ぬらりひょん(中)


学校に自分と同じような誰かが来ていた。

その事実に対し、授業中にも関わらず悲鳴を上げられるほど正気を失えず、

あるいはくらりと意識を失うことも出来ず、

結局カオは集中できないままに授業を受け続けることにした。

このような状況で普段どおりに過ごすだなんて馬鹿げているとカオは思う。

それでも、あの父親がいた時もそうやって過ごしていた。

押し込めて過ごすことに慣れてしまったのだろう。


「カオ、だいじょぶ?」

数学の時間をやり過ごし休み時間に入ると、

隣の席のユキが不安げにカオに声をかけた。

「だい……」

口の先を歪めて、なんとか笑いを作っカオはてユキに返事をしようとする。

「顔色」

徹底的な証拠を持っているんだぞ、そう言うかのように

ユキが手鏡に映るカオの表情を突きつけた。

「……うへぇ」

元々、健康とは程遠いような肌色をしているが、

鏡の中のカオは生者というよりは死人に近い

肌が薄くなったかのように青ざめている。


「保健室行ったら?」

寝といたほうがいいよ、とユキが続ける。

実際、そのほうが良いのかもしれないだろう。

このような状況下で授業に集中出来るわけがない、

不安感を抱え込んだまま起きているのも辛い。

ベッドに横たわって意識を手放したほうが良いに決まっている。

「ねぇ……ユキ、私今日なんか変なとこあった?」

今以外で、と付け加えてカオはユキに尋ねる。

「いや、いつもどおりだったよ?」

「……ありがとう、結構私だいじょーぶみたい」

けどさぁと諌めようとするユキの口の前まで人差し指を伸ばし、

カオはニヒルに笑ってみせる。


保健室に行くか、いっそ早退してしまうか。

どちらの選択肢もカオは選ぶことは出来ない。

もしも、自分がいない間にもうひとりの自分のようなものが現れて、

自分の知らない間に自分になりすまされていたら、

想像が膨らむ。

自分に化けて悪事を働くのか、自分の存在が抹消されてしまうのか、

あるいはただ自分がいない間に、自分のフリをするだけなのか。

何が起きるかがわからない、それが怖い。

だから、無い元気すらも振り絞って彼女は席に座り続ける。

現代文の授業も、英語の授業も、古文の授業も。

教師のあらゆる言葉が鼓膜を揺らした、全て脳には届かない。

ただただ、自分の席を守るために座り続ける。


「カオ、おひる」

「私いらないや……」

午前中の授業が終了する。

普段ならば安い割に量がある学食で昼食を食べている、

だが、今日ばかりはそういうわけにはいかないだろう。

不安げなユキに、カオは机に伏せたまま手をひらひらと振る。

「今日はほっといて……」

こつりと音を立てた。カオの頭をユキの指が弾いた音だ。

実際に音が鳴ったわけではない、だがカオには響いた。


「なにがあったかわかんないけどさ、ご飯は食べなよ。待ってるから」

「……ユキ」

「ん?」

「ありがと」

「よろしい」

立ち去るユキと言葉を交わす、食堂に行ったのだろう。

いつものように混雑する食堂のテーブルで、一人分隣の席を空けて。

カオの胸がじんわりと暖かくなる。

誰にも相談できない物事だと思っていた、それでも一人ではないのだ。

どうやって解決すれば良いかはわからない。

それでも、とりあえずは昼食を食べることから始めよう。

十数分かけて、ようやくカオは立ち上がることが出来た。

人の減った教室に椅子の音がやけに響く。

存在の音だ。本物の自分はここにいる、カオの証明の音だ。


教室の扉を開き、廊下を走るように移動する。

人とぶつからないように、しかし視線を合わさないように下を見た。

それでも、怖いものは怖いのだ。

人混みの中に、自分と同じような何かがいて、それと視線を合わせてしまうことが。

だから、カオは急ぐ。

食堂、安心できる場所人の隣へと。


食べ終えたばかりの男子の集団をすり抜けるように、食堂に入る。

ラーメンの匂い、ざわめき、お盆を持ってうろうろと歩く学生。

食堂も結構な情報に溢れているが、カオとユキの席は大体決まっている。

窓際、テーブル端の席。

カオがそこに視線をやると、やはりユキはそこに座っていた。

テーブルには何時も彼女が注文する日替わりランチ。

木曜日の今日はアジフライ定食だ。

その隣の席には誰も座っていない。けれど、わかめうどんが置かれている。

湯気を立てている。まだ温かいようだ。

注文してくれたのだ、カオはそう思った。

わかめうどんは安く、量が多く、そこそこ美味しい。常に頼んでいる。

だから、ユキはわかめうどんを注文して待っていてくれた。


それをカオは願った。

そう、言って欲しいのだ。


「ユキ」

手を振りながら、カオはユキの元へと向かう。

一目散に、脇目も振らず、余計なものを見てしまわないように。

「どうしたの、カオ?」

ユキが小首を傾げる。

カオが視線をテーブルに落とす。

食べかけのわかめうどん。半分ほど、食べられている。

ユキの塩ラーメンも半分ほど減っている、二人の食べる早さはそこまで変わらない。


「けど、まぁ……」

カオがにっこりと微笑んだ。友人に向ける心の底から優しい微笑みだ。

