第7話 お姫さまと王子さま
心細かった。
下り階段を降りることにしたものの、あたしの勇気はずいぶんと小さく縮んでしまっていた。鼠が一匹、足元を通り過ぎただけでも、震えあがってしまいそうだった。それでもあたしは管理人たちや、頬をなでていったあの気味のわるいものから遠ざかれるかと思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。重い鉄のドアを全身を使って押し開けると、ランタンの明かりをたよりに一歩踏みだした。
階段はかなり狭かった。子どものあたしでも通るのがやっとだった。ランタンで周囲を照らすとそこはかなり広い空間で、階段はその壁際にそって下の方へと続いていた。あたしは手すりにつかまりながら一歩一歩下っていった。
体の痛みは少し引いていた。それでも何箇所かはあざになっていると思う。
階段を下りながらまわりを見下ろすと、広い空間の真ん中に、鉄で組み上げたやぐらや塔のようなものが大きく突き出ているのがぼんやりと見えた。その横には巨大な箱が何個も積み上げられ高い建物のようになっていたりした。ランタンの光は弱く、すべてを照らし出すことはできなかった。
やっと階段が終わり、あたしは階下にたどり着いた。長かったと思う。その間あたしはずっと考えていた。あたしは不安だった。あたしにはお金も食べものも、身寄りもなかった。何もなかった。
持ちものといえば、今着ているこの服と靴下とスニーカーとランタンとリュックとリュックの中に入っている着替えとターコイズのタペストリー柄のビニールシートとチョコクッキーの残り半分だけだった。なぜあたしはもっと食べものをもってこなかったのだろう? フロレンがいなくなったことや、管理人たちのことであたしは、気が動転していたからだろうか?
このままここでやっていけそうにはとても思えなかった。お星さまはあたしの願いを聞き届け、見守り手助けしてくれるだろうか? オペラハウスはあたしを匿い守ってくれるだろうか? いったいあたしはどこに行けばいいのだろう? そのうち誰かに見つかってしまうに違いない。そしてあたしは管理人たちに引き渡され、あたしの知らないどこか遠くへ連れて行かれるに違いない。それとも先ほどの気味のわるいものがあたしを捕まえ、あたしを……もうそれ以上はぞっとしてあたしは考えるのをやめた。
いったいフロレンはどこに行ってしまったのだろう。元気でいてほしい。あたしは大丈夫だから、お願い、無事でいてほしい。フロレンのことが心配だった。でも彼女の顔を思い浮かべると心なしか気持ちが落ち着き、その分不安が和らぐのを感じた。
この広い空間を調べようと、あたしは、背をできるだけ伸ばしてつま先立ちし、手に持ったランタンを上にかかげ周囲を照らしてみた。さまざまな形をしたものが、打ち捨てられた残骸のように光の中に浮かび上がってきた。
まるで巨大なガラクタがたくさん漂う夜の海に迷い込んだようだった。
手前にあるものをよく見ようとしてコンクリートの床を歩き近寄った時、あたしは身がすくんだ。そこには尖った牙をむき出しにした、大きな恐ろしい半身像があった。
ランタンをかざしてよく見ると、それは石の壁から浮き出るように掘られた、けものの像だった。横向きになって、右前足は上半身を支え、左前足を前方に突き出して、まるで閉じ込められていた牢獄から這いでようとしているみたい、とあたしは思った。
けものは、怖そうで醜かった。でもどこか、悲しそうだった。
さわった時にあたしは気づいた。石の壁も、けものの像も、本物そっくりに作られていたけれど、本物じゃなかった。それでもあたしは気にしなかった。あたしは見とれていた。その姿を忘れないでいようと、ランタンをかざし、じっと見つめ続けた。そうしている内に、美しいとさえあたしは思った。
もう一度、近づいて、その前足にそっと触れてみた。せいいっぱい手をのばし、そいつの
いつかは、大きな首をこちらに回してあたしを見てくれるかしら? そうなるまで何年待てばいいのだろう? それを待ち続けられるほどあたしは我慢強いとは思えなかった。でも時々ここにきて声をかけてあげることぐらいなら、できるかもしれない。
あなたとお友達になれたら、うれしい。そう、あたしは思った。
けものは何も言わなかった。けものはあたしのことなんかきっと気にしちゃいないんだ。けものにはきっと別の用事があるのよ。何か大切なことが。もしかして、となりの国の悪い王さまに連れて行かれた、かわいいお姫さまを助けに行くところかもしれない。それとも、死にひんした幼い王子さまに、断崖絶壁に生える薬草を取りに行こうとしているところかもしれない。
あたしはお姫さまや王子さまがうらやましかった。あたしにもそんなけものがいてほしかった。だけど、あたしにはそんなけものはいなかった。
目を閉じて、ターコイズのタペストリー柄のビニールシートがあたしを乗せて空を飛び、山を越え、谷を越え、どこか遠くのよその国まであたしを運んでいくところを想像してみた。ビニールシートは浮かび上がることすらできなかった。あたしはそんなビニールシートを、よしよししてなぐさめた。ビニールシートに無理なお願いをしたあたしがいけなかったと思った。
自分の小さな手を眺めた。それから再び、けものの悲しそうな目を見つめた。
けものは泣いているようにみえた。なぜだろう? なぜ、けものは泣いているのだろう? けものは自分が動けないことを知っていて泣いているのだろうか? 自分のなかに温かい血が流れていないことを知っていて泣いているのだろうか? 自分が紙とせっこうでできているかもしれないと気づいて泣いているのだろうか? だから自分がこの世界に働きかけることができない、誰も助けることができないと思って泣いているのだろうか?
