第17話 スタンド
静かだった。何の物音もしなかった。
あたしはベッドの縁に体をあずけたまま気を失っていた。気がついて顔をあげたけれど、女の人の顔をみるのが怖かった。あたしの両手はまだスタンドをしっかりと抱えていた。もし間にあっていたなら、女の人はまだ生きているはずだった。もし間にあっていなかったなら、どうしていいのかわからなかった。
あたしは誰か助けを呼びに行くべきだろうか? でもどこにどう行ったら、助けてくれる人を呼んでこられるだろう? そこまであたしの体力はもつだろうか? 助けてくれる人を呼んでこられたとしても、誰のことわりもなしにこの家にあがりこんでいることが分かったら、あたしはどうなるだろう? もしこの女の人が死んでしまったなら、あたしの責任にされるかもしれない。でももしこの女の人を助けることができるなら、それをすることが何より大切だと思った。どんなに苦しくてもそれを受けとめようと思った。あたしは自分より、この女の人が無事でいることを願った。
あたしは、毛布の下におそるおそる手を入れてみた。そして震える指先で女の人の手に触った。
暖かい感触があたしの指に伝わってきた。
ほっとした。そっと女の人の顔をみた。その顔は穏やかで微笑んでさえいるようだとあたしは思った。あたしは機械の方を振りかえった。機械の赤い光は消えていた。かわりに緑色の光が点いていた。
あたしは大きく息を吸いこむと吐きだした。体の中から緊張感が抜けていく。寒くもないのに体ががたがたと震えた。目からひとしずく涙が頬をつたう。それを指先でぬぐうと、女の人の顔をみつめなおした。
あたしはその顔に、よかったね、って声をかけた。女の人は、ありがとう、って、ほほえんでくれたような気がした。
あたしは、となりの部屋にあった紐でスタンドをベッドの柱にしばりつけた。もう、たおれてきちゃだめだからね、って、スタンドにいった。ちょっときつくいいすぎたかもしれない。しばらくして、スタンドにあやまりたくなった。だから、そうした。
スタンドだってたおれたくてたおれたんじゃないってことは、あたしにだってよくわかっていたから。でもどうして、あの時、スタンドの足が折れたんだろう? もともとひびでも入っていたんだろうか?
あたしは機械の前に行くと落ちていたスタンドの足を拾った。足の根元には、ネジの穴が二つ空いていてその一つに半分に千切れたネジが引っかかっていた。ネジはさびて赤茶けていた。
あたしは機械の前面に扇のような形の小さな窓があいているのに気がついた。
そこに針があって、時計盤のような目盛りもついていた。今は、その針は左側に振り切れていた。目盛りの下に帯が描いてあって、左から右に四分の三いったところで、緑から黄色に変わって、最後の一目盛りが赤だった。
どれくらいたったら、目盛りは右側の赤のところにたどりつくのだろう? わからなかった。様子をみるしかないのかもしれなかった。それまでの間にこの家の人は帰ってくるのだろうか?
あたしは女の人がひとりでここに住んでいるとはとても思えなかった。目を閉じて眠ったまま、どうしてひとりで暮らしていけるだろう? 女の人には他にもお世話が必要なのかもしれなかった。
ちょっとあたしは怒っていた。
どうして、女の人をひとりにしたままこの家の人は留守にしたんだろう? あたしなら、絶対にそんなことはしない。帰ってきたらきつく言ってやる。あたしはそれまでの自分を忘れていた。あたしは今、自分が置かれている状況や体調をすっかり棚の上にあげてしまっていた。
足取りはおぼつかなかったが、あたしはまだ怒りながらキッチンに向かっていた。この家の人はもうすぐ帰ってくるだろうか? でも帰ってこなかったら、あの女の人はどうなるのだろう?
彼女には誰か様子をみる人が必要だと思った。この家の人が帰ってくるまでは誰かが気をつけてみていてあげなくちゃ。もう二度とあんなことはごめんだと思った。でも今、あたし以外にこの家にそれのできる人はいなかった。
女の人のお世話を続けるためには、あたしには体力が必要だった。あたしはもう、どろぼう猫になってもかまわなかった。あたしのことを誰かが、たとえあたしの良心ですら、どう呼ぼうとかまわなかった。
あたしにはあたしを必要としている人が今ここにいるのだから。少なくとも、そのことであたしは頭がいっぱいだった。たとえここを追い出されることになったとしても、ここをうまく回していくのは、今はあたししかいない。だから今できることをやろう。そう思うとあたしは唇を真横にむすんだ。
ヨーグルトをためらいながらも口に運んで少し体調が戻ってから、冷蔵庫からハムと野菜を取りだし、あたしはフライパンで簡単に炒め料理を作った。それからテーブルにつき、震える手でガツガツ食べだした。食事が終わるとあたしはしばらく休んだ。
手と脚の震えはまだ止まらなかった。
回復にはまだ少し時間がかかるのかもしれなかった。空腹感は和らいだが、まだ何をするにもだるかった。あたしはキッチンのテーブルにほおをついて、ぼんやりと白い壁を眺めた。壁はしみひとつなかった。コンロの周りに調味料もきれいにならべられていた。
まるでTVに出てくる料理番組のセットのようにみえた。この家の人はよほどのきれい好きなんだろう。
息巻いていたけれど、やはりあたしは少し後悔した。やってはいけないことをやってしまったような、うしろめたさを感じていた。でも罰は受けるつもりだった。働いてでも何をしてでも償うつもりだった。
あたしは女の人とそれからみんなに、ありがとう、といった。いつものとおり、誰も何も答えてくれなかったけれど、あたしは、助けられたんだ、と思ってちょっと涙があふれた。
あたしはもう一度奥の部屋へ行くと、女の人の顔を覗きこんだ。
女の人は安らかに眠っていた。安心したあたしは廊下沿いの部屋のドアを一つ一つ開けて中を確かめた。ベッドルームが二つあって、その他に浴室と洗面とトイレがあり、さらに物置のような部屋が一つあった。
この地下の家は、窓のないこと以外はまったく普通の家のようにみえた。もっともあたしは普通の家がどういうものだか、あまりよくわかっていなかった。オペラハウスでは薄暗い地下の部屋があたしとフロレンのすみかだったし、学校に行っていないあたしには家に遊びに行けるような友達は一人もいなかった。
あの女はあたしに自宅で学習できる環境を苦心して整えてくれていた。あの女が仕事で部屋にいない間あたしは、一人でお勉強をしていた。ときどきフロレンは、仕事の合間にそんなあたしをのぞきにきた。あたしはいつも向かっていた机から振り向くとそんな彼女に笑顔で答えた。
あたしは算数と理科が得意だった。ドリルではいつも高い点数をとって、あの女をよろこばせていた。国語はちょっとにがてだったかもしれない。あたしはときどき字の書き方や順番をまちがえて、フロレンに笑われた。
あたしのむっとした顔を見て、あの女はさらに大きな声で笑うのだった。
そんなフロレンの笑い顔をみているうちにあたしもおかしくなってきて、二人して笑いころげた。こんなときあの女はいつもあたしのことをくすぐった。あたしはさらに笑いころげた。あの女も子どものように、にこにこしていた。
何がそんなにおかしかったのだろう? 今となってはあまり思いだせない。でもその感覚だけは残っていて、あたしをなつかしい気持ちにさせる。
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