第56話 『白日』

 曲のタイトルを見た瞬間、総司の心はざわめき立った。 かなりの人気を博して、今でも人気で、総司も何度も聴いた、カラオケでも歌った好きな曲。

 歌詞も頭に入っている。 そして、その意味も。


 うっすらと嫌な感覚が胸に絡み付く。 やめろと、そう言っている。 見るなと、そう訴えてかけてくる。 見たくないと、そう叫んでいる。

 だが、総司は約束・・した。 二度と関わらないと、そうして交わした重い約束。 それを総司に破れるはずがない。


 唇が微かに震える。 小さく漏れた吐息も震えていた。 それを落ち着かせるように、大きく息を吸い、そして吐き出す。

 歌うと約束した。 手を抜いて、ふざけて、適当に──それは遊びだ。 歌うとは言わない。 だからそう、歌う。 約束した通りに歌う。

 胸の内の嫌な感覚に逆らうように、もう一度、大きく息を吐き出す。 微かな震えは止まった。

 総司が頷き、それが合図だった。 動画が始まり、総司が息を吸い込む。 そして、吐息にそっと乗せるように、優しい歌声が流れ始めた。



──気付くこともなく人を傷付け、失い、そうして初めて知る、自分の犯した罪



 囁くような繊細な高音が総司の口から紡ぎ出される。 心地よく耳をくすぐる歌声。 春と由美と梨子が目を見張る。

 歌声に、ではない。 総司がカラオケでこの曲を歌った時よりも切ない歌声は、心に響くものがあった。

 だが、そうではない。 あの時と今とでは、この曲は全く違う曲のように心に刺さった。

 考える間もない。 ただ呆然と受け止める三人の前で、穏やかなメロディに乗せてことばが描かれていく。



──どれだけ失った過去を思っても、決してそこには戻れない

──例え、未来が自分の犯した罪の報いで塞がれていようと、前へと歩いていくしかない



 バラード調の穏やかな演奏。 切々とした総司のゆったりした歌声が、優しく染み渡るように響く。

 だが、春はあまりの衝撃に思わず口を押さえていた。 視界が滲み、嗚咽が微かに漏れそうになる。 しかし、引き攣る喉からは吐息すら出てこない。


 知らず知らずの内に総司を傷付けた。


 楽しく心地よかった関係を失い、そうして初めて知った自分の罪。


 一緒に過ごした楽しい、戻りたいと思っても戻れない時間。


 つらくて、苦しくて、先が見えない、それでも、先に何があるかも分からないまま進まなくてはならない未来。

 

 総司が歌う曲──King Gnu『白日』


 この曲はまるで──



──何をすれば、どうすればいいのか分からないまま、誰かのために生きようとするなら、間違ったことも選ばざるを得ない

──時をおいてあなたに会うことが許されるまで、自分のことを覚えていてもらえるか

──その頃には自分の罪も償えていたならいいのに



 ──自分たちのことを歌っているようだと。 その想いに春の心は激しく揺さぶられていた。


 軽快に転調した曲のテンションが上がる。 穏やかだった総司の歌声に力が籠もり、熱量が一気に増す。 ずっと燻っていたものを吐き出すかのように、衝動のままに叩き付けるかのような声が、春の心臓を鷲掴みにする。



──全てを反省して、生まれ変わったつもりでいても、過去は消して消えず、背負っていかなくてはならない

──自分の罪も、過去も、願わくばどうか全て隠して見えなくなってほしい

 

 

 歌声が止まり、訪れるわずかな静寂。 総司の熱唱に、込められた感情の奔流に晒され、鷲掴みにされ、張り詰めていた心が束の間の解放に緩む。

 止まらなかった。 もう止められるはずがなかった。 春の目から涙が溢れていた。


 自分の犯した過ちと後悔、切実な願い、決して求め得ない現実──全てがそのまま重なり、重なってしまい、涙を止めることも、隠すことも、総司から目を離すこともできなかった。

 そして、春のそんな姿を見ながら、総司は切々と歌う。 歌い、向かい合う。 春のことを歌うかのような歌を、物語を紡いでいく。 春の気持ちに、想いに、後悔に向かい合っていく。


 そうして歌は続いていく。

 春だけではない。 梨子も由美も、自分たちに重ねて涙を流していた。 この曲を練習しているのをずっと聴いていた紗奈も俯いている。 スタジオの空気を震わせる総司の歌声に、男子も身震いしていた。

