第9話 秋吉 里香

 こんな偶然が本当にあるのだろうかと、驚いた俺は暫く呆然と彼女を見ていた。やはり彼女はとても美人だなと改めて思った。


「古川 晴一くん、だよね? 」少し戸惑った感じの彼女。

「あっうん。こんにちは、いやこんばんは、かな? 」

 狼狽えながらも返答すると、彼女は俺との再開を喜んでいるようにに見えた。一週間程ぶりに見た彼女は相変わらずの美人だ。


「驚いたよ、こんな所で会うなんてホントに」

「私も、向こうで明かりがチカチカしているのが見えたから車のライトを照らしてみたら、まさかこんな所で会うなんて」

 彼女はなんだか随分嬉しそうだ。

 明かりがチカチカしていたのは俺がタバコを吸った時に火が強くなるからだろうなとボンヤリ思いながらも、俺の名前を覚えていてくれた事に感激した。


「こんな所でどうしたの? 」

 疑問に思ったことを普通に声に出してしまった。

「ええ、週末に実家に帰っていて親の車を借りたんだけど、途中で故障したみたいで。助けを呼ぼうにも携帯は圏外だし、道は真っ暗だし、どうしようかなって思っていたところなんだけど」

 彼女は簡潔に、俺の聞きたかった事を答えてくれた。


 これは丘の上の壁画洞窟へ向かっている俺への最後の試験だと捉えておこう。いや俺にとってはこんなことは試験でも試練でも何でも無い。何故なら彼女が困っている事に対して俺が手を貸せる事が何より嬉しいことなのだから。

 俺としては彼女を手助け出来る状況に出くわした事に本当に運が良かったと感じた。ただ今日の最終電車で帰る事を諦めればいいだけなのだから。


 駅には自販機もあったし、タバコも十分にある、幸い今日は天気も良いので丘の上では綺麗な星空が見られることだろう、それをゆっくり眺めて洞窟に入り、明日の始発で帰ればいいと俺にしては瞬時に判断できた。


「もちろん、手伝うよ。その、車の事。何をしていいのか車の事は全く分からないけど」

「ふふ。ありがとう。知っている人に会えただけでも心強いよ。実はさっきまでパニックになって半分泣きそうになっていたから」

 先程彼女が俺と出会って嬉しそうに見えたのは、彼女にとっては、心細かったところへ知った顔に出会って嬉しかっただけであって、決して俺と感動の再会をした事に喜んだ訳ではないという事は充分に理解しているつもりだ。


 それでもこうして出会えた運の良さに感謝しつつ、彼女の顔をチラリと見ると笑顔でこちらを見ている。思わずデレデレになりそうになった、が辛うじてこちらも笑顔で応対した。