「よかったよ、食欲あって」

本当に心配したんだからね、と続けたユキの言葉をカオは聞くことが出来なかった。


結局、早退したカオはその日、アルバイト先に欠席の連絡を入れた。

あるいは、

欠席をしても急に大丈夫になって私が向かうのかもしれない――とカオは思った。

道路のアスファルト舗装を見ながら、決して顔を上げずにカオは家路を急いだ。


「あっ!きみ!きみ!」

カオを呼び止める声があった。

振り返ると、黒いスカートが見える。ちらりと白い足が覗く。

同じ学校の生徒らしい。

それにしては声が幼すぎる、ネジが外れたような陽気さがあった。


「つかれてるねぇ!かわいそうだねぇ!」

どこか囃し立てるような口調だった。

喧嘩を売られているのだろうか、とカオは思った。

しかし、顔を上げることは出来ない。自分と同じ顔をしているのかもしれない。


「ぬらりひょんがいるねぇ!ぬらりひょんだぁ!」

カオはひたすらに脚を早めた。

背中からは調子の外れたような笑い声が聞こえ続ける。


きぃきぃきぃ、きぃきぃきぃ、あは、あは、あはは、きぃきぃきぃ。

ぬらりひょん、えぇえぇ、ぬらりひょん、えぇえぇ。


「あら、カオちゃん」

「大家さん」

アパートの前、大家がカオを呼び止めた。

「カオちゃん、聞いて。貴方にいい話があるのよ」

きっと満面の笑みを浮かべているのだろう、大家の声色を聞いてカオはそう思った。

しかし、それは自分ではない自分についての話かもしれない。

「すいません、少し体調が悪いので……」

カオは目線を伏せたまま、お辞儀をし、階段を駆け上った。

ぎぃぎぃぎぃぎぃ、階段が軋む。

ドアノブを回す。鍵はかかったままだ。

少しだけ、カオは安心する。

扉を開き、カオは家に戻ると内鍵を閉めた。


誇張して大きく描かれた頭部をこれでもかと肌色のクレヨンで塗りたくる。

黒の点二つ、棒一本。目と口。それ以外のパーツはない。

頭部のサイズに比べれば、首は線のように細い。

はみ出すことを気にせずに思いっきり塗りたくった黒、セーラー服らしい。

黒のクレヨンと赤のクレヨン、色が入り乱れる胸のリボン。

幼児が描いたような似顔絵だった。布団の上に置かれている。

震える手でその似顔絵を持ち上げると、裏に文字。

奇妙に綺麗に書かれている。

数学のノートと同じ筆跡。つまるところカオと同じ文字だ。

『私』

「あアァァァァァァァァァッ!!!!!!」


とうとうカオは叫んだ。

結局、カオは学校もアルバイトも二日間休んだ。

もしかしたら、その間も休むこと無く通い続けたのかもしれないが。



「すいません、ちょっと良いですか?」

変声期を迎える前の少年のような声に、カオは振り向いた。

「あぁ、やっぱりだ。ぬらりひょんがいますね」

「ぬらりひょんだねぇ、きみ」

自分と同じ程度の身長の短髪の少女と、それよりも顔二つ分は背の高い少女だ。

二人共、カオと同じセーラー服を着ている。

短髪の少女は少年めいた容姿と合わせて倒錯的な色気すら発する容姿だ。

その手には金属バットを持っている。

長髪の少女は切れ長の目に金色の光が宿っている。

金の目は妖魔の色であるのだという――

ならば、目の前の少女は妖魔の部類なのだろうか。

だが、その口元は緩み、その目は幼児のように無責任な喜びに満ちていた。


「……なんですか?」

土曜登校の日で、午前中に全ての授業が終わりだった。

太陽は一番高いところにあり、ただただ厭になるほどの熱量を発している。


「いや、その……ねぇ」

照れくさそうに短髪の少女は頭を掻くと、両腕で金属バットを握った。

なんだろうと思う間もなく、短髪の少女は横薙ぎに金属バットを振る。

ボールが来たわけではない、狙った先はカオの腹部だった。


「ぐ……」

カオは呻き、その場に倒れ込んだ。

立ち上がって、逃げようとしたがその頭部を短髪の少女の金属バットが狙っていた。


「なんで」

「いやぁ……間違ってたら悪いね」

ぽつりと漏れたカオの絶望の言葉に、

やはり照れくさそうに短髪の少女が返し、金属バットが振り下ろされた。


「いにはか、いにはか、ぬらりひょん。えいやれ、こらうと、ぬらりひょん」

長髪の少女が何事かを言いながら、歌っている。

笑っている、目の前の惨劇など関係ないような天真爛漫な笑みだった。

「人違いだったら、悪いなぁと思うんですけどね」

「ぬらりひょんだねぇ、きみぃ!ぬらりひょんだねぇ!」

「先輩がね、言うんだから……まぁ、多分僕が思うに……貴方ぬらりひょんですよ」


「ちが……」

ごず、ごず、ごずと何度も金属バットが振り下ろされた。

何度も何度も鈍い音が響き渡った。

金属バットの音、少女の歌声、熱く照りつける太陽。


少女の力では何度金属バットを振り下ろしても、

スイカのように頭部が弾け飛ぶというわけには行かない。

だから、のたうち回りながらいつか死ぬのを待つことしか出来なかった。


くるりと仰向けになって、カオが加害者の少女を見る。

その後ろにはカオと同じ顔があった。嘲笑っていた。

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