広くて大きな地下室の空気はひんやりとして冷たかった。自分の吐く息の音だけが聞こえるようだった。あたしはその中に本当のことがあるような気がした。
いいえ、そうじゃない。けものは泣いていない。泣いてなんかいない。あたしは思った。泣いているのはあたしなんだ。あたしがけもののために泣いているんだ。紙とせっこうで閉じ込められ、何も感じられないもののために涙を流しているんだ。上げた前足を地面に下ろすことさえできないもののために泣いているんだ。それを悔しいと思うことすらできないもののために涙を流しているんだ。
だから、あたしは動けないもののかわりに、もの思うことのできないもののかわりに、お姫さまと王子さまを助けに行こう。そう、あたしは思った。
ひざまずいて、けものの前足にかがみ込むと、そこにキスをした。本当はほっぺたにしたかったけれど、あたしの身長ではとても届かなかった。立ち上がると、再びランタンをかざし、けものの目をのぞき込んだ。けものは、もう、泣いてなんかいなかった。あたしは胸の中に何かが湧き上がるのを感じた。何かことばにできないものがあたしの心の中に生まれているような気がした。
あたしはランタンを手に持ち直し、けものが向かおうとしている方向に歩きだした。打ち捨てられたような残骸の中を、ひとつ、ひとつ、よけながら進んだ。残骸たちは無言であたしに道をゆずってくれているような気がした。そのひとつ、ひとつに、おはなしがあって、そのひとつ、ひとつに、みちのないみちをおしえてくれる、けものがいるのかもしれないなと、あたしは思った。そう思うと、あたしは泣きだしそうになった。
フロレン、あたしはここにいるよ。お顔にすりきずをつくっちゃったけど、全身に打ち身やあざもできちゃったけど、あたしは元気にここにいるよ。あなたが買ってくれたターコイズのタベストリー柄のビニールシートもあなたが焼いてくれたチョコクッキーもいっしょだよ。みんなで、力をあわせてやっているの。
ビニールシートもチョコクッキーも、フロレンが用意してくれたものはみんなあたしの友達だった。フロレンもあたしも何も言わなかったけれど、あたしには分かった。あたしはこうやって、いつもお世話されていたんだ。こうやって、いつも与えてもらっていたんだ。
だけど、あたしは彼女に何をしてあげただろう? あたしは彼女といっしょにいることしかできなかった。手をつなぐことしかできなかった。あの女があたしにしてくれたことを、あたしもあの女にしてあげたかった。
なんのしるしもなかったけれど、あたしは誰かにこっそりと見守られているような気がした。それはあたしの気のせいかもしれなかった。あたしは誰かにたよりたかったから、そういう気がするだけかもしれなかった。ひとりぼっちはいやだったから、自分かってに想像しているだけかもしれなかった。捨てられたガラクタのような気持ちになるのはいやだったから、夢をみていたいと思っているだけかもしれなかった。
でも、あたしは、そういうじぶんをしんじたいと思った。たとえ、そうではなかったとしても、そういうじぶんをしんじたい、そういうじぶんをまもりたいと思った。
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