ぬらりひょん
ぬらりひょん(前)
◆
秋が死ぬほどの夏だった。
異常気象も行き着くところまで行ってしまったのだろう。
夏休みが終わり、暦の上では秋になっていた。
しかし、夏の残滓はいつまでも秋を食い散らかす。
気温は下がることを忘れたかのように、いつまでも体温の暑さだった。
だが、彼女たちの物語にとってはそのほうが都合が良かったのだろう。
夏は怪談の季節なのだから。
◆
築年数そこそこの古びたアパート、階段を昇る度にぎぃぎぃと音を立てる。
それでいてインターネットは無料で使える、二階の一室。
それが
一人で暮らすにも少々狭いぐらいの部屋だ。
少し前までは二人暮らしだった。母親とカオの二人の住まいである。
「ヘヘ……悪いなァ、カオ。ありがとなァ」
全く悪びれぬ表情でそう言ってのけて、
カオの財布から金を奪う父親から逃げてきたのだ。
働かない、酒を飲む、ギャンブルをする、借金もする、暴力を振るえば、
生活費どころかカオの学費に手を付け、
その上カオがアルバイトで稼いだ金すら奪う男だった。
「……ハァ」
思わず父親のことを思い出してしまい、溜息がこぼれる。
カオは女子高生だったが、質素な部屋である。
余計な装飾に使うような余分は一切なかった。母親が死んでからは余計にそうだ。
母親があの生活の中でどれほど必死に保険金を積み立てたのか、
あるいは父親が将来のために保険金にだけは手を出さなかったのか。
考えれば頭が痛くなりそうになる、だからカオは考えない。
少なくとも生命保険とアルバイトで生活をすることは出来ている。
あとは未来に向かって進んでいくしかないだろう。
部屋にテレビやパソコン、あるいは音楽再生機器の部類は無い。
だが、スマートフォンだけは確保している。
生活の必需品になっているということもある。
だが、金はなくても娯楽は欲しい。
娯楽に酔わず素面で生きられるほど世界は楽しくはない。
基本無料で遊べるゲームや、漫画アプリに動画サイト、実名を使わないようなSNS。
本名を使うようなものには混ざることは出来ない。
カオが考えるにインターネットで本名を使える人間は、
キラキラ輝いているか、気が狂っているかのどちらかだ。
カオはまだどちらでもない。みじめを晒せるほど正気を失ってはいない。
「……あれ?」
漫画アプリを起動すれば、
既に今日読む予定だった漫画の最新話を読み終えた表記が出ている。
カオにその最新話を読んだ記憶は無い。
読み終えたからと言って、再度読めないということもないのだから
とりあえず読み直せばいいだけのことだが、妙に気になる。
最近、漫画アプリや動画サイトで、
見た覚えのない作品を見た扱いになっていることがある。
気づかぬうちにゲームキャラの経験値が増えていたり、
知らぬ記事のブックマークがあったりする。
まるで、誰かが自分のスマートフォンを使用しているかのように。
勿論、そのようなことが起こるわけはない。
自分のスマートフォンはバイト中ですら肌身離さずに持っている。
ただ――漫画を読んだり動画を見たことを忘れたというのならば、
どうして二度目の記憶だけははっきりと残っているのだろうか。
夜の闇が窓の些細な隙間から忍び込んで、カオを包む。
そのような薄ら寒い恐怖があった。
天井から吊り下がる電灯の紐が風も吹かないのにゆらゆらと揺れる。
「……こわ」
うっかりと想像してしまう。
何者かが家の中に潜んでいる、
それはカオが眠っている間にこっそりとスマートフォンを操作する。
「アハハ「ハハハ」
想像して、カオは笑ってしまう。そこまでしてすることがそれか。
学業、バイト、家事と日々を忙しく過ごしているから、
ついつい、うっかりしてしまっていたのだろう。
カオは思いっきり布団を被り、光を遮断する。
電灯は付けたままだが、これで闇が出来る。
スマートフォンの明かりだけがやけに明るい。
目には良くない、だがスマートフォンと自分だけという状況がなんだか面白い。
眠くなるまで、暗闇でスマートフォンを操作する。
ところで、貴方は気づきましたか。
カオは布団を被っているからわかりませんがね。
◆
「……遅刻だ!ヤバい!ヤバい!ヤバい!」
目を覚ました彼女が見たものは、スマートフォンが示す八時という絶望だった。
ここから学校まで全力で走っても四十分、一限には間に合わぬ。
心の奥底に残っていた不安を殺し切ろうとした結果、就寝時間は夜中の三時である。
むしろ5時間の睡眠時間で目を覚ますことが出来たほうがすごいが、
このような評価は彼女にとっては何の役にも立たないだろう。
鏡を覗き込む。目の下に隈。不健康な色白の肌。小柄な十七歳が映っている。
顔面を水で軽く洗い、長く伸びた黒髪をゴムで束ねる。
セーラー服は黒、リボンは赤。これで女子高生のカオが完成した。
慌ただしく着替えを済ませ、学校鞄を確認する。
数学の教科書が入っていない、ノートもだ。
カオは逡巡する。数学の宿題はなかったはずである。
ならば、とカオは信じた。
(私は数学の教科書とノートを学校に忘れたに違いない!)
