第12話 大和相国寺駅にて
来週の土曜日に秋吉 里香さんと会うのを想像し、一人でニヤニヤしながらの帰り道、水笠神社の前を通ると、鳥居の向こうで掃除をしいる神社関係者らしき人を見た。
丁度良い機会だと思い、前に三島 早織の言っていた事が気になっていたので聞いてみる事にした。
男の人はおかっぱの髪型で頭のてっぺんだけが少し禿げていた。神主にしては若いが恐らくこの人がそうであろう、今日は普段着だが何かある時だけ神主の服装に着替えるのだろう。
「あの、ちょっとよろしいですか? 一週間ほど前にこの神社の手水舎が泥水で一杯だったと、僕の友達が言っていたんですが、そんな筈はないですよね? 」
神主は一瞬怪訝な顔になったが笑顔で「ええ、先日は水龍さまの日がありましたから」と、俺の予想に反して高いで、か細く答えてくれた。
水龍の日とは水笠神社の守り神の水龍が年に一度、小さな龍の姿になって遊びに来る日なのだそうだ。そしてその日、水龍は手水舎の中で一年間溜まった人々の悪意を洗い流すそうなのだが、手水舎の水が汚く濁る事に気を使われないように、最初から泥水で汚しておく風習なのだそうだ。
水龍さまの日は、何時も手水舎は夜八時過ぎに泥水に替えて次の日の早朝四時くらいに全て洗っていつもの水に入れ替えるそうだ。
手水舎の水が泥水になる事など水笠神社の関係者ぐらいしか知らない事だと神主は言った。
「そのお友達は運が良いですよ。その泥水で手を洗われたのであれば将来お金持ちになるかもしれませんよ、ふふ。勝手なお願いなのですが、この水龍さまの日の事はあまり言いふらさないで欲しいのです」
高くか細い声だけど温かく優しい笑顔で神主は仰った。俺はその泥水で手ではなく、顔を洗った場合はどんな事が起こるのだろうかと考えたが、その事は訊ねずに、誰にも言わないと約束だけして、アパートに戻った。
その日は深夜までDVDショップで働いて帰ったが、何事もトラブルは起きなかった。
土曜日の朝、八時に目覚まし時計のアラームが鳴った。今日は、待ちくたびれるほど待った日である。そう今日は秋吉 里香さんと会う約束の日である。
この一週間は道場でもアルバイト先でもずっとその事ばかり考えていた。そして昨日は興奮してなかなか寝付けなかったので寝不足気味だが気力は十分だ。
今日というこの日を大事に落ち着いて行こうと俺は歩調も調子よく大和相国寺駅へと向かった。
大学も、もうじき夏休みだろう。海やプール、花火大会やキャンプ、バーベキューなどみんな楽しむのだろう。いきなりキャンプやバーベキューなどはハードルが高いが花火大会くらいはなんとか誘えたらなあ、などと考えているとあっという間に大和相国寺駅に着いた。
早めに駅に着きドキドキしながらホームの階段を上がると、沢山の人波の中、光り輝いている彼女を見つけた。彼女が俺よりも早く駅で待っている事に感激した。彼女は駅中のパン屋の店横に長袖ワンピース姿で立っていた。
彼女も俺が現れた事に気が付きニコッと爽やかな笑顔を俺にくれた。途端に緊張の波が襲って来た。俺も片手を軽く挙げて、ぎこちない笑顔を返した。
彼女の方に向かって歩くのだが緊張のせいなのか、駅の床が柔らかく揺れ動いているようで体がフワフワとして歩きづらい。
腕の振り方さえ忘れてしまったようで、ぎこちなく彼女に近づき何と声を掛けていいのか解らなくなりデレデレ、ヘラヘラするしかなかった。
「やあ。一週間ぶり、ハハハ」
当たり前の事を言ってしまった。
「やあ。一週間ぶりだね」
彼女はニコニコしながら俺の言葉をそのまま返した。俺もニコニコ笑顔で彼女を見た。お互いただ、ニコニコしている。
丘の上で一緒に星空を見てかなり打ち解け仲良くなったつもりだったが、一週間振りに会うと何だかとても照れくさい。
「あっそうだ。この前のお礼カステラが好きだって言っていたから、これどうぞ。この前は本当に助かりました。有難うございました」
彼女は紙袋に入ったカステラを俺に差し出した。俺は「ありがとう」とお礼を言いカステラを受け取った。
「この間は駅まで送って貰って、ありがとう。電車には間に合ったよ」
一通り挨拶も済んだのでいよいよここからが本番だ。
昨晩、考えついた自然、且つスマートにお茶に誘う方法を実行する時だ。
大和相国寺駅の外に行ってみたいと言い、駅の外の喫茶店で色々話をし、携帯番号を聞き、あわよくばご飯を一緒に食べ、次に会えるように約束を取り付ける。簡単な事だ。
「そう言えば、俺、大和相国寺駅の外へは出た事がなくてね。もし良かったら………」
「あれえ! リカちゃん、どうしたの? 今日の授業もう終わったの? 」
