ぬらりひょん(後)


布団を被り、家の中に籠もっていた。

家の中にいる限りは、少なくとも家の中での安寧は守られるはずだ。

少しだけ減っている冷蔵庫の中の麦茶から目をそらしながら、カオは震えている。

太陽は狂ったように熱量を放射し、蝉はひたすらに鳴き続ける、

電気を消しても、カーテンを閉めても、無遠慮な光はカオの家の中に入り込む。

布団を被り、スマートフォンの明かりだけを頼りに何も見ないこと。

耐えられなくなるまで、何も食べないし、飲まない。

痕跡に気づかないふりをする、ただひたすらに目線を下にやる。

未だに出会わぬもう一人の自分のようなものに出会わないために、

正気を保つために、それ以外のものは狂わせる。


「すいませーん」

ぴるおんとインターフォンが鳴った、平日昼間の来客者がまともであるわけがない。

そもそも出るつもりはないが、カオは息を潜め、来客者が過ぎ去るのを待つ。

「あれー?いませんかね、いますよね?」

ぴるおん、ぴるおん、ぴるおん、ぴるおん、ぴるおん。

インターフォンが何度も何度も平日のアパートに鳴り響く。

借金取りだろうか、だがそれにしては玄関の薄っぺらい扉越しの声は若く、軽い。

変声期を迎える前の少年のようなソプラノボイスのそれだ。

ごつり。鈍い音がドアを打った。ごつり。ごつり。何度も、何度も。

ぴるおんが止み、しばらくしてごつりも止み。

やっと終わったかと思えば、ひゃうと風切る音。

どぎゃあと鈍く、強い音がドアを襲った。


「えーと、春原はるばらさん……でいいのかな?

 早く出てきてくれないと、ホームラン打っちゃいますよ~!」

「えっ……」

明るい声と共にどぎゃあともう一度強い音がドアを襲った。

ノックの音でないことだけはわかる。

勢いよく硬いものをドアにぶつけたような音だ。そして、ホームランという言葉。

カオはスマートフォンの通話機能を起動する。

番号入力など久しく行っていない、それも110番通報などは初めてのことだ。


「通報は止めたほうがいいですよ」

ドア越しの声がやけにはっきりと聞こえた、耳元で囁かれるかのように。

スマートフォンを操作する手が、思わず止まる。

「ぬらりひょんに困っているんでしょう、僕が助けてあげますよ」

(……ぬらりひょん?)

――ぬらりひょんがいるねぇ!ぬらりひょんだぁ!