祈りとともに玄関の扉を開く。
階段をぎぃぎぃと軋ませながら駆け下りる。
「あら、カオちゃん。どうしたの?」
「わー!おはようございます!」
腰を曲げて掃き掃除を行う老婦人が目を見開いて、カオを見る。
カオの住むアパートの大家である。
カオの事情は知らないし、カオとて事情を説明しようとは思わない。
だが、優しい女性である。
「もう学校行ったんじゃなかったかしら?」
「今日は寝坊です!やらかしちゃいました!」
「あらあら、じゃあ気のせいだったのね。急がなきゃね」
「はい!」
勢いよく頭を下げて、カオは走り出す。
最早遅刻を逃れることは出来ない。
後はどれほどダメージを減らせるかの勝負である。
「てぇーい!」
全力で走り切る。
校門を過ぎ去り、時計は八時四十五分――カオは頭を抱える。
(五分もロスしたじゃないか!)
教室の後ろ扉を開く。
カオは考える。
最早現実逃避も当然だが、こっそりと着席して
しれっと、え?私最初からいましたよ?を狙うしか無い。
「……へへ」
後ろ扉を開く。ちらりと教師の視線がカオに向く。
(無理だったかぁ……)
心の中でカオは諦めの言葉を吐く。
だが、教師の小言がカオに飛ぶことはなかった。
それならばそれで良いとカオは着席する。
教科書を開く必要はなかった。
既に教科書もノートも机の上に用意されている。
一時間目は数学、
黒板に書かれた理解するには少々面倒な数式が既にノートに書かれている。
「ねぇ……ユキ」
「どったの?」
カオは小声で尋ねる。
隣の席のユキは教師に注意されない程度に髪色を明るくしている。
性格が明るいから髪色に反映されたのか、
あるいは髪色が明るくなった結果、性格まで明るくなったのか。
いずれにせよ、カオは祈る。
ユキの明るさでなんとかなる程度のものであってくれ。
「私って遅刻したよね」
「何言うん?」
きょとんとユキが小首をかしげる。髪が彼女の頭の向きに従って流れる。
心底不思議そうな表情のユキの姿を見れば、答えは聞くまでもなかった。
「さっき、アタシと話したばっかりじゃん」
「……だよね」
内心の動揺を必死で隠しながら、カオはユキの言葉に応じてみせる。
汗が流れるのは、全力で走ったからという理由だけではない。
心臓が高鳴るのは、肌が粟立つのは、口内が乾くのは、
後ろを振り向きたくなるのは――
けれど、後ろには誰もいない。
◆
『ぬらりひょん』
家の者が忙しくしている夕方時などにどこからともなく家に入り、
茶や煙草を飲んだり自分の家のようにふるまう。
家の者が目撃しても「この人はこの家の主だ」と思ってしまうため、
追い出すことはできない、またはその存在に気づかない
(wikipediaより引用)
後ろにはいないけれど、もう既に君の近くにいる。
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