鬼(後)


身体が海の中にいるようでした。

照りつける太陽の中で全力で走ると、それほどの汗が流れます。

けれど、私を追うハーンさんも、八雲さんも、汗の一滴も流すことはなく、

速さを緩めることも無く、私を追い続けました。


道路を走る私達は、車の一台とすれ違うこともなければ、

通りすがる人と出会うこともありませんでした。

世界が私達だけになってしまったかのようです。


何も考えずに走り続けるべきであるのに、

こういう時に限って、いろいろなことを考えてしまいます。


先週の日曜日の夜、私は葛城さんに会いました。

直接会って話したいと言うので、私達はそうしました。

手提げ鞄に、デジタルカメラとクッキー缶を入れて行きました。


私達は裏山で会いました。

裏山には整備された公園があって、

道のないような更にその奥に行くと廃墟があります。

かつては山小屋だったのでしょうか、

夏は乾いているのに、

木の床は不思議とじっとりと湿っていて、入るとぎゅうと音を立てます。


時間帯は夜に近かったけれど、世界は夜になるかを悩んでいるようで、

ライトも無いのに葛城さんの顔はしっかりとわかりました。

涙の跡がありました。

だから、彼女が私に会った時ににこりと微笑んだのを見ても、

ああ、泣いていたのだなとしか思えませんでした。


「私ね、転校するの」

「……転校?」


「うん、転校。親の都合でね……けど、したくないな」

そう言って、しばらく葛城さんは目を伏せて黙っていました。

長い睫毛がしっとりと濡れていました。


彼女は言葉を探していたようです。

それが美しい言葉であるのか、汚い言葉であるのか、わかりません。

世界中のありとあらゆる本を彼女が読んでいたとしても、

それにふさわしい言葉を見つけることはできなかったと思います。

しばらく経って、口を開きました。


「私、私ね……タヒトさんのことが好き」

私の顔を見るために、彼女がどれだけの勇気を振り絞ったのか、

私にはわかりません、想像することもできません。

世界で一番シンプルで、おそらく世界で一番言われている言葉を、

彼女は私に言いました。

彼女は女の子で、私も女の子でした。

私はそういうことがあることを知っていました、知識としてです。

ただ、どこか遠い世界の出来事であるかのようで、

それが現実に存在する血肉を持った事実であるということは、

今この瞬間になるまで、知りませんでした。


「……気持ち悪いよね」

「そんなことないよ」

そんなことはない、それは確かな事実です。

気持ち悪いなどとは思いません、私はそういう差別が嫌いです。

世界によって否定されるべきであるというのならば、

目の前の彼女ではなく、猫を殺す私です。

彼女の愛情は人の愛ですが、私の愉悦は鬼の愉悦です。

私は人の皮を被った鬼であるのです。


「タヒトさん……」

潤んだ瞳で、葛城さんは私を見ました。

彼女は私に抱きつきました。昼の太陽の暖かさが私を包みます。


私は彼女を突き飛ばしました。

友情の抱擁ならば、私は受け入れていたでしょう。

けれど、その愛の中に――ちらりと性を見た時、

私の中の潔癖な部分が、彼女を拒絶しました。


私は良い子でありたいと思います。

友達と仲良くしたり、困っている人を助けたり、

誰もいないところでゴミを拾ったり、健康的な生活を送ったり、

他人に評価されたいというわけではありません、私が私を評価したいのです。


差別などはしたくはないのです。

けれど、彼女の愛情が私に向けられた時、

私は――どうしようもなく、面倒になってしまいました。


私は彼女を殴りました。

「あがっ……」


――人を殺して、その皮を被ってその人に化けて、そしてまた人を殺す……


良いのです。

私は鬼です。

人の皮を被った鬼です。

私の中の善なるものは、いつの間にか鬼に乗っ取られて消えてしまったのです。


私は彼女の上に馬乗りになりました。

そして、殺しました。楽しかったです。

良い気分でした。


しかし、桃太郎がそうであるように、一寸法師がそうであるように、

どれだけ暴虐を働いても、最後に鬼は退治されます。

何故、気づかなかったのでしょう。


距離は開くことも縮まることもなく、

ハーンさんと八雲さんは私の後ろにぴったりと付いています。

今、自分でどこを走っているのかわかりません。

ただ住宅街から離れた奇妙にひっそりとした場所であることだけは確かです。


『罪を悔い改めなさい』『死後さばきにあう』『地獄は永遠の苦しみ』

黒地に白く太い字で書かれた看板が目に入りました。

普段は視界に入っても無視するようなそれらの文字が、

今、私に訴えかけているようです。


どこか行き止まりがあったわけではありません。

しかし、私は立ち止まり、振り返りました。


「……ご」

立ち向かうわけではありません。

もう私は人間ではありません、

ならばせめて私の中の人間が鬼を裁かなければなりません。

私は死刑執行人に首を差し出すように、頭を垂れました。


「ごめんなさい」

私が言葉を発すると同時に、八雲さんが金属バットを振るいました。

想像していた痛みはありませんでした。

しかし、ぐちゅりという肉を潰した音はたしかに聞こえます。


金属バットの下に、ぐじゃぐじゃの小さい肉塊がありました。

鼠のようなサイズのそれは、たしかに人の形をしていて、

血と内蔵が混ざっていたけれど、それは確かに紅い肌をしているとわかりました。

鬼です。

小さい鬼が、私の足元で潰れていました。


「いやぁ、間に合ってよかった。まだ、皮を被っていない奴だ」

へらへらと八雲さんが笑っています。

私はへなへなとその場に座り込んでいました。


「鬼というのは群れをなす、この街には何匹も鬼がいて……

 その内の一匹が、君を狙っていたんだ」

「えっ……?」

「全員潰すのはなかなか大変だったし、多少の犠牲は出してしまったけれど……」

悲しそうな顔で、八雲さんが言います。

本当に悲しいのかは私にはわかりません。


「ハーン先輩がなんとかおびき出してくれた。

 君が殺されてしまう前に退治できてよかったよ」

「うんうん……」

ニコニコと微笑んで、やはりハーンさんが頷いています。


「あ、はは……」


私の口から笑いが漏れていました。私は鬼ではなかったのです。

ある意味で私にとっては救いでした。

私の中の悪辣さに理由があることで、私は自分の罪から逃げることができました。


「じゃあね」

と言って、ハーンさんも八雲さんもすぐに行ってしまいました。

蝉が鳴き、太陽は天高く昇り、

私の身体から、運動によるものでも暑さによるものでもない汗が流れます。


二人が消え、唯一人、残されたのは――



殺人鬼


平気で殺人をする、鬼のような人間。

精選版 日本国語大辞典


何人もの人を殺した悪人を、鬼にたとえていう語。

大辞林 第三版


以上より引用

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