その言葉を聞いてカオが思い出したのは、昨日の声だ。

囃し立てるようで、どこか楽しそうで、調子外れな。


「貴方のフリをしている奴のことですよ」

スマートフォンから手を離す。

少なくとも、変質者や犯罪者の類ではないのかもしれない。

異常者であることは間違いないが。

カオの変化を知ったのか、ドア越しの声が笑った。うふ。

「扉を開けてくれますか、僕は君の力になりたいのですよ」

カオは目を閉じて、布団から起き上がった。

ふらふらと歩きながら、玄関へと向かう。

慣れ親しんだ狭い家は、目を閉じたままでも問題なく移動できる。

「……助けてくれますか」

ドア越しに、カオは言う。

一日喋らないだけで、喉が恐ろしく狭まったようだった。

声というにはあまりにもか細い、日本語に聞こえる音のようなものが出た。

ぎゃりと内鍵がひねられた。扉が開く。

カオは目を閉じているからわからない。

彼女の前に立つのは、黒いセーラー服に赤いリボンタイ。

彼女と同じ制服を着た少女だ、

右手には金属バットを持っていて、背中には革の鞄を担いでいる。

その金属バットで何度も何度も扉を叩いたのだろう。

短く切りそろえられた髪は白く染まっている、

だが、少年とも少女とも言えないような中性的な容貌が、

白髪すら気にならぬほどに、奇妙に彼女をあどけなく見せていた。


「……もちろん」

ですが、その前にと少女が結んで、

狭い玄関でカオの横をするりと抜けて、両手を使って彼女の目を覆った。

だーれだ、とでも言うかのような姿勢だった。

「あの……?」

「今はぬらりひょんがいないから大丈夫。

 僕が手を離したらとりあえず目を開きましょうか」

そう言って、少女が笑い、手を離した。

ばあ。と少女は言った。

それに合わせて、カオは目を開く。

どうしようもないほどに、何の変哲もない昼の光景があった。


床に座り、背の低いテーブル越しに向かい合う。

テーブルの上には麦茶が二杯。

「角砂糖は」

「ありませんけど」

「そうですか、じゃあ牛乳は」

「無いです」

「知ってましたか?麦茶と牛乳と砂糖でコーヒー牛乳の味がするんですよ?」

「あの……」

「ああ、安心してください。ちゃんと僕の分は用意していますから」

そう言って、少女は鞄からガムシロップとミルクポーションを三個ずつ取り出して、

自分の分の麦茶に注ぎ込んだ。

麦茶の色合いが薄まるのを見ながら、カオは何を言うかを悩む。


「……蘇芳八雲すおうやくも

「えっ」

「蘇芳が苗字で八雲が名前、好きな方で呼んでください」

「じゃあ蘇芳さん……」

「ヤクモが好きな方です」

「蘇芳さんが好きな方で呼んでくださいって意味ですか」

「まぁ、そうですね」

「はい……そうですか、ヤクモさん」

発生した奇妙な静寂に、

蝉の声とコーヒー牛乳味の麦茶を啜る音だけがやけにうるさく響き渡った。


「それで……その、何から聞いたら良いかわからないんですけど」

急な静寂を破って、カオが口を開いた。

どこかねめあげるかのように、ヤクモを見る。

「ぬらりひょんっていうのは何ですか?」

「わからないです」

「えっ……」

「言っておきますが、そもそも僕たちがぬらりひょんと呼んでいるだけで、

 正確に言えばアレは、

 妖怪図鑑に載っているようなぬらりひょんそのものというわけでもありません。」

「じゃあ、その……」

「ぬらりひょんというよりはドッペルゲンガー、

 そのようなものに近いのかもしれませんが、まぁどうでもいいことでしょう。

 だって、ほら……うっかり、ドッペルゲンガーだなんて名付けて、

 君とアレが出会っちゃって君が死ぬことになったら、

 そりゃもう後味が悪いですから」

ドッペルゲンガーとは出会うと死ぬと言われる、

自分と同じ姿をしたあやかしのことである。

カオは大してオカルトに詳しいわけではない、だがそれぐらいのことは知っている。


「まぁ、世の中にはおばけが実在して……僕たちはそういうのを殺す、

 それだけわかってもらえれば十分です」

「……たち?」

「昨日、会ったでしょう?ハーン先輩ですよ」

目の前のヤクモの年齢はいまいちわからないが、

彼女が先輩と呼ぶ以上、高校三年生か二年生で、

昨日会った彼女がそうだというのならば、異常なまでに声が幼いように思えた。


「ハーン先輩はおばけを見つけて、名付けることが出来ます。

 それで僕は……」

飲み干されたコーヒー牛乳味の麦茶の氷が、からりと音を立てた。

ぜいぜいと蝉が鳴く、きゃあきゃあと子供のはしゃぐ声が聞こえる。

うっすらと微笑むヤクモの顔はぞっとするような美しさだった。

「殺します」

「殺す?」

「祓うと言い換えても良いですが、まぁ殴り殺しちゃいます」

今日はさんまが安かったので、夕飯は塩焼きにします。

そう言うかのように、ヤクモの口調はどこまでも軽かった。

その軽薄さが、カオには恐ろしく、しかし安心できるように思えた。


「それで、私はどうすればいいんですか?」

「あー……」

そうですねぇと、ヤクモは少しだけ考えて、

どこまでも軽い口調で「明日にしましょう」と言った。

「明日は土曜登校日で、授業は午前中だけで終わります。

 君が学校を休んでれば、ちょうど真っ昼間のタイミングで

 ぬらりひょんが下校するので、帰り道を襲うので、ついてきてください」

「……下校?」

「ぬらりひょんは、ほら、君がいない間は全部、

 君になりすましますからね」

こともなげにヤクモが言う。

カオが青ざめるのを、どこか呑気そうに見つめる余裕すらある。


「ハーン先輩が君に気づくのがもう少し遅かったら……

 どうなってたんでしょうね、うふ」

「そのぬらりひょん殺しって……明日で、大丈夫なんですか?」

「……大丈夫、大丈夫。おばけは真っ昼間のほうが殺しやすいから」

それに、とヤクモは言った。そして、

「今日ってなるとぬらりひょんが帰ってくるのは夜だろう?

