口封じ―七尾秀介のオカルト事件簿―

錨 凪

プロローグ

プロローグ

 母が死んだ。

 残り香のように生ぬるい中途半端な暑さがわずらわしい、夏の終りのことだった。斜陽の病室で僕が見守る中、太陽が沈み切るのと同時にジグザグの心電図は一本線を引いた。安らかな死だったとは、とても思えない。最後の最後まで苦しんで逝ったように見えた。とにかく、母は病気だった。主治医の小長野こながのという人は心臓の病だと言っていたが、最期の喉を絞められるような呼吸はとてもそうは思えなかった。

 葬式は行えなかった。手続きの方法がわからなかったというのもあるが、そんな貯蓄も、葬式に来るような知人もいなかったと思っていたからだ。僕を引き取る事のできる親類がいると知ったのは。納骨が済んでしまってからだった。

 親不孝だと、自分でも思う。いろいろなものを与えられてきたが、それに満足することなど一度たりともなかった。全てが足りていないような気がしてならない。その不満足を満たすためだけに幾度となく辛く当たったものだ。結局、満ちることもなく、誰かを、母を満たすこともなかったのだ。

 僕、七尾ななお秀介しゅうすけの16年は、川底を転がる石ころのようだった。物心がつき始めた幼い頃にはすでに流されるように各地を転々としていて、擦り切れ削られ、気づけば何もとっかかる場所もこびりつく苔もないツルリとした丸い石ころのような人間になっていた。いや、自覚がないだけで、自らがその全てを拒絶していたのかもしれない。どうせ無くなるのなら、最初からないほうが幼い心に優しかったのだろうか。そう客観的に見れば幾分か楽にでもなるのだろうが、それができるほど精神的に成熟してはいなかった。

 母の死後も周囲に流されるがままに、川底の石ころに徹することしか出来なかったと思う。行く宛もない僕は、名ばかりの生まれ故郷であるらしい竜涎市りゅうぜんしに顔も知らない親戚によって引き戻されることになっていた。

 滝壺を事げ落ちるように何もできないまま、ほぼ強制的にアパートを引き払った。もともと転居続きだったため私物はトランクケースほどしか持っていなかったのは、ある意味幸いだったかもしれない。

『まもなく、終点。竜涎、竜涎です。お降りの際は……』

 そんなことを思い返しながら新幹線に揺られていると、終点のアナウンスに気がついた。目的の駅だ。ふと車窓の外を見てみると、聳え立つ竜涎山りゅうぜんさんがその威容を誇っている。その中腹に立つ、巨大な神社のような建造物が一瞬目に着いたが、すぐに駅舎がそれを隠してしまった。

 車内の過度にも思える暖房に緩めていたマフラーを締め直して駅のホームを出た僕を出迎えたのは秋に差し掛かったとはいえ、凍えるように肌寒く、力強い秋風だった。竜涎山から吹き下ろすおろしが金切り声を上げて濁流もかくやと押し寄せてくる。押し流されないように歩く人はまばらで、広い駅前広場はひどく閑散としていた。


 出迎えは、それだけだった。


 一人でバスに揺られ、曲がりくねった大蛇か龍かのように横たわる竜涎川りゅうぜんがわに寄り添うこと約30分、そこから歩いて5分足らずの閑静な、いや、人気のない住宅街の一画に立つマンションが僕に宛行われた家だった。僕の心の空虚さをあざ笑うかのような広すぎる2LDK、真新しく小綺麗で、値札を切り落としたばかりの質の良い家具が並んでいた。自分で選んだわけでもなく、ただ流されるままにあてがわれたそれのどこにも、母の面影はない。どうやら親戚筋らしい彼らは、母の痕跡をことごとくかき消したいというように、遺品から何から取り上げていった。手元に残ったのは、隠すように持ち出した一冊のアルバムと数冊のノート、そして一つの写真立てだけだった。

 玄関の目立つ場所に写真立てを置いた。なんだか、生まれてはじめて流れに逆らってみせたようで、なんだか胸が少しだけ楽になった。もし親戚筋に見つかったらすぐに叩き割られるだろうとも考えるが、そもそも顔を見せることなんて無いだろうということは、今までの彼らの態度からわかりきっていた。この、一高校生とってには不釣り合いな広い部屋も、毎月、生活するには過剰なまでに振り込まれる大金も、なんらかの厄介払いか、それとも母に関しての何らかの口封じか、それを計り知ることはできなかった。矛盾だと思ったが、都合がいいとも思っていた。

 長旅で疲れ切った体を慰めるように、着替えるまもなく真新しいベッドに体を沈める。顔を天井から壁に向けると、これみよがしに壁にかけられた、まだビニールも剥がれていない制服があった。これ以上になく憎らしかった。明後日になれば、嫌でも袖を通さなければならないそれを、ずたずたに引き裂かなかったのは、最後に残った一抹の理性か、もしくはもはや抗う気力も残ってないか、それを判断できる前に、眠りに落ちていった。


……


…………


……………………


 気がつけば夢を見ていた。

 水面に揺蕩う木の葉になったような夢だった。取り囲む木々が切り取った晴れ渡る蒼穹を正面に見据えて、ただゆらゆらと揺られる、心地の良い夢。誰かが語りかけてくる。優しい声だ。

「……守れなかった」

 誰を?

「……あなたは、役目を果たさなければなりません」

 役目?

「口封じをするのです」

 口封じ?

「頼みましたよ」

 目が覚めた。普通なら綺麗サッパリ忘れ去るような他愛のない夢を、しっかりと思い出すことができる。水の冷たさ、木々の香り、頬を撫でる風、そしてあの優しい声。そこまで思い出して、なぜか泣いているのに気がついた。

 あれは、おそらく母の声だと思った。長らく苦しむような声しか聞いていなかったせいですっかりと忘れていた母の声だ。あぁ、この涙はそれかと得心した。きっと、母の最期の頼みだ、何かはわからないが、成さねばならない。

 しかし、しばらく何も得るものはなく、気がつけば十月の終わりに差し掛かっていた。空気は秋の気配に染まり、近所の庭の金木犀に花がついていた。

 今日も古い資料を読みながら食べる昼食のころ、転機は訪れた。

「これは友だちから聞いた話なんだけど……」

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