第6話 ランタン

 暗闇の中を手さぐりで探して、ランタンをやっと見つけだした。


 ランタンは階段の中程、踊り場からさらに二、三段くだったところの踏み板と壁の間に隠れるようにして、まるで誰かがそこに置いたように挟まっていた。触ると傘の部分は凹んでいたが、それ以外は無傷のようだった。ダイヤルをひねると灯った。暖かい電気の光が周囲に拡がる。今まで暗闇に慣れた目には眩しかった。


 手すりにつかまりながら、音のしないように階段を登る。用心のためランタンを途中で消した。さっきあたしが格闘したドアにたどり着くと、ドアに耳を押し当ててみる。向こう側に人の気配はなかった。何の物音も聞こえない。ドアのノブをそっと回してみる。ドアには鍵が掛かっていて開かない。


 あたしは再び階段を下り階下に戻った。ランタンを再び点けるとリュックを探しジッパーを開けた。中からピクニックに持っていく小さなビニールシートを取り出し埃の積もった床に敷き、全身の痛みが少しでも楽になるようにして座った。


 ターコイズのタペストリー柄のビニールシートはあたしのお気に入りだった(ランタンの光の下ではほとんどターコイズに見えなかった)。近くの雑貨屋でそれを見つけた時、興奮してフロレンのスカートの裾をむりやり引っ張り、彼女をそこまで連れていった。あの女は、ピンクのたんぽぽ柄の方がかわいいと言った。でもあたしは、そんな子どもじみたものはいらないと言って譲らなかった。あたしが一度言い出したらテコでも動かないことを知っていたフロレンは、タペストリー柄のシートを掴むと、悲しそうな顔をしてお会計にならんだ。その横であたしはとってもうれしそうに彼女の手を握っていた。


 そのことを思い出し、あたしはちょっと笑うと涙ぐんだ。


 リュックを手元にたぐり寄せると、ポケットから油紙で包んだオートミール入りのチョコクッキーを取り出した。それはあたしが世界で三番目に好きな食べものだった。クッキーは二つに割れていたが、あたしは気にしなかった。頬張ると口の中にバターの風味とチョコの甘みが拡がり、体のすみずみまで元気になっていく気がした。作ってくれた人は今ここにいなかった。あたしの胸は痛んだ。それ以上考えることをやめようと思ったが、できなかった。


 あたしの持ち物や思い出の全部があの女とつながっているような気がして、再びあたしは泣きだした。涙は止まらなかった。どうすればいいのだろう? あたしはこの先どこに行けばいいのだろう?


 見守ってくれる人が誰もいないこの場所で、あたしは涙を流し続けた。


 寂しかった。フロレンに会いたかった。フロレンのエプロンに顔を埋めて泣きたかった。フロレンの困ったような顔に笑いかけたかった。


 ふいにどこかで大きな音がした。


 あたしは驚いて泣き止んだ。とっさにランタンの灯を消す。リュックとランタンとシートをかき集めて胸に抱き、音をたてないように階段の裏側に隠れようと少しずつ後ずさりした。


 もう一度音がした。胸の鼓動が早まる。あたしは階段の裏側にたどり着くと奥の壁に背中を押し付け、できるだけ音のした方から遠ざかろうとした。もうそれ以上、音は聞こえなかった。暗闇の中で見えないものを見ようとあたしは身じろぎもせず目を見開いていた。


 ずっと前にフロレンが夜寝る前に読んでくれた本に、闇の中でうごめく怪物たちの話があった。怪物たちは地下の深い穴ぐらから一匹また一匹とやってきては、恐ろしい顔をしてひとりまたひとりと小さな子どもを飲み込むのだった。


 こんなものが本当にいるのだろうか? 光の届かない暗闇の地下で、あたしは急に怖くなった。そんな本を図書館からわざわざ借りてきて読み聞かせた、フロレンをあたしは呪った。


 暗闇の中で何かが動く気配がした。自分の心臓が凍りついたような気がした。あたしは必死にそれはおまえの気のせいだと自分にいいきかせようとした。


 でも現実は非情だった。


 あたしは次第に自分が置かれている状況を理解し始めていた。なぜ、あの人たちがここに降りてこようとしなかったのか、そのことに気づき始めていた。なぜ、オペラハウスでときどき人がこつ然と姿を消したのか、理由が分かったような気がした。


 その理由は、今あたしの目の前にいて、緑色に光る二つの目でじっとあたしの顔を覗き込んでいた。


 金切り声を上げようとした。ありったけの声であの女に助けを呼ぼうとした。でもできなかった。生臭くて温かい息があたしの頬にさわった。あの本の子どもたちのようにあたしも飲み込まれる! そう思ってあたしは身を縮こめた。


 痛いのはいやだった。暗くてねばねばした胃袋の中はもっといやだった。


 彼女にさよならも言わずにこの世界から消えていなくなりたくなんかなかった。きっとあの女があんな本を読んだから、こいつがあたしの目の前にやってきたんだ。そうとさえ思った。今度フロレンが帰ってきたら、いっぱい文句を言ってやる。絶対に謝まらせてやるんだ!