 総司の様子は男子には見えない。 それでも、総司が感情を込めて本気で歌ってくれている、それは伝わってくる。 寒気にも似た感覚に全身の皮膚が粟立つのを感じながら、賢也は弦を爪弾き思い出していた。


 二学期最終日の事件の後、どうすればいいか考えることもできず、適当にヒット曲のランキングを流しながら宿題をしている時、流れてきたこの曲に賢也は意識を奪われた。 ふとしたワンフレーズが引っかかり耳を傾け、思わず歌詞を噛みしめるようにして聴き入った。 聴き終わって、気付けば涙が流れていた。


 ──これは自分たちのことだ。


 そう思った。 今、この場にいる全員が感じていることを。

 自分たちのことで、何よりも春の気持ちそのまま──もしも総司がこの曲を歌ってくれれば、春の気持ちが伝わらないかと、そう思い付いたのが始まりだ。


 伝わってくれと、願いを込めて賢也の演奏にも熱が入る。 洋介も優太も同じだ。 間奏で沈黙する総司の背にぶつけるように弦を弾き、ドラムを叩き、そして、総司の肩が動く。 畳み掛けるようにくる終わりに向け、息を吸い込み、そして再び、総司の歌声にスタジオが包まれる。



──愚かな自分を捨てて違う人間になれないか、そんなことまで思ってしまう

──他人が何を考えているかなんて分かりはしない

──取り返しの付かない過ちを重ね、誰もが後悔の中で生きている



 重ねて犯した罪への後悔が紡がれ、そうして、最後のセッションは終わりを告げた。

 心地よく響く総司の歌声が尾を引いて消えていく。 演奏の余韻がスタジオの空気を微かに震わせていた。 名残を惜しむかのように、まだ終わってほしくないと思う六人の願いを表すように。

 しかし、それも長くは続かない。 空気の震えは徐々に収まり、そうして訪れるしんとした静寂。


 祭りが終わった後のような虚脱感を漂わせる静寂に、銘々に息を吐き出す。──六人の胸の内を表すように、それぞれに違う形のため息。 ただ、終わったと、それは全員が感じていた。

 やると決めたことをやった。

 やらせたくなかったことを止められなかった。

 どちらの思いを抱えていようと、言葉が出ないのは同じだ。 何も言えるはずがなかった。 何も言えずにただ、総司のことをじっと見る。


 総司も何も言わない。 黙って俯いて、身動みじろぎもしない。──用は済んだと、帰る素振りも見せない。

 ただ続く沈黙の中、苦しげな声に全員の視線が集まる。 顔を覆った春がつかえながら、切れ切れに何かを口にする。 嗚咽が混じりまともに言葉になっていない。 それでも、『ごめんなさい』と、総司に必死に謝っているのが分かる。


 沈黙の中に響く春の嗚咽が、男子に鉛のように重くのしかかる。

 春がどう感じるか、どう受け止めるかまで、男子は考えていなかった。 子供のように泣きじゃくる春に罪悪感を感じても、何もできなかった。

 

「……満足か?」


 低い、掠れた小さな声に、春に向けられた目が総司へと集まる。

 俯いたまま、総司は大きく息を吸い、吐き出す。 吐き出す息が震えていた。 こみ上げる何かを、堪えきれないそれを必死で抑えようとしている。


「……分かってるよ」


 震えた声で、それでも確かに聞こえた言葉に、男子三人が喜色を浮かべる。


「戸倉もお前らも、俺を歓迎したかっただけだって……傷付けようなんて思ってなかったって……そんなの分かってる」


 総司に分かってもらえた、自分たちのしたことが無駄ではなかったと、三人の顔に笑みが浮かぶ。

 総司に絶交を言い渡されたのは何も変わらない。 その苦い思いが混じり複雑そうだが、それでも喜びが遥かに勝っている。


「反省してるのも後悔してるのも……戸倉がどれだけ苦しんでるのかも分かってるよ」


 目的を達せられた喜びに耽る男子たちは気付かない。 男子の嬉しそうな様子を見ていた紗奈も、男子を止められなかった思いに俯く由美も気付かなった。

 梨子だけが、春と同じ想いを抱え、分かってもらえてよかったと総司を見ていた梨子だけが気付いた。──俯いた総司の顔から、床に滴が垂れていることに。


 困惑する梨子の前で総司が上げた絶叫に、その場の空気が凍り付いた。


「俺が間違ってるんだって……そんなこと分かってるんだよ!」

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