタンドは丸い筒を引っかけて支えるためのものらしかった。丸い筒の蓋がはずれ、中からどろりとした緑色の液体が床に広がっている。筒の反対側からは長く細い管が床を伝いベッドの方に向かって伸びていた。
あたしはとっさに、点滅する光の意味をさとった。
急いで丸い筒を拾い上げると蓋をもとに戻して、スタンドを立ててそこにつけた。でもスタンドはすぐに倒れようとした。みるとスタンドの足が一本折れて床に転がっている。
あたしは震える手と足でスタンドを椅子の近くまで引きずっていき、椅子に腰をおろすと、両手でかかえるようにしてスタンドを支えつづけた。
丸い筒はスタンドの上で揺れていた。しばらくたったが、赤い光のちかちかは消えなかった。心なしか、そのちかちかする速さは増したような気がした。中の液がすべてこぼれ出てしまったせいだろうか? この機械やこの道具が何をしているのか、あたしにはわからなかった。でも何かよくないことが起ころうとしているということだけはわかった。
しばらくして、あたしの心配は機械から出はじめた、途切れたり、続いたり、を繰りかえす耳ざわりな音ではっきりとしたものに変わった。
音は何かをうったえかけるように部屋中に鳴り響いていた。
あたしの歯はかたかたと鳴った。どうすればいいのだろう? あたしはすがる目つきで女の人をみた。女の人の顔つきが心なしか変わったような気がした。毛布の下で徐々にその体が痙攣を始めているのがわかった。あたしは目をつぶった。できればこんなことから逃げだしたかった。
あたしにはどうすることもできなかった。でもこの部屋から逃げ出すこともできなかった。もし逃げ出したらこの女の人はどうなってしまうのだろう? 考えただけでも体が震えあがった。女の人の体の痙攣はますますひどくなってきていた。あたしは疲労と空腹でふらふらになりながら混乱する頭の中で考えつづけた。
この女の人にはきっと緑色の液体が必要なんだ。それがないとやっていけないんだ。じゃあこの部屋のどこかにまだ別の丸い筒があるのかもしれない。
あたしはもつれる脚で必死に立ち上がると、根もとの一部が折れたスタンドをベッドの縁に立てかけ、すべり落ちないように椅子の背でそれを押さえつけた。そして、疲れ切った脚とぶるぶる震える手で、部屋の中を捜しまわった。
どこにも丸い筒は見あたらなかった。
あたしはそれでも捜しつづけた。もう女の人はあまり痙攣していなかった。でもさっきよりもずっと顔色が青かった。あたしはそんな女の人をほおっておけなかった。できることなら助かってほしかった。耳ざわりな音はもうしなかった。赤い光はもうあきらめたようにつきっぱなしになっていた。
あたしは捜しつづける。でも丸い筒なんて見当たらない。どこを捜しても見当たらない。機械のそばには段ボール箱が置いてあるだけだ。そこに白いプラスチック袋がいっぱい詰まっているだけだ。
え、プラスチック袋?
あたしはもう一度段ボール箱によろよろかけよると、ふたを開けて袋を取りだした。もしかして? 押さえると中で何かがぷにぷにと動いた。
あたしは一袋つかんだまま、急いでスタンドを立てかけておいたところへ引き返すと、丸い筒に手を伸ばし震える手でその蓋を開けた。中には同じ袋が入っていた。袋の端は破れていた。
あたしは急いで袋を取り出すと、新しい袋をその中へつっこんだ。袋は筒の中にぴったりとおさまった。蓋をすると丸い筒はかすかに震えてかちりという音が中から聞こえた。
あたしは丸い筒をスタンドの上部に取り付け、スタンドをもとのように立てた。そして椅子にくずれるようにして座り、スタンドをわななく両手でささえた。
あたしは目をかたく閉じるとお星さまにお祈りした。水の妖精にもお祈りした。それからあのけものにも。遠くで帰りを待ちわびているビニールシートとリュックにもお祈りした。あたしはあたしの知っているものすべてにお祈りした。
あたしは、願いを聴きとどけてくれるものすべてにお祈りしたかった。でもあたしが知っているものはあまりに少なかった。もっと知りたかった。そしてみんなにお祈りしたかった。この女の人を助けてくださいとお祈りしたかった。あたしはここにきたから、この女の人を助けてくださいとみんなにお祈りしたかった。お願いだから、後生だから、助けてくださいとお祈りしたかった。
もうこの女の人を救えないのだろうか?
心が遠のいていくような感じがした。あたしの気持ちは、自分の手の中から砂のようにこぼれ落ちていってしまうような気がした。スタンドを肩にもたせかけて知らず知らずの内に、あたしは体をゆすり始めていた。
誰かがどこか遠くで歌っている声がかすかに聞こえきた。
夢のように時はすぎて
おまえはもう明日を忘れる
心に残るはこの響き
小鳥は梢でさえずり
豚は囲いで歌う
ゆりかごでまどろむは他国の王子
靴は靴箱に
雪は大地に
蛙は池に
それは小さくて低くこもるような、子どもの歌声だった。歌はどこか聴いたことがあるような気がした。あたしが知っている歌だった。その歌のとおりにあたしの口元は動いていた。もうそれ以上、あたしは何も思わなくなっていた。
心が水面をすべるようにゆっくりと流れていった。
あたしは小さな小さな一枚の葉っぱだった。どこかの木から湖へ落ちた一葉だった。
時おり風が吹いてあたしを運んだ。あたしはきらきらと輝く水面を進んだ。激しい雨でざわつく波間にもてあそばれた。いつしか色が緑色からくすんだ茶色へと変わった。葉は次第に浮く力をなくし湖の底に沈んだ。その上にやわらかい泥が降り積もった。幾重にも降り積もった。
やがて、ざりがにがやってきて、その泥を掘り起こすと、葉っぱをみつけた。ざりがには、大きなハサミでちょきちょきと葉っぱを切りとると、ちょっと思案してから、ちょこんと頭にのせた。
あたしはざりがにの帽子になった。ざりがには自慢げに八本の足をつかって暗い泥の中を散歩した。あたしは何もいわないで、ざりがにの頭の上に乗っていつまでも揺られつづけていた。
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