第15話 キッチン

 取っ手に触れると冷たかった。


 それを回し手前に引くと扉はゆっくりと滑らかに開いた。中は暗かった。しばらくためらっていたが、あたしは入ってみることにした。ランタンをふたたび点けると、ゆっくりと踏み込んだ。


 二、三歩あるくと、ひとりでに明かりがついた。あたしはぎょっとして立ち止まった。どこかに隠れるところはないかと、あたりをとっさに見まわす。左手のすみのソファが視界に飛び込んだ。あたしは、ソファの後ろ側にできるだけすばやく回り込んで、身をひそめた。ランタンを消すと両手で抱きかかえる。


 急に動いたのではげしく息がきれ、めまいがする。できるだけ音をたてないように体を丸めて小さくうずくまった。そのままの姿勢でしばらくいたが、なにごとも起こらなかった。あたしは恐る恐るソファの背から顔を覗かせた。


 あたしは、白い大きな部屋の中にいた。右手の方にはさっき入ってきた扉が見えた。部屋にはいくつかの家具がおいてあった。光は壁と天井の隠れたすきまからやってきていた。とてもやわらかな光だった。部屋の天井や壁は、ここが地下の洞窟の一角であることがわからないほど、上品ですべすべしていた。


 床には絨毯さえ敷かれていた。ちょうどよく夢にでてくるあたしの好きな部屋に似ていた。


 動くものは何もなかった、今のところは。


 あたしは少し安心した。もし身の危険がなかったなら、ここはいごこちがよさそうだった。でも髪は土ぼこりを被りくしゃくしゃで、ほおにすりきずがあって、着ている服も汚れているあたしは、ここでは場ちがいな存在だった。おまけに手や脚は空腹と疲労でぶるぶると震え、ときどき引きつけを起こすように痙攣した。


 ソファの背後から音を立てないようにして抜けでると、あたしはもう一度部屋を見まわした。部屋の空気はあたたかで落ち着いていた。なぜかあたしはこの部屋に歓迎されているような気がした。理由は分からなかった。それでもあたしはそんな気がした。


 この部屋を出てもう一度、洞窟に戻り、体を休める場所を再び探すことなど、もはやできそうになかった。度重なる苦痛と苦しみであたしの気持ちは挫けそうだった。


 もう誰もあたしのことをよしよししてくれる人はいないのだろうか? そう思うとあたしの心は悲しみでいっぱいになった。あたしの湖は涙でできていた。それは胸の中にしまい込まれていたが、もうすぐ溢れてしまいそうだった。でもここで泣いているわけにはいかなかった。あたしには自分の体と心を守る責任があった。


 部屋の向こう側に奥へと続く入り口が二つあった。


 一つはさらに奥の部屋へと向かう廊下のようだった。もう一つはキッチンの入り口のように見えた。あたしは用心しながら、キッチンの入り口だと思った方に近づくと中を覗きこんだ。


 とたんに奥の明かりがついた。


 あたしはびくっとしたが、今度は隠れなかった。そこはやはりキッチンだった。冷蔵庫と食器棚と調理台と流しとコンロが壁ぎわに並んでいて、簡単なテーブルが中ほどに見えた。


 あたしはキッチンに入りこみ、冷蔵庫の前まで急いで行くとそのドアを開けた。


 冷蔵庫の中には三分の一ほど食べ物が詰まっていた。あたしはつばをのみこんだ。なにかそのまま食べられそうなものはないだろうか? あたしはかなり体が弱っていたので、簡単に食べられて体にやさしそうなものがよかった。


 急いで流しに行き、置いてあった石鹸であわただしく手を洗った。震える手の中で石鹸がすべり、取り落とした。再び石鹸をつかむと洗った。手はずいぶんと汚れていた。水道の蛇口から冷たい水が流れ出た。


 あの井戸から水道管を伝ってやってきた水に違いなかった。


 あたしは思わぬところで友だちに出会ったような気がした。そばにかかっていたタオルで大急ぎで手を拭いて冷蔵庫にとってかえすとドアを開け、目的のものが見つかるか捜し始めた。


 ヨーグルトの容器が目に入った。


 これだ! あたしは容器をつかんで冷蔵庫から取り出すと蓋を開けた。中には真っ白でおいしそうなヨーグルトが入っていた。食器棚のひきだしから震える手でスプーンをつかみだすと、容器から中身をすくいだした。そして口に運ぼうとした。


 でもあたしの震える手は途中で止まった。


 あたしはためらっていた。あたしは空腹で倒れそうだった。でもこれはあたしのじゃなくて、だれかの食べ物だった。あたしは持ち主の了解なしに食べようとしていた。それは、どろぼう猫と同じことだった。


 だけど、あたしはお腹が空いて死にそうだった。何も食べていないので、こんなに体が弱っていた。手も足も震えて歩くのもやっとだった。だからちょっとだけならいいじゃないか。持ち主にはあとで話せば分かってもらえるよ。そうだよ、きっと分かってもらえる。


 でも、もう一方であたしの心はこういった。


 いや、だめだ。おまえの髪や顔や衣服は薄汚れているけれど、おまえは他人のものを盗みとる子じゃない。一度そんなことをすれば、おまえは、外見だけじゃなくて、中身まで薄汚れた子どもになってしまう。


 人はそんなおまえを許すかもしれない。だがおまえ自身はどうなんだ? おまえはそれでいいのか? そんな自分をおまえは受け入れることができるのか? いや、おまえはきっと後悔する。だから、そんなまねをしてはいけない。今すぐ、ここを立ち去れ!


