第32話 今一度夏休みの定義を確認しよう
「よお、やっているか」
そういいながら教室に入ってきたのは飯田先生であった。
「やってますよ」
俺はペンを咥えながら答えた。
「本当かね。雪宮、西村はやっていたのか、本当に」
「ええ、やっていましたよ」
飯田先生の俺へのからかいを孕んだ質問に対して雪宮が笑みをこぼしながら答えた。
「西くんって意外と教えるのうまかったりするんですよ」
「へえ、ニシクンはうまいのか」
飯田先生はそうにやりと何かをたくらむような笑顔でこちらを見ながらそこにあった椅子を引き寄せて、腰をかけながら、口を俺の耳に僅かに近づけて言った。
「西くんって呼ばれてんのか」
冷静になってこの状況を分析できるだけの要件が俺にあれば、一日の40%程度を少なくとも学校で過ごしているのだから、今更からかい口調で言われたようとも大して不思議ではなく、気にすることではないものであるのだろうが、この時の俺はどこか無性に恥ずかしくなった。飯田先生の所行は子の恋心に間を指す親のごとしである。普段の彼女は映画やテレビで見るマフィアのドンのような貫録を持った人間に映るのだが、たまにこういった人間臭さというかそういった部分を見せるようだ。
「まあ、先生、何か用事があってきたんすよね」
俺が勘弁してくださいよといった具合に言うと、ああそうだと言わんばかりの顔をして重心を前にかけ肘をついた。
「ああ、少し頼まれてほしいんだ」
「夏休み中にですか」
「ああそうだ」
「なんなんすか」
「座談部で休み明けの体育祭の競技について考えてほしいんだ」
「まあ、確かに内は陸上競技披露会といった感じですもんね」
「いや、まあそれもそうなんだが、教育の指針とかもろもろでな、うちの体育祭の目玉イベントなるものを考えてほしいんだ。さっき言ってた通りうちのは陸上競技をただ並べただけの体育祭だ。建前上文武両道をうたっているのに、まるで生徒が身を入れることを阻害している」
「そりゃ、対して練習を体育の授業でしていない以上、経験とかそもそものポテンシャルとかが結果に直結しますからね」
そう俺と飯田先生がホイホイと会話をしている中に追浜も参戦する。
「たしかに、やる気でないよね。私も運動得意な方じゃないし。それにさ、一応クラス対抗みたいにしてるけどさ、対抗にしたところでって感じがある」
「そう、だからうまいこと考えほしいんだ。さっきは競技を考えてほしいといったが、競技そのものを単体で考えるのではなく、その競技の活かし方、教育の一環として取り入れるといった意味での体育祭の競技の案、それに付随するシステムの案を出してほしいんだ。私も上からの指示でな、依頼がまとまってなくてすまない」
ここで毎度思うのだが、なぜ俺たちに。その疑問をストレートに先生に言おうとした時、雪宮が言った。
「それでそれをなぜ私たちに?」
彼女にとっては初めての本校での体育祭だ。今までは細かい内部事情は知らないから話を聞くに徹していたのであろうが、もっともな質問な上に、その質問をするのに彼女は適任であった。
「それは、うちの体育祭を知らない新鮮な雪宮、去年に体育祭に参加している追浜、知っていながらあれだこれだといった参加しなかった西村、これほどいいチームはないだろ」
先ほどまで、理想と現実、命令と主張の二つの対極により、自身で話しながらもその気持ち悪さをかみしめていた飯田先生であったが、俺たちが選ばれた理由に関しては異様なほどシャキシャキと答える。
「それで、報酬はどうしますか」
座談部は“お人よし部”ではない。それはここにいる4人が最も了解している。座談部が能動的に動く場合を除き、何かしらを依頼されたら、それに関する俺たちの行動に見合う報酬はいただく。こう聞くと俺らの言う報酬なるものは払い過ぎず受け取りすぎずが最適解であり、その最適な報酬を決定するのはことが片付いた後とするのが適切であると思われる。しかし、俺らが報酬を要求するのは、依頼者にも責任を発生させ、自身の持つ何かを削ぐことを認知してもらうこと、俺らと依頼者との関係を他人と割り切ることを目的の一環としているので、事前に交渉するのだ。だから、つまるところ後になって報酬が変わってしまった、報酬が少なすぎる、今は報酬が何か決められないとなっても大した問題ではないのだ。報酬を発生させることが本質であるからだ。しかし、そういったことを許すと、報酬を発生させるといったシステムが揺らぐので、行わない。
「そうだな、旅行なんてどうだ。とはいっても、山の中だがな」
そうだな、といった前置きには似合わず、飯田先生じはすらすらと提案した。まあ、彼女のことだ、初めから考えていたのだろう。
「おぉ、いいね」
「ああ」
「ええ」
もっとも楽しそうに答える追浜に続いて、俺と雪宮も了承した。
一連の話が終わると、飯田先生は机についていた両肘の一方を机の下にやり、一方を机のふちに掛けた。
「もちろん、君たちの勉学を妨げる気は一切ない。というか、妨げになるようであれば、なにも言わずに辞めてくれて構わない。まあ、言うまでもないとは思っているがね」
そう言うと彼女は腰をくるりと回転させ、椅子から腰を上げて部屋を出ようと扉へ向かった。ここで俺は彼女の発言に少しくらいついてみることとした。純粋に彼女の意図を知りたいといった思いや考え、彼女の発言の最後に感じた違和感によるものだが、そこにはからかわれたことへの微々たる腹いせが介在していたことは言うまでもない。
「それはどう言う意味ですか」
「と言うと」
「言うまでもないって。僕らなら言わなくても優先できることを決められる、それとも僕らを持ってすれば実現可能である、どっちの意味ですか」
彼女は背を向けたまま、肩を通して俺を見るようにして、さらにそのまま俺らを見渡すようにしてから扉にかけようと出した手をポケットに突っ込んでこちらをしなやかにふわりと振り返って言った。
「それは休み明けにわかることだ」
なるほど歴史が判断すると。まさしくその通りだ。
「どうも」
俺がそう言うと飯田先生は少し満足げに教室を出て行った。
先生が教室を出ていくと、妙に部屋が静か感じた。人一人出て行ったわけだから、静かになっていることは事実であるのだが、その静けさは嫌に目立っていた。この静けさもやはり心地よい。この部屋の空気の質感といった類のものを俺の胸が抵抗なく受け取っていると思える。
「先にこの課題、片付けちゃわない」
そう追浜が言った。
「そうね」
「ああ」
そう続く。
「ねえ、遥、これ分かる?」
「それは、これが参考になるわよ」
俺は彼女たちの様子を数秒ほど傍観してから、覚えてはいないがどこかのタイミングで置いたであろうペンを手に取った。
今ならこの嫌味ったらしい問題を片付けてもいい心持ちである。
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