第52話 傷の名前

 唐突な来客は春をひどく驚かせた。 来客があったことに驚く程度に、柴谷家は客人がくるような環境ではない。

 近所への引っ越しの挨拶こそしたものの、柴谷家は積極的に近所付き合いをしてはいない。 正確に言うならできていない。

 智宏は日中、ほとんど家にいないし、本来なら近所付き合いの主役になる母親もいないのだからそれも仕方のないことだ。


 それでも事件の前までは、総司と春が一緒にいると近所のおばさん、お婆さんに話しかけられたりお菓子やら何やらもらったりはしていた。 明るい春がみんなに可愛がられていたこともあって、一緒にいる総司も気にかけられたのは自然なことだろう。 春に彼氏ができたと、そんな風に微笑ましく見られることも少なくなかった。

 事件以降、様子が一変した二人に、最初はみんな事情が分からないこともあって心配そうに声をかけてきた。 その度に二人揃って話したくなさそうに、申し訳なさそうに謝る姿にさすがに感じるものがあったのだろう。 自然と腫れ物に触るように、遠慮がちに挨拶されるだけになっていった。


 事件がなければ、友人たちが訪れることもあっただろう。 暇だからと遊びにきたり、一緒に出かけようと誘いにきたり、そんなありふれたことがいくらでもあったはずだ。

 そんな関係は春たちが完全に壊した。 台無しにしてしまった。

 総司から見て友人と思いたい人間は一人もいない。 それを理解していながら総司の家を訪れるような人間は一人もいなかった。


 夏休みが始まって一週間が経つが、総司と春が出かけたのは春の水着を買いに行った時だけだ。 来客も水着を買いに行く時とその前日に桜がきただけ。 ちなみに、水着を買いに行く理由を聞いた桜に、春は酷く叱られることとなったがそれはまた別の話になる。

 それ以外では、来客も外出も一切ない。 智宏のいない昼の間、柴谷家は総司と春、二人きりの、二人だけの世界になっていた。


 しかし、驚いたのは来客があったことだけではない。 その相手にも、春は驚きを禁じ得なかった。

 二人だけの世界──その言葉の持つイメージとはかけ離れた、苦さで満たされたそこに訪れた不意の来客と、春は玄関を出て顔を合わせていた。


「あの……元気?」


 春の姿を見た少女はぎこちない、居心地の悪そうな笑顔を春に向ける。

 黒くなったショートボブの短い髪に、化粧もしていないその姿は春にとっては見慣れないものだ。 しかし、顔も声も春はよく知っていた。 イメージは全く違うが、そこにいたのは間違いなく梨子だった。