夜は嫌だね、おばけの時間だからね」と続けた。


「今日の内に、私がぬらりひょんに乗っ取られたり……

 明日、下校だって一人じゃないかも……」

「……ああ、大丈夫。大丈夫」

へらへらとヤクモは手を振った。

「最悪、君を殺せばいいから」

「えっ」

「ぬらりひょんはどんどん、君に近づいていく。

 君が死んだら死んだでぬらりひょんは完全に成り代わるだろうから、

 そうなったらそうなったで、まぁ……そういう感じで帳尻が合うんじゃないかな」

「……ふざけてるんですか」

「いや、ふざけてはいないよ」

ヤクモの口調から軽薄さが消え、

その目にはどこまでも理性的な冷徹さが宿っていた。

「気づくと知り合いのフリをして、どっちが本人なのかわからない。

 それがぬらりひょんの怖さだ、僕にだってわかりゃしないよ。

 だから、もう僕は……とりあえず、君をぬらりひょんじゃないと信じて、

 もうひとりの方を殺す」

けど、そうヤクモは結んだ。


「君、自分がぬらりひょんじゃないって言える?」


ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。

蝉が鳴いている。

カオの答えは蝉の声にかき消されて、聞こえない。


翌日、カオはヤクモが迎えに来るまで眠り続けていた。

ぴるおん、とインターフォンの音が鳴る。

ドアノブが回り、がちゃりと扉が開く。

掛けていたはずの内鍵は開いてしまっていたらしい。

未だに恐怖は残っている。

だが、ぬらりひょんを殺すというヤクモの言葉を信じることにした。

最早、すがりつくことしか出来ぬのならば、

それしか出来ぬ身でもそれなりの覚悟の決め方というものもある。


玄関に向かえば、

ヤクモともうひとりやはり黒のセーラー服に、赤いリボンタイの少女が立っている。

カオよりも頭二つ分程背が高い、それに見合って髪の毛も長い。

腰まで伸びるほどの黒髪はよく手入れされているのか、

サラサラと流れる黒い川のようだった。


「ぬらりひょんがいるねぇ!」

長身の少女は床を見ながら嬉しそうに言った。

「ハーン先輩です」

ヤクモが指して紹介すれば、ハーンと紹介された少女は顔を上げた。

口元は緩み、その表情はどこまでも純粋な喜色だった。

怜悧な印象を受ける切れ長の目は、

どこまでもキリがないような純粋性で相殺されて、

ただただ子供っぽい印象を与えている。

「かなた・はーんです!よろしくおねがいします!」

「あっ、春原華織はるばらかおです」

力いっぱいにお辞儀をして勢いよく名乗るハーンに釣られるように、

カオもまた、挨拶をした。

「……かおちゃん」

犬を撫でるような無造作さで、ハーンはカオの頭を撫でた。

「つらいこといっぱいあるけど、がんばろうね。

 ぬらりひょんにまけないでね、よしよし」

「…………」

不意に与えられた優しさに、じんわりと温かいものがカオの頬を伝った。

温かいものが身体に染み渡るようだった。

それだけで、もう立ち向かえるようにすら思えた。


「じゃあ、今からぬらりひょん殺しに行こうか」



くるりと仰向けになって、カオが加害者の少女を見る。

その後ろにはカオと同じ顔があった。嘲笑っていた。



「ぬらりひょんは一体、何を考えていたんだろうねぇ」

「えっ」

ぬらりひょんを殺した帰り道、三人はハンバーガーショップに寄っていた。

口を汚しながら、勢いよく食べるハーンの口を紙ナプキンで時折拭きながら、

ヤクモはなんともなしに呟く。

「いや、ぬらりひょんって完全になりすますってことは、

 その考え方も全部、君と同じになっちゃうんじゃないかなー、