「この辺が圏外なだけで駅の方まで降りていくと電波は届いているはずだから携帯は使えるよ。一応、俺には解らないと思うけど、車を見せてもらってもいいかな? 」

「ええ、勿論」

「おしゃれな車だね。クーペかな」

「クーパーだよ。ミニクーパー」

「そうそうクーパーね。今、流行りの。流行ってなかったっけ? ごめん、どうでもいいことだねハハハ」

 ドアを開け運転席を覗くと信じられない事にガソリンのマークのランプが点灯しているのが見えた。

 車の事を詳しくない俺が直ぐ見つける事が出来たのに、このランプの点灯を見逃す事なんてあるのだろうかとは思いながらも、兎に角、故障の原因が判ってホッとした。


「これ、ちょっと見て。ガソリンのマークの所が、ほら」

「あっホントだ。どうして見落としたのかな」

「これ音とか何か鳴らなかった? それにこのマークって点いてからしばらくの距離は走ると思うんだけど」

「うーん、なんでだろう。一旦止めて、次にエンジンを掛けようとしたら掛からなくて」

 彼女は本当に不思議そうな顔をしている。それを俺はだらしない顔にならない様に気をつけて彼女の顔を見ている。


 これは、壁画の主様の仕業かもしれないと一瞬思った。


「ガソリンが無いだけなら何とかなりそうで良かったよ。じゃあ今からパッとガススタ行って来るから車の中でロックして待ってて。三、四十分で戻るよ」

「ええ! でも、そんなの悪いわ」

「悪くないよ。ぜんっぜん悪くない。だって俺、やることなくて暇なんだからホント」

 なんだか前回と同じような事を言っている。


「いや、でも私の問題なのに私が何もしない訳には」

「いいから、いいから。こんな美人の役に立てると思うと嬉しくて仕方がないんだから、ホントに、ハハハ」

 言ってから少し後悔した。暗くて良かった、照れくささで俺の顔は火を噴いているはずだ。

 彼女は少し恥ずかしそうに笑うと小さな声で「じゃあ、お願いします」と言った。


 車の中にある懐中電灯を借り、俺は「じゃあ、行ってきます」と意気揚々と駅まで下って行った。


 駅から大通りまで田畑ばかりの道を横切り昼間なら穏やで楽しい気持ちで歩くのだろうが、夜一人歩きは男の俺でも怖い。


 暗闇の中、何かの虫の鳴き声が聞こえる。この時期にコオロギではないだろうが、か細い虫の鳴き声だけが聞こえる。

 歩いてガソリンスタンドを目指す間、暗い道のりにも関わらず俺は終始上機嫌だった。彼女の為に何か出来る事が有って只々、嬉しかったからだ。


 ようやくガソリンスタンドの明かりが見えた時は行ったこともないのに懐かしさが込み上げてきた。

 ガソリンスタンドで暫くは持つくらいのガソリンと缶コーヒーを買って戻ることにした。駅にも自販機はあったのだけど。


 不意に、戻ったら彼女がいないような気がして少し不安になった。暗い道を大急ぎで戻ってみると彼女の車が見えたのでホッとした。

 彼女は車の中で待っていたが俺が戻ると車から出て笑顔で俺を出迎えた。流石に足が疲れたが彼女の笑顔を見ることが出来、大満足だ。


「本当にありがとう。もしハルイチくんが来てくれなかったら、もうダメだったと思う」

「ハハハ、ダメってことはないだろう」

「ううん、ホントにダメだと思ったよ。私って毎回、古川くんに助けてもらっているよね」

「いつでも、助けるし、手伝うよハハハ」と俺はちょっと照れた。

「ありがとう。お礼って訳ではないけど古川くんの家まで送らせてもらうわね」


 せっかく彼女が車に乗せて行ってくれると言っているのだが、俺は遺跡にお願いの為にここへ来たのにこのまま送ってもらう訳にはいかないと思い、始発で帰る事を決意した。

「ありがとう。だけど遠慮しておくよ」

「ええっ! でも多分、ここの駅もう電車、無いと思うよ」

「うん、だけど、ちょっと、用事があって」

「えっ、さっき暇だって言ったけど、やっぱり用事があったじゃない! 」

「いや、さっきは無かったんだよ、ホントに。うん、用事は今からあるんだ」

「今から? ここで? 」

 彼女は少し不振な顔をした。

「いや。まあ、あの丘の上でなんだけどね、ハハハ」

「じゃあ、その用事が終わってから送って行くっていうのでどうかな? もし迷惑じゃなかったら丘の上の用事も手伝おうか? 」 

「いや、うん、じゃあ、一緒に来てもらおうかな」

 無理にここで待ってもらうのも変だし、洞窟壁画の事を話すのも可笑しな奴だと思われるので内容を言うのは止めておいた。

「こんな時間にこんな所で用事って、うーん、何だろう、気になるなあ? 」

 彼女はわざと聞こえる様に、俺の顔をチラチラ見ながら、独り言を言っている。

 俺はその様子が可笑しくて可愛くて、だけど気が付かない振りをして前を懐中電灯で照らしながら歩く。

 ただ俺の顔からは笑みが、こぼれていただろう。用事の内容はどんなことにしようか、道すがら考えよう。


 入る予定の洞窟を通り過ぎ一番高い丘まで上がると三百六十度見渡せる夜空に満天の星空が広がっていた。丘の周りが明るく感じるくらい沢山の星々が輝いていた。


 天体観測部なら兎も角、特別ロマンチストって訳でもない俺でも流石にこの星空には感激した。あまりにも現実離れした景色に、別の世界に来たような雰囲気に、圧倒された。


「わあぁ、すごい! ひょっとして、これを見に来る事が古川君の用事だったの? 」

 星空を見上げる彼女の横顔はとても綺麗だった。

「ああ、うん、そう! 」

 用事の半分は本当に丘に来る事だったし、そういう事にしておいた。残りの半分が重要なのだが。


 予想以上に幻想的な空間と彼女と二人きりでいる事が、夢のような気分だ。先程買っておいた缶コーヒーはぬるくなっていた。

 二人でコーヒーを飲みながら、暫く星空を眺めていたが、ふと気になった。


 何故あんな場所で彼女は車を停めていたのか? 実家がこの辺だとしたら、流石に洞窟やこの丘の事を知っているだろうし、実家がこの辺よりも遠く離れているなら、この場所は丘の上で行き止まりだから通り道ではないはずだ。