 そうして恐ろしさに目を閉じながら思った。あいつは今、耳元までさける大きな口をあけて、あたしをおいしそうに飲み込もうとしている。もうすぐあいつのいやらしい牙があたしをとらえるんだ。ああ、あたしはもう助からない。せめてお願いだから、痛いのはだめだから噛まないで一気に飲み込んでほしい。


 あ、だめ! やっぱり飲み込まないで。そのままにしておいて。あたしはここにいなかったことにしておいて。あたしちっちゃいから、食べてもきっとお腹一杯にならない、よけいお腹すいちゃうよ。おまけにあたし頑固だから硬くってなかなか溶けないと思うから、お腹こわしちゃうよ。だからパスしてね。バイバイしようね。


 生温かい濡れたものが頬にさわった。あたしはびくっとして氷のように固まった。


 もう、だめだ。


 その時、何かが一瞬ひるんだような気配がした。それでもあたしは助からないと思った。だけど、しばらくたっても何事も起こらなかった。


 ふと気づくと、頬に臭くて生温かい息はかかっていなかった。


 いやまさか、そんなことはない。あたしは恐る恐る目を上げた。不吉な緑色に光る目は、耳障りな音とともにどこかへ消え去っていた。周囲はしんと静まり返って、あたしの早鐘のような胸の鼓動だけがあたりにこだましているような気がした。真っ暗な中でリュックとランタンとシートをしっかり胸に抱いた姿のまま、あたしは石像のようにしばらく動くことができなかった。


 あたしは思い出していた。あの本の中には挿絵がついていた。暗闇に慣れっこのあたしでも夜中にうなされそうな絵柄だった。


 よりにもよってフロレンは寝る前に何であたしにこんな本を読んだのだろう?

 あのとき、目に一杯の涙をためながらフロレンを睨みつけると、彼女はちょっと困った顔をして、図書館で借りる本を間違えたとか、こんなに怖い挿絵がついているとは思わなかったとか、口の中でもごもごといった。


 だけどあたしにはわかっていた。あの女はあたしにちょっと仕返しをしようとして、あたしのことを怖がらせようとしてこの本を借りてきたんだ。あたしが昼間あまりにいうことを聞かなかったものだから、あまりにいじっぱりだったものだから。


 でも大人だったあたしは手で涙をぬぐうと、心の中でフロレンを許した。何故って、あたしはあの女のことが好きだったし、彼女にもちょっとした楽しみはあってあたり前だと思ったから。


 それからあの女はどうしたんだっけ? 両手をあたしの首にまわすとなにかを結びつけるしぐさをした。そして頭をなでながら、どこにいても、どんなに離れていても、私はあなたを守るからと言った。そのあと、あたしの両方の頬に順番にキスをしてくれた。あたしはくすぐったくって笑った。


 さっき、フロレンはあたしのことを守ってくれたのだろうか? わからなかった。もしそうだったら、あたしはうれしかった。もしそうでなかったとしても、あたしはうれしかった。



 十分な時間が過ぎて暗闇のなかに新たな気配のないことを確かめてから、あたしは恐る恐るランタンを灯した。床にはなにか大きな重いものを引きずったような痕があった。よくみると積もった埃の下にも、うっすらと古い痕が残されている。新しくできた痕の方をたどっていくと、左手の壁際で消えていた。


 不安にかられて、ランタンで周囲の壁を照らしながらすみずみを調べてまわった。


 痕が消えたのと反対側の壁に隠れた廊下があるのをあたしは見つけだした。外から眺めているだけだと、そこは壁にしか見えなかったけれど、近づいてみると、手前に短いついたてのような壁があってその向こうに本当の壁があった。


 二つの壁の間が狭い通路になっていた。通路はすぐに行き止まりになり、左側の本当の壁にドアが取りつけてあった。ドアは鍵がかかっておらず、開けると、すぐに踊り場があり、そこから暗闇の中へさらに下へとつづく階段が見えた。


 あたしは迷っていた。上階のドアは鍵がかかっていてそこから出ることはできなかった。例えドアを開けることができたとしても、あの人たちがどこで見張っているか分からなかった。それに先ほど起きたことで、ここにこのままいるのもすごく怖かった。でもさらに階段を降りて行って、もっと危ない目にあったらどうしよう? やっぱり誰かがここに助けにきてくれるまで待っていたほうがいいのだろうか?


 だけど、誰が助けにきてくれるのだろう? あたしにはあの女以外にたよれる相手はいなかった。もともとあたしがここにいるなんて、誰が知っているだろう?  管理人たちだって、知らないかもしれない。いやもしかして、あの人たちはあたしがここにいると知っていて、わざとそのままにしているのかもしれない。それがどうなるか知っていて、放っておいているのかもしれない。


 そう考えると、あたしはやはりここを出ようと思った。


 両手を組みひざまずくと、心が変わらないようにとお星さまにお祈りした。この暗い地下からは見えないけれど、お星さまはきっとあたしの願いを聞きとどけてくれたと思う。


 シートの埃を叩いて落とし、それを丁寧にたたみリュックにしまう。


 ふとあたしは、リュックの底の方に何か硬い小さな長方形のようなものがあるのに気づいた。リュックの外側から触ってみてそれが分かった。あたしはリュックを開けて調べてみようかと思った。でもそれには着替えをいったん全部出さなければならない。こんな埃だらけのところでそれをする気にはあまりなれなかった。あたしは先を急ぐことにして、調べるのは後回しにしようと思った。


 スニーカーの靴ひもを締めなおし、リュックを背負い、ランタンを手に持ち、あたしは下り階段のあるドアへ向かって歩きだした。

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