 ってついつい考えちゃうわけですよ」

そしたら僕は人殺しみたいで嫌だなぁ、

とポテトをつまみながらヤクモはどこか能天気に言ってみせる。

「……やめてくださいよ」

「あー、ごめんごめん」

けどさぁと続けようとした言葉を、ヤクモはゼロカロリーコーラと一緒に飲み干す。

僕からすれば、どっちにしても同じだからなぁ――などと言う必要はない。

「おいしいねぇ!」

「そうですねぇ、先輩。今日は夕飯もここにしましょうか」

「いいねぇ!さすがやくもだねぇ!」

カオもまた、ハンバーガーと一緒に言いかけた疑問を腹の底に沈めてしまう。

何者なのか、とか。二人はどういう関係なのか、とか。

ぬらりひょんに気づいてしまったことで、カオは恐怖に支配されることとなった。

だから、気になってしょうがないけれど、聞かない。

気づかないことで、守れる平穏があるのだから。


「けど、いいんですか。ここでの支払いだけで」

「おばけ退治は僕らの目的だからね、まぁあんまり気にしないで」

ぬらりひょん殺しの謝礼金についてカオが尋ねれば、

ヤクモは安めのハンバーガーショップの名を挙げて、

そこで奢ってくれるだけでいいと答えた。

ハーンもまた「わたし、はんばーがーすきー!」と言う。


これほど安くてよかったのだろうか、という思いもカオにはある。

だが、大丈夫とヤクモに断言されればそれ以上のことは言えない。


日が沈み、辺りを闇と人口の明かりが包む頃。

カオとヤクモ達は別れた。

別れ際にハーンはもう一度、カオの頭をなでた。

手は冷たく、しかしぬくもりがあった。


「がんばってねぇ」

「……はい」


二人と別れ、一人で歩くとどんどんと日常に帰っていくような気がした。

アパートの前に着くと、すっかりカオは落ち着いている。

「……あれ」

カオの部屋を見ると、電気がついている。

電気を消し忘れただろうか、いや――そもそもつけてはいない。

だが、間違いなくぬらりひょんは死んでいるはずだ。


「あら、カオちゃん!」

「大家さん!」

階段を上ろうとすると、背後から大家に声をかけられた。

「この前、いい話があるって言ったでしょう」

「そうでしたね」

「良かったわぁ、いい人そうで……私、カオちゃんのこと心配してたからねぇ」

「……何の話をしてるんですか?」

笑みを浮かべる大家だが、カオにはその意味が理解できない。

それは部屋についている電気と関係があることなのか。


「お父さんよ!アナタのお父さんが会いに来たのよ

 ずーっと、カオちゃんのこと探してたって言っててねぇ、

 なんで二人暮らしだったのかわからなかったけど、

 優しそうな人で良かったわねぇ……」

「……えっ」


大家はそれ以降も何事かを話し続けたが、

その後の全ての言葉がカオの中に入り込むことはなく、

ただひたすらに上滑りしていった。


ぎぃぎぃぎぃぎぃ、階段が軋む。

何かが降りてくる音がする。

カオ、と呼ぶ声がする。

楽しそうで、嬉しそうで、明るい声だ。


――ぬらりひょんがいるねぇ!

ハーンの異様に明るい声を、カオは聞いた気がした。

だが、カオの側にはヤクモもハーンもいない。


夜はおばけの時間だから。



『ぬらりひょん』

家の者が忙しくしている夕方時などにどこからともなく家に入り、

茶や煙草を飲んだり自分の家のようにふるまう。

家の者が目撃しても「この人はこの家の主だ」と思ってしまうため、

追い出すことはできない、またはその存在に気づかない

(wikipediaより引用)

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