「実家はこの辺? 」俺は聞いてみた。

「この辺ではないかな、でも隣町だよ」

「実家から大学に通えないの? 」

「大学に通うことは出来るけど、朝の早い時間と夜はすぐに終電になっちゃうから、もっと電車の本数がもっとあったら実家から通えたんだけどね」

「俺も家は近くにあるのにアパートを借りているから同じだね」

 この場所で何をしていたんだろうという疑問に対しては訊かないでおいた。


 パノラマ夜空の下で、彼女と二人きりで語り、星を見つめているだけで幸せな気分に浸っている俺は有る事に気が付いた。

 これってデートみたいなものじゃないか。しかも一回目ではなく複数回デートを重ねた後の中身の濃いデートと一緒みたいなものじゃないだろうか、よくは知らないが。それに気づくまでは普通に会話をしていたが、今、急激に幸福感と同時に緊張の波が押し寄せた。


 彼女の事をもっと知りたいし、彼女とずっと一緒にここに残っていたいのだが、俺がいつまでもここにいては彼女も帰ることが出来ない。

 ひょっとして彼女も、もっとここで俺と語り明かしたいかもしれない、いや、そんな訳は無い、根拠も無しにうぬぼれると禄な事はない。


 満天の星空の下で彼女と過ごし、当初の予定の遺跡で試練を少し軽くしてもらおうという、俺のセコイ願いなど、最早どうでもよくなってしまった。

「じゃあ遅くなるから、もうそろそろ帰ろうか」

「もう良かったの? 気を使わなくても私は大丈夫だけど」

「いや、ありがとう、もう充分」

「じゃあ今度こそ送って行くわね」

 そう言った彼女はなんだか嬉しそうに見えた。


 流石に俺のアパートまで送って貰うのは気が引けるので、鳳駅から乗り換え出来る駅まで行けば電車もまだ有る筈なので、そこまで送って貰う事にした。

 帰りの車の中でもうすぐ就職活動だと言う話をしていた。俺の就職より彼女のが早く見つかるのは避けたいと心より思った。実際そうなってしまいそうで怖い。

「じゃあね、ハルくん」

 駅に着き、下の名前で呼ばれた事に身体中が感電するほどの衝撃が走った。俺も下の名前で呼ぼうとしたが、躊躇してしまった。俺の方が年上と言えどいきなり呼び捨てなんて馴れ馴れしい事は出来ないし、里香さんは堅苦しいような、里香ちゃんは軽い感じがする。

 どっちで呼べば良いのか、迷った。迷った時間は本の一瞬だとは思うが目まぐるしく考えた末に

「じゃあね、リカちゃん」

 と少しぎこちなくはなったが、何とか言えた。これで正解なのか? 


 笑顔で手を振り車に乗り込む彼女を見てほっとした。俺も笑顔で手を振り返し駅に入った。

 帰りの電車の中、先程起こったの出来事をずっと繰り返し思い出して一人でニヤニヤした。

 ああ、もう、今日のこの星空の思い出だけで俺は一生、生きていける、一生、頑張って行ける事が出来るだろう、それほどの価値のある出来事を今日、今、さっき手に入れた。


 今まで俺の人生において7が三つ並んだ事など一度も無かった。ただの一度もだ。だが今日、初めて完全に7が揃った。携帯電話の番号は聞けなかった。いや寧ろ敢えて聞かなかったのだ。というのも、来週の土曜日に大和相国寺駅で彼女と会う事になったからだ。


 彼女も今度ばかりはちゃんと改めてお礼をしたいと言い、俺もそこまで馬鹿ではないので前回の轍を踏まない様にシミュレーションしていたのですんなりと約束の日取りを取り付ける事が出来た。

 なので、今度会った時に電話番号を聞けばいいと余裕をかましているのである。次回彼女と会うのが楽しみで仕方がない。


 アパートに帰ったのは夜の十時だ。郵便受けを覗くと一枚のコピー用紙が二つ折りにされた状態で入っていた。


 開けてみるとそこには


[案内状、明日、あなたの望みを叶えます。どなたもどうかきてください。けっしてごえんりょはいりません。こちらの場所の裏口からお願いします]


 と手書きの汚い字で書かれていた。


 俺は直ぐに小学生の書いたものだと判った。何故ならこの文体が注文の多い料理店の中に出てくる二人の紳士をおびき寄せる文句と似ているからだ。それに描かれている場所の地図、目印もほとんど無くひどく分かりにくいがこのアパートの近くである。


 あまりに可愛い案内状だったので声を出して笑いそうになった。

 近所の子供がイタズラで郵便受けに入れて行ったのだろうとかとも思ったが、もし本当に間違えて入れてしまっていたのなら教えてあげた方がいいだろう。

 案内状には明日と書かれている、今日はもう遅いので明日の朝にでも行って親にでも説明する事にしよう。


 そして今日は久しぶりに幸せな気持ちでベッドに横になった。

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