俺がちょうどお茶に誘おうと話している中、横から男が現れた。男は大きい声で彼女に声をかけた。
俺は絶妙なタイミングで邪魔しやがったこの男に少しムッとしたのだが表情はまだ辛うじて笑顔を保つことが出来た。
男は俺を一瞥すると
「あれっ? もしかして、この人? リカちゃんを助けてくれた人って? 」少し小声で彼女に聞いた。彼女が頷き何か言いかけたが男は直ぐに、また喋り出した。
「はい、はい、はい。なるほどねー。へぇー、ふーん。初めまして俺、夏目 瞬、て言います。
リカちゃんのこと俺からもお礼言わして下さい。彼女が二度もお世話になったみたいで有難うございましたー」
夏目は値踏みするような無遠慮な視線を俺に向けていた。かなりムカついた。お前に礼を言われる筋合いは無いと言いたかったが、代わりに笑顔で挨拶を返した。完全に出鼻を挫かれた俺は、彼女を誘う事は諦めた。
身長百七十センチ程で、痩せ型、茶色の髪で耳にピアス派手なシャツに短パン姿で俺をニヤニヤ見ている。この男の大きめの声と態度が一々俺の癇に障った。そしてこのボケの夏目が一々、俺に根掘り葉掘り質問して俺が答える度にニヤニヤする態度にも段々ムカついてきた。
「いやー古川くんてすごく親切なんだねー。普通見ず知らずの人にそこまで出来ないけどなー。俺だったらどうするだろうなー、うーん」
ニヤニヤしながら
年齢は? 身長は? 大学はどこを出た? どうしてあんな田舎にいたの? 何をやっていたの? 趣味は? 特技は?
初めて会う俺に普通なら訊きにくい事を面接官のように矢継ぎ早にグイグイ質問してくるボケの夏目に、一々笑顔で答える俺。
まだ里香さんにも言ってはいないもう少しの間は内緒にしておきたかったアルバイト生活の事まで話さなくてはならなくなった状況に追い込まれた事が辛かった。
「ちょっと、瞬くん、失礼だよ、そんなに」
「ええっ! そう? 全然失礼じゃないですよね? 」
里香さんは心配そうに時々、夏目の質問を止めようとするが、このボケはお構いなしに俺に話しかける。里香さんは困った顔で俺を見た。
俺は思わず「うるせえっ! 」と怒鳴りそうになったが、この前の南田先生の怒り状態の醜態を思い出し落ち着くことが出来た。
俺は温厚な方だと自負していたのだが、こんな俺を腹立たせるなんて凄い奴だなと寧ろ感心した。
そして俺もそこまで馬鹿ではない、今この状況がどういうことなのか全てを理解し納得した。
やはり秋吉 里香さんには、彼氏がいたと言うことだ。別にそれに関しては、驚きはしないが俺のこの燃え上がる気持ちとは裏腹に里香さんは冷え切った気持ちで、俺を牽制する為にわざわざ恋人の夏目を駅に呼んだのだろう。
偶然を装ったフリをしてタイミング良く現れた夏目。そして里香さんと話す機会を与えないように俺を牽制し続ける。
そう考えると情けなくて恥ずかしくて悔しくてちょつとだけ涙が出そうになった。
夏目の奴はノコノコ喜んでやって来た俺を彼女の前で馬鹿にしてさぞ楽しかっただろう。
俺は正にとんだピエロだな。只、気づくのがお茶に誘う前で、携帯番号を聞く前であった事がせめてもの救いだ。
今なら傷も浅く済むと本能的に悟った俺は素早く引き揚げる事にした。
駅の電光掲示板を横目で見ると丁度もうすぐ帰りの電車が到着する時刻だった。
「じゃあ俺はこの辺で。カステラありがとうね秋吉さん。じゃあね夏目くんも、さようなら」
俺は二人に片手を挙げて別れの挨拶をすると無理矢理の作り笑顔で帰りのホームへと走りだした。
「えっ? ちょっと」
秋吉さんが驚いた様子で何か言おうとしていたが、俺は構わずに走り出し階段を駆け降り電車に乗った。
電車の座席に腰掛け、自分の己惚れを反省し、そして恥じた。やられた、今回は完全にしてやられた。
恐らく、俺に秋吉さんを助けた事を笠に着てしつこく付きまとわれても困るので、夏目に途中タイミングを見計らって出てきてくれとでも頼んだのだろう。
そう思われたのは残念ではあるが、納得できる部分もある、但し夏目、あの野郎は許さん。アイツの俺に対する態度には今だに腸が煮えくり返る思いだ。
まあ許さないといっても何かするわけでも無いのだけれども。ただ彼氏ですと言えば良いものを、あんなに俺を馬鹿にして、恥を掻かす必要は無かった筈だ。
こうなったからには、俺は今日から古武術と職探しと英語この三つだけに打ち込む事に決めた。
まずは、身体作りを兎に角、頑張ることにする。電車が駅に着くと、タバコを、一本吸い終え、残ったタバコを全て駅のゴミ箱に捨て南田道場へと向かった。
こうして俺の始まってもいない夏と恋は終わった。
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