第40話 歌川 凛
俺は思い切ってドアをそっとノックした。返事はない。もう一度ノックしたが返事はなかった。元気よくノックする気にもなれずそっとドアを開けて中を覗いた。
歌川さんは一番奥の方の席に腰掛けていたが俺を見て颯爽と歩いて来た。
俺も素早く部屋の中に入った。
今日も濃いグレーのパンツスーツ姿でモデルのように綺麗な姿勢で歩く歌川さんに、少し見とれてしまった。
「おはようございます。えーと今もらった名刺を渡すべきなんですかね? 」
「おはようございます。名刺は結構です」
彼女は凍り付く様な視線で俺を見る。相変わらずとても美人だが、とても怖い。
「改めまして私、歌川 凛と申します」
「古川 晴一と申します」
「古川さんは臨時雇用とは言え、私と同じ役職になります。ですので私に敬語は必要ありません。社内で分からないところがあれば何でも聞いてください」
歌川さんは淡々と説明を始めた。
「あっ、ええ、はい。よろしくお願いします」
俺は慌てて返事をする。
「秘書室では秘書課と警備課に分けられます。加えて新たに作られた秘書室の特別対策課が我々の課です。
秘書課はその名の通りですが、ここでの警備課は秘書の仕事もします。他の会社などの重要人物の秘書兼警備として貸し出されたりします」
「原則、私との仕事が無い場合、古川さんには常に会長と行動を共にしてもらいます」
「ところで他のメンバーはいつ紹介してもらえるのですか? 」
「二人です」
「えっ? 」
「我々、二人で特別対策課のチームです」
歌川さんは少し目を細めて遠くを見つめた。うーむ会長のやる気と期待があまり感じられん。
「当初の予定ではは五人でしたが」
彼女は目を少し細めたまま俺に視線を戻した。
桜井、鮫島とあと玉木とかいう奴のことだろう。暗に責められている気がする。
「私なりに色々考えたのですが、一度盗まれた壁画跡を見に行こうと思います。会社が管理している丘全体も見ておきたいので」
「はあ」
もう何度も見に行ったとは言えなかった。
「車の免許はお持ちですか? 」
「はい一応。ただ車は持って無いので自信はありませんが」
「分かりました。今日は私が運転します」
彼女は小さくため息を吐いた。俺が悪いのか?
社用の自動車に乗り込み朝から鳳村の丘へ向かう事になったわけだが、車の中は気まずい雰囲気が充満している。
俺がそう感じているだけで隣で運転している歌川さんはどう感じているかは分からないが。恭也と出かけ楽しかった時の事を思い出し悲しくなった。
彼女は真っすぐ正面を見て運転している。この人、笑う時なんてあるのだろうか? 俺は重苦しい空気を変えるべく何か話題を探した。
「歌川さん背が高いけど身長何センチ? 」
「百七十センチです」
「へぇー、すごいね」
「………何がですか? 」
「あの、高いってことです、はい」
「歌川さん趣味は? 」
「読書です」
「へぇー、俺、全然本読まないからなぁ。たまには本屋にでも行こうかなぁ、ハハ」
「………」
「ハハハハ」
もう嫌だ。今日ずっとこの調子で行くのか? 食べるの遅いくせによ。そっちがその気なら、俺はもうヘラヘラ笑うしかない。
ああ、俺が運転して横に里香ちゃんが助手席に座っていたら楽しいだろうな。丘に着いてピクニックでも出来たら最高だろうな。
現実逃避している場合ではない。今日、少しでも彼女との関係を改善しなければ。
流石にずっとこの重苦しい空気が続くのかと思うと地獄である。何とか少しはこの状況を改善したいと思い俺は一つ提案をした。
「信頼関係を築くならお互いの事をもっと知る必要があると思うのですが」
「………そうですね」
「ならもうちょっと友好的に話しませんか? 」
「友好的にですか? 」
意外にも彼女は戸惑っているように見えた。今まで身に覚えがなかったのだろうか?
「兎に角、俺たち二人っきりのチームなんだし信頼関係を築いて仲良くやるしかないと思うんです」
「私もそう思います」
「だったらもっと、こう、和やかに………」
俺は色々と言いたかったが止めておいた。
「彼氏はいらっしゃるんですか? 」
「………ええ」
「へぇー、じゃあ休みの日は一緒にどんなことしているんですか? 」
「美術館とか」
「びっ美術館! そんなところ良く行かれるんですか? あんなの三十分で終わっちゃうでしょ。じゃあ、他には? 他にどういう場所に行くんですか? 」
「………そんなの言う必要ありますか? 」
運転する彼女の顔が少し赤くなった。どうやら彼氏を思い出し照れてるようだ。美人が照れた顔をすると更に美人になるなあと感心してしまった。
「別に言いたくなければ言わなくて結構ですよ。こんなの只のカンバセーションですよ。仲良くなるために会話は必要でしょ? 」
俺はここからもっと夏目名人の様にズカズカ踏み込んでやろうと追撃の準備をする。
「そう言う古川さんはどうなんですか? 」
「俺? 俺はいませんよ。今までだっていませんしね」
俺は正直に答えた。
「………すみません、本当は私もいません」
「えっ何それ。どういうことですか? ひょっとして僕なんかに見栄を張っていたんですか? 」
「………っ! 」
彼女の凍てついた氷の仮面は烈火の炎の仮面に変身している。彼女は平静を装ってはいるが、かなり動揺しているのが丸分かりだ。
「なんか、すいません」
俺は余計な事を聞いてしまったと後悔した。
「歌川さん、思うんですけどね、俺に敬語は使わなくていいと言う割に、そちらはずっと敬語で話してますよね。それだと俺もやりにくいんですけど」
「すいません私は誰にでもこういう風に話していますので」
「じゃあ、後輩にもですか? 子供にもですか? 」
「恋人にもですか? 」とは言わなかった。
「流石に子供には普通に話しますが」
「では俺も子供だと思ってもらって構いませんよ、ハハハ」
「………分かりました。努力します」
歌川さんは少し考えてから承諾した。
子供だと思ってくれは冗談のつもりだったのだけれども。
一度話題を変えようと外の景色を眺めると道の先に弁当屋を見つけた。俺は丘の上で弁当を広げたくなった。
「すいません、あの弁当屋の前で停めて下さい」
俺が頼むと彼女は車を道路の端に停めた。
「向こうに着く頃には昼になっているから、ここで弁当を買って行きましょう。丘の近くには何も食べるところが無いんで」
俺は車を降りる前に彼女に説明した。
「じゃ、ちょっと行って買ってきます。何が良いですか?」
俺が車を降りてドアを開けたまま聞くと彼女は少し悩んだが、決めかねて俺に任せた。
「じゃあ任されます」
俺はそう言うと弁当屋に入った。
俺は唐揚げスペシャルを二つとお茶二本を注文した。そして車に戻ると彼女が落ち着いているのを願う。
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