 あたしの心はあたしにそう命令していた。


 あたしはそんなあたしの心がうらめしかった。あたしはあらがった。あたしは抗議した。あたしはののしった。ほんの少しだけならいいじゃない! この唐変木! わからずや! へんくつ! 頑固者! 偏執者! 形式主義者! あたしは思いっきりののしった。千の百倍もののしった。あまつさえあたしの体はそんな心の命令を無視して、スプーンを口に運ぼうとした。


 あと少しでヨーグルトを流しこむことができる!


 でも一方で、あたしの体は歯を食いしばった。あごが外れるほど食いしばって、スプーンから顔をそむけた。固く閉じた両方の目から涙がにじみでた。スプーンはいつしか容器にもどっていた。あたしの手はあたしの腰のあたりに垂れさがった。あたしは力なくうずくまると両手で顔をおおった。もうそれ以上涙はでてこなかった。すすり泣こうとしたができなかった。胸の湖は涙で溢れそうだったが、あたしにはそれをときはなつ力など残っていなかった。ただ無力感だけがそばにいて、あたしを抱きしめていた。


 となりの部屋ではソファに腰をかけて悪魔がこちらを伺っているのかもしれなかった。


 あたしの弱った体は、まだ心とともにあった。その心だけが凛としていた。だがその姿を保ったまま心は、体力のおとろえとともに次第に薄れはじめていた。あたしにはなすすべがなかった。


 あたしは疲れ切った頭で考えようとした。


 あたしはどうすればいいのだろう? ここにとどまってこの部屋の持ち主が帰ってくるのを待つべきだろうか? でもこんな薄汚れた姿をみて持ち主はどう思うだろうか? あたしのことを信用してもらえるだろうか?


 いったい、こんな見すぼらしい姿のどこを信用してもらえるというのだろう? しかも、すでにことわりもなしにこのお部屋に入ってきてしまっているのだから、きたならしい野良猫のように追い立てられたとしてもけっして文句はいえまい。


 そんなありさまを想像してあたしは落胆とはずかしさでいっぱいになった。自分の見苦しさがいたたまれなくなった。この髪、この頰、この手、この脚、この体、この服! 薄汚れた全身! あたしだって小綺麗でこざっぱりとしていたかった。髪につけたリボンを揺らしてスカートの前に両手を添えながら、かわいくにっこりとほほえみ、どうしてここに入ってきてしまったかを、はずかしそうに丁寧にお話ししたかった。


 じゃあ、あたしはここを出て行って最後の場所を探すべきなのだろうか?


 最後の場所? あたしはそのことを考えると身震いした。もしここを出て向かうとしたら、あたしは置いてきたビニールシートとリュックのところへ戻りたかった。こんなあたしでも何も言わず暖かく待っていてくれるもののところに帰りたかった。


 あたしはそこで最後の時を静かに迎えよう。悪魔は来たければ来るがいい。あたしはもう気にしなかった。あたしはあたしの心とともにいよう。頑固でわからずやだけれど、あたしはやっぱりそんな心と一緒にいたいと思った。体は朽ちて、心も消えてしまったとしても、思いだけはどこかに残りそうな気がした。早くしないと、ビニールシートとリュックのところにさえ戻れないかもしれない。


 あたしは両手を床につくと震える足でやっと立ち上がった。


 スプーンを流しで洗い、ヨーグルトの容器を冷蔵庫に戻した。テーブルの上にこぼれたヨーグルトの雫をペーパータオルでていねいに拭きとり、ごみ箱に捨てた。あたしはこれらのことをしながら、何度も冷蔵庫のドアに手を伸ばしそうになった。ヨーグルトのふわふわとした白さが頭の片すみに居座ってあたしをそそのかし続けていた。でも決心は固かった。


 ようやく、あたしはキッチンを出て白い大きな部屋を横切り、扉の方へ向かおうとした。


 少し歩くだけでも息切れがした。膝ががくがくと震えた。途中でランタンをソファの影におき忘れていたことに気づき、とりにいこうとした時、廊下の奥の方から何かが倒れるようなくぐもった音が聞こえた。


 あたしはどきっとして思わず立ちどまった。


 耳をそばだてたが、もうそれ以上、何も聞こえなかった。どうしようか迷った。しばらくためらっていたが、ついに踵を返すと廊下へと向かった。


 廊下の明かりはひとりでに点いた。そこにはなにも変わったところはなかった。廊下の天井と壁は白く、床には絨毯が敷かれていた。廊下のつきあたりに一つと両側にいくつかのドアがあった。どのドアも白かった。それはすべて閉まっていた。


 いや、そうじゃない。


 つきあたりのドアは少し内側へ開いているような気がした。あたしは廊下を通るとそのドアへそろそろと近づいた。こんなことをしている場合じゃないのにと思った。でも、どうしてだろう? こんな時だからこそ、あたしは最後に何かを確かめたかった。


 ドアをそっと押してみた。ドアはゆっくりと内側に開いた。部屋の中は薄暗かった。あたしはいつでも逃げ出せるように、身がまえながら部屋の中に入った。ドアは開けたままにしておいた。


 この部屋も白かった。廊下から差し込む光で室内の様子がわかった。部屋の奥にベッドが一つ置かれている。その上に誰かが静かに横たわっていた。あたしはおそるおそるベッドに近づいた。


 女の人が寝ていた。

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