第5話 黒々とした絵の具
背後で、ロックされたドアノブを回そうとする金属音が聞こえる。
あたしは跳ね上がるように目覚めた。意識を失っている間に痛みは腰から全身に拡がっていた。喉が渇き自分がぼろ布のようになった気分だった。
それでも何とか身を起こすと、そばに転がっていたリュックを探り当て、急いで手すりから階下に投げ落とす。踊り場と上階段の隙間にやっと体を滑り込ませ、上から見えないように踊り場の端に両手でぶら下がった。
鍵を回す音がしてドアが開けられた。懐中電灯の光が舐めるように周囲を照らす。あたしは宙づりになりながら、両腕を伸ばし必死に耐える。瞬く間に筋肉がこわばる。指がちぎれそうに痛い。
あの人たちは階段を降りてこない。ドアが閉まる音がする。両手はもう我慢の限界に達している。もともと這い上がる力などあたしにはなかった。
それでも幸運の神様は、哀れな少女を見捨てなかった。手を離し落ちたところは、さっき投げ落としたリュックの上だった。リュックはクッションの役目をはたした。
すでに痛みを感じていた体が、落下の衝撃でさらに痛めつけられた。あたしは小動物のようなうめき声を上げ床に跳ね返った。しばらくは息ができなかった。苦しさと息ができない恐怖で凍りつき、このまま窒息して死んでいくとさえ思った。
どれほどの時間がたっただろう? ようやくあたしは手をついて身を起こした。真っ暗で何も見えなかった。体はずきずきとしていて、自分がまだこの世界から旅立っていないことを教えていた。光のとどかない闇の底で、あたしはひとりぼっちだった。
急に思いが心の底から湧き上がってきた。あの女の大きな体に自分の手を伸ばして抱きつきたかった。太くて暖かい手であたしを何も言わず抱きしめてほしかった。あたしは、フロレンがあたしにいつもそうしてくれたように、両手を小さな肩に回し、自分自身を抱きしめた。
ふいに目から大粒の涙が溢れた。涙は、頬を伝い、膝の上へこぼれ落ちた。あたしは声を押し殺し、すすり泣いた。
ああ、フロレン、どうしていなくなってしまったの? あたしが何か悪いことをしたから行ってしまったの? どこがいけなかったの? これからは後片付けはちゃんとする、お食事の前に手もきちんと洗う、朝呼ばれたらすぐに起きて着替える、お部屋もきれいに片付ける、寝てるあなたの顔にいたずら書きなんてしない。だから、だから、お願い戻ってきて。
どの方角からも、どの場所からも、誰からも、何の返事もやってこなかった。あたしは泣き疲れて、日照りが続く地域の泉のように枯れた。頭の芯が疼く。気持ちが沈んでいる。暗闇と静寂だけがあたしのそばにいてあたしを慰めようとしている。
オペラハウスの地下のさらにその下の漆黒の闇の中にあたしはいた。誰かが黒々とした絵の具でこのあたり一面を念入りに塗りつぶしたに違いない。それを明るく塗り替える絵の具など、あたしは持ちあわせていなかった。塗り筆もなかった。擦り傷と痛みの残る体をかばいながら、あたしは少しずつ這うように進んだ。
しばらく行くと壁が行く手を阻んであたしはもうそれ以上進めなかった。しかたなく壁伝いに左手の方向にそれる。
明かりがほしかった。ランタンはどこへ行ってしまったのだろう? 鍵束? 鍵束をあたしはどうしただろう? 思い出せなかった。階段を転がり落ちるときにどこかに落としてしまったのかもしれない。探せば見つかるだろうか?
指先が階段の鉄の踏み板に触れる。その冷たさに思わず手を引っ込める。あたしは迷っている。どうしてここに降りてきてしまったのだろう? ここに何があるというのだろう? 何もありはしない。ただまっくらとほこりがあるだけだ。ほこりっぽい壁で囲まれたお部屋と冷たい階段があるだけだ。
いや、そうじゃない。あたしは知っている。あの女はここに降りるなと言った。管理人たちはここに降りてこなかった。でもあたしは今ここにいる。ここにいてまだ息をしている。光も届かない真っ暗なお部屋で、全身にあざとすり傷を作りながら、それでも今ここにこうしている。それはあたしがここを選んだからだ。あたしがここに来たかったからだ。あたしが自分の行く先をここに思い描いたからだ。
それを思うとすこしだけ心は慰められた。そしてその心が体をいたわるのを感じた。
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