7.夕暮れの招待
若者の両目に、涙があふれたあの日から、五年の歳月が流れた。
その五年の間に、人間社会は、ずたずたに傷付けられていた。
傷付けたのは、二つの恐るべき力だった。
昔なら、五十年に一度しか起こらなかったような大規模な自然災害が、毎年のように起こっていた。百年に一度しか発生しなかったような
なぜ、そんなことになってしまったのだろう。人類が、自らの文明を目覚ましく発展させたように、災害も、疫病も、自らを発展させ、その力を強めていったのかもしれなかった。
それでも人間たちは、次々に襲ってくる災害に立ち向かい、復興への努力を重ね、精一杯生きていた。若者も、その一人だった。
若者は、夕暮れの街を歩いていた。
ひとりきりで、うつむいて地面ばかり見ていた。いつものことだった。恋人を、銀色の人に連れ去られてからというもの、若者は、生きることを楽しいと感じられなくなっていた。
夕暮れの街には、まるで人の気配がなかった。二か月前に、新しい伝染病が発生していたから。若者は、マスクを着けていた。むなしいと思いながらも、人生を投げ出さず、真面目に生きようと努めていた。
その時、前方から、明るい光が差してきた。若者は、ひさしぶりに顔を上げた。
目の前に、ゆるやかな坂道が伸びていた。さっきまで、そこに無かったものだった。坂の向こうに、忘れようにも忘れられない、あの建物がそびえていた。壁面の全てにガラスを張り詰めた建物は、夕日を浴び、暖かな紅色に光り輝いていた。
ガラスの建物は、今では、空に太陽があるうちから出現するようになっていた。
何人もの人々が、今までどこに隠れていたのだろう、どこからともなく集まってきた。人々は行列を作り、ゆるやかな坂道をのぼり始めた。
若者は、自分が考え違いをしていたことを知った。
伝染病に免疫がつけば、銀色の人に呼び寄せられなくなる。けれど、新たに発生した伝染病に、免疫を持っている人間はいない。再び、銀色の人に呼び寄せられるようになる。
考えてみれば、当たり前のことだった。若者は絶望に
若者は、ポケットから携帯を取り出して、恋人の父親にかけた。
「ガラスの建物が、ぼくの前に現れました。今から、入ってみます。もし、ぼくから連絡がなかったら……ぼくは、あの子と、遠い世界で幸せに暮らしていると思ってください」
「君の幸運を祈る。行った先で、どんなことがあろうと、くじけてはいかんよ。連絡がなかったら、二人は再会した、幸せになったと、女房の
「ありがとうございます。さようなら」
若者は電話を切り、行列に加わるために、歩き出した。
ガラスの建物は、若者をなんらとがめることなく、招き入れた。
ロビーでグループに分けられ、エスカレーターに乗って二階に上がった。若者は、そっとグループから離れ、84番の扉があった場所へ向かおうとした。
「待ってください。そのグループから離れる必要はありませんよ」
背後から、若者は呼び止められた。銀色の人が一人、静かな足取りで若者に近づいてきた。
若者は、おだやかに返事した。
「ぼくには、行かなければならないところがあるんです。好きにさせてください」
「84番の扉を、通りたいのですか?」
銀色の人の質問に、若者は驚いた。五年も前のことだったから。
「ぼくのことを、覚えているんですか?」
「はい。あなたは私のことを、お忘れのようですね」
そういわれて、若者は弱ってしまった。思い出そうにも、思い出せなかった。
「すみません。君たちは、その……みんな同じような姿だから」
「構いません。それより、さっきのグループに戻ってください。ご心配なく。途中で、84番の世界に寄り道するように、行程が組まれておりますから」
「ええっ!」
若者の心に、五年ぶりに希望が湧いてきた。うつむいた背はまっすぐに伸び、固まっていた表情は、生き生きし始めた。
「本当ですか! ありがとう! でも、どうして……。ぼくは、ここで二回も騒ぎを起こしたのに」
「関係ありません。一度目は、あなたの心が乱れていたので、退出させました。二度目は、あなたがウィルスに感染していたので、退出させました。現在は、そのどちらでもありませんから。それどころか、現在のあなたは、新しい伝染病に免疫がなく、命が危険にさらされている状態です。なので、ガラスの建物をお見せして、お呼びしました」
銀色の人は、過去の行きがかりなど存在しないかのように、話を進めた。
「私たちの
銀色の人は、すらすらと説明した。
その説明に、若者はふと、引っかかるものを感じた。
「その、許可が下りたのは、いつのことなんですか?」
「五年前です。もちろん、許可は現在でも有効です」
銀色の人は、平然と答えた。
若者は、心の底からあきれ果てた。目の前にいるこの銀色の人は、五年という歳月の重さを、なんとも思っていないようだった。
それでも、若者は、怒る気になれなかった。銀色の人は、
若者はため息をついた。そして言った。
「あのグループに、戻ればいいんですね」
「はい。あのグループの案内を担当している者は、全員があなたの事情を知り、どうすべきか分かっております。彼らの指示に従ってください。
他に何か、ご質問はございますか?」
若者は、静かに言葉を発した。
「お願いがあります。ぼくの身に起きたようなことが、他の誰かの身に起きたら、その時は、なるべく早く、この建物に呼んでやってください。五年も待たせたりしないでください」
「かしこまりました。そのようにいたします」
銀色の人は、さわやかに返答した。分かっているのか、いないのか。その言葉を信じるしかなかった。
最後に、銀色の人はにっこりと笑い、送別の辞を述べた。
「それでは、良い旅を。病気のない世界で、どうか幸せにお暮しください」
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