 総司の家にくるはずのない、これるはずのない、春にとっては大事な仲間の一人で、総司にとってはもはや他人としたい元友人。


「うん……前よりは」


 そんな仲間の気遣うような問いかけに、春の返答もぎこちない。 嬉しくはあっても無条件に歓迎することはできなかった。

 仲間に素っ気ない対応をしなくてはならないかも知れない。 それは想像だけで春の気をどうしようもなく重くしていた。


「その……総司くんは元気?」


 言いにくそうに切り出す梨子に、春はすぐに言葉を返せなかった。 ゆっくりと大きく息を吐き出すその様に、春の心境が如実に表れていた。


「……総司くんに会いにきたの?」


 梨子が表情を固くするのを見て、しかしそれが何を意味するのかは春には分からない。

 固唾を飲んで返答を待つ春の前で、梨子は寂しげな笑みを浮かべ静かに首を横に振る。


「総司くんに合わせる顔なんかないし……あんたと話せないかなって思って──少し出られないかな?」


 総司のそばにいると、そう決めている春の時間をもらえるか、遠慮がちに尋ねる梨子に春は安堵の息を吐きながら玄関のドアを大きく開けて中を示す。


「上がって。 外だと暑いし」

「だ、ダメだよ! 総司くんに──」

「大丈夫だよ」


 総司は自分なんかと顔を合わせたくないはずだと、梨子は当たり前に考えていた。 だから外で話したいと、そんな梨子の気遣いに、しかし春は平然と家の中へ梨子を誘う。


「でも──」

「大丈夫……総司くんがいいって言ってくれたんだから」


 思わぬ言葉に、梨子は呆けた顔で春を見返していた。 そんな梨子に、春は一つ頷いて梨子を家の中へと入るよう促す素振りをする。

 どういうことなのか、梨子には理解できなかった。 それでも総司が梨子を家に入れていいと、そう言ったのは確かなことなのだろう。 今の春にとって、総司の意思は絶対のはずだ。 総司が関わりたくないと思っている梨子を勝手に家に入れようなどとするはずもない。


「……おじゃまします」


 躊躇いながらも、梨子は春に続いて総司の家に足を踏み入れる。

 梨子にとっては初めて入る家だ。 どこに行くかも分からず春の後について行くと、案内されたのは柴谷家のリビングだった。 ソファに座ってテレビを見ている総司の姿に、梨子の心臓は跳ね上がっていた。

 春ほど本気だったかは自信がない。 それでも確かに好意を抱いた、決して届かぬ、受け入れてもらうことなど望めぬ相手。 自分たちの愚かさで傷付けてしまった相手。


「あの……ごめんね、そ……柴谷くん。 いきなりおじゃましちゃって」


 恐る恐る声をかける梨子に、総司は言葉を返さなかった。 軽くため息を吐くと立ち上がり、リビングの出口へ春と梨子を避けるでなく足を向ける。 梨子の方を見ようとせず、部屋にいると春に告げてリビングを出ていく総司の後ろ姿に、梨子は思わず胸を押さえていた。


 総司に嫌われている。 そんなことは十分に思い知っていて、しかし今までは他の仲間と一緒にそれを突き付けられていた。

 総司と対面で、一対一で、紛れもなく梨子に向けられた、ぶつけられこそしなかったものの受け止めざるを得ないその感情に、梨子の胸は鈍く疼くような痛みに苛まれる。


──あぁ……そっか……──


 仲間たちと一緒ではない、一人で、自分だけで受け止めて、梨子はその胸の痛みの名前を知った。


──あたし……総司くんのこと……──


 本気で好きだったんだと、そう自覚してしまった。 恋をしていて、それを失ったんだと。

 『失恋』──胸に深く刻まれたその二文字がもたらす痛みに、梨子はその場で蹲っていた。


『後悔する日がくるかも知れないんだよ?』


 柴谷家の前で桜に会った時に言われた言葉が梨子の脳裏に甦る。

 後悔していると、そう答えた。 それが間違いだったと、そう気付いた。 この重さと比べれば、あの時のそれは後悔などと呼べるものではなかった。

 生まれ変わったつもりで、心を入れ換えて綺麗な自分になろうとしたところで、過去は決して消えてはくれない。 汚れた女と、総司にそう思われるのは何も変わってくれない。

 いっそ本当に生まれ変わって人生を一からやり直したいと、それほどの思いに梨子の我慢も限界だった。


「うっ……うぅっ……」


 総司に聞かせたくない。 リビングのドアも、総司の部屋のドアも開いている。 自分なんかのせいで総司にこれ以上、嫌な思いをさせたくない。 そう思っても無理だった。


「ひっ……! あっ……あぁぁぁぁぁっ……!」


 必死に噛み殺そうとしても抑えきれず、梨子は泣き声を上げていた。 堰を切って溢れた悲しみは止めようがなかった。

 子供のように泣きじゃくる梨子に春は何も言えない。 その感情と強さを春はよく知っていた。

 泣きじゃくりながら震える梨子に、春はいつか自分がしてもらったようにそっと後ろから抱き締めると、ただ無言でその頭を撫でる。

 もう一人の自分を慰めるように、梨子が落ち着くまでずっとそうしていた。

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