第53話 選べない選択
「……大丈夫?」
「……うん……ありがと」
腫れぼったい目を手で押さえながら、春が出してくれた麦茶を飲む。 湧きやまない悲しみに子供のように泣き明かして熱を持った体の熱を奪われる感覚は心地よく、しかし胸の苦しみはわずかにも減じることはなかった。
涙は止まっても胸の痛みは、自覚して深く刻まれた失恋の傷は、鈍く疼いて梨子を苛んでいる。
「ごめん……外で話せばよかったね……」
テーブルを挟んで向かい合った梨子の悲痛な様子に、春は心底から後悔しながら頭を下げる。 家の中に入らなければ、総司と接触しなければ、梨子はこんな思いをせずに済んだ。
総司のそばから離れるわけにいかないし、総司がいいと言ってくれたから安心して梨子を誘った。 それがこんなことになるなどとは思いもしなかった。
好きな人に拒絶される──その苦しみを春はよく知っている。 思い知らされ続けている。
自分と比べたら大したことはないなどと、そんな風には思わない。 本気だったなら、その辛さはみんな一緒だ。 本気だったから、その辛さに泣いていた──自分と一緒だ。
その辛さを知っているから、春は梨子にまでそんな思いをさせたことが申し訳なかった。
しかし、梨子は申し訳なさそうに縮こまる春に首を振る。
「あたしが悪いんだよ。 総司くんに嫌われるようなことしてて……いつかは知らなきゃいけないことだったから」
梨子も春と一緒だった。 自分が悪かったと、そのことをちゃんと分かっている。
嫌われて、蔑まれて当然のことを、そう思わずにやっていた。 続けてきた。
馬鹿をやっていた自分にやってきた当然の報いであって、その結果もいつかは知らなければならなかったことだ。 誰かを恨むことなどできるはずもない。
「総司くん……何で家にあげてくれたんだろ……」
自分を見もしなかった、見たくもないものだというように通り過ぎた総司のことを思い返し、梨子は胸に当てた手をぎゅっと握り締める。
総司は何も変わっていない。 心の傷も、怒りも、自分たちへの嫌悪感も、全てがそのままだと強く実感して梨子はうつ向いていた。
梨子を家に入れていいと、総司がそう言っていたと聞いて、梨子は総司の傷が少しは癒えたのかと、春の献身で少しは落ち着いたのかと、わずかにだがそんな風に思った。 それ以上に強く、こんな短い期間でそんなことがあるはずないと、そう思いもした。
その考えが正しかったことを、総司の態度で嫌と言うほど理解させられた。 何もしていない梨子たちに対しては当然として、春に対しても何も変わっていないのだと、それを思い知った。
「ごめん……あたしに会いにきたなら中で話せばいいって言ってくれたんだけど……外は暑いだろうって」
それは春と梨子、二人に対して向けられた総司の優しさだった。 追い返したって、炎天下で話し込ませたって構わない。 そうされても文句など言えない。 それなのに、総司はそうしなかった。
優しさを向けてくれた。 だが、それが無条件な優しさであるはずがなかった。
「……総司くんに会いにきたんだったら?」
確認するまでもない。 それでも確かめたいと、恐る恐るそれを口にした梨子に、春が返せたのは沈黙だ。 今の梨子に対して、それを口にすることはとてもできなかった。
しかし、それはどちらでも変わらない。 その沈黙が雄弁に語っていた。
「……そっか」
ぽつりと、梨子の唇から寂しそうな呟きが漏れる。 それに誘われるようにまた溢れてきた涙をハンカチでそっと押さえ、梨子はまたうつ向いていた。
悲しみの残滓をわずかに刺激されただけで、子供のように泣きじゃくりはしない。 しばしの沈黙をおいて、大きく息を吐いた梨子は顔を上げる。
「ごめんね。 いきなりきて迷惑かけちゃって」
「ううん──それよりさ、今日はどうしたの?」
総司のことから梨子の気を逸らそうと、春は話題を変える。 突然の梨子の来訪を何事かと、不思議に思う気持ちもそこには当然あった。
「あんたのことが心配でさ──総司くんとどうかなって」
春の気遣いに乗るように、梨子は気持ちを切り替えて話を切り出す。 切り替えきれるわけはないが春に心配をかけてしまってはきた意味がない。
梨子の言う心配をどう捉えたか、今度は春の顔が暗くなる。
「……少しだけどよくなったよ。 今は総司くんと話せるから……総司くんに嫌な思いをさせるのは減ったと思う」
春は梨子の心配を、総司に対して何かしていないかと、そう心配されていると受け取った。
それに対して梨子は何も言わない。 無言の梨子に、春は話を続ける、
「今までね……あたし、総司くんに本当に嫌な思いをさせてたって……分かったの。 総司くん、ちゃんと話してくれたから。 あたしがいて嫌な思いをするのは変わらないけど……でもね、あたしのせいで嫌な思いをさせちゃうのは減ったんだよ?」
表情は明るくない。 それでも確かに嬉しそうな春に、梨子は頷いていた。 総司の負担を減らせているのを嬉しく思っていることが、春の様子にははっきりと表れていた。
「そっか……よかったじゃん」
総司にとっても、春にとってもいいこと。 いい知らせを聞けて、梨子の声も少し明るくなる。
しかし、春は頷き返さなかった。 晴々しさなどない、それでも薄曇り程度には光が差していたその顔が、重苦しい曇天に変わっていた。
総司の力になれて、総司を嫌な気持ちにさせることは減って、それでも変わらない、どうしようもないことがあった。
「……どうしたの?」
「総司くんね……ご飯……食べてくれないの」
あまりの衝撃に、梨子は言葉を失っていた。 そこまで総司の傷は深いのかと、唖然として何も言えなかった。
そんな梨子の様子に気付いた春は慌てて言い直す。
「ご、ごめん! その……全然食べないんじゃなくて……あたしが作った料理……見ただけで気分悪くなっちゃって」
「……おどかさないでよ」
「……ごめん」
考えればすぐに分かることだ。 食事を摂っていないような、そんな衰弱したような様子は総司に見られなかった
安堵のあまりソファに深く身を沈める梨子に、春は気まずそうに謝り、一つ息を吐くとちゃんと説明を始める。
「怪我……早く治ってほしいし……栄養のあるもの食べてもらいたいんだけど……あたしじゃダメなの。 お母さんのは少しは食べられたけどやっぱダメで……レトルトばっかで……」
自分が馬鹿なことをして、総司の気分を害することは減った。 馬鹿なことをし続けて、総司の気分を害し続けることはなくなった。
それでも、自分がいるだけで総司を苦しめてしまうことは何も変わらない。 そして、総司のためにしてあげたいのに自分ではどうしようもないこと──春にとって最も苦しく感じることがそれだった。
桜に頼んで料理を作ってもらったことはある。 それでもダメだった。 ほんの数口食べて、それ以上は食べられなかった。
「……何で?」
「……総司くんもわかんないって」
話せるようになって、自分の作った料理は嫌なのかと聞いた。 自分みたいな汚い女の手料理など食べたくないのかと。 それを訊くのは春にとって、自分が汚い女だと総司に思われている、そのことを再確認する行為だ。
もしも食べられるなら、総司の体のためにも食べてほしい──その思いで作り続けてきたが、それが叶わぬことならば総司を苦しませるだけのことはやめよう。
春は涙が溢れそうになりながら総司に聞いた。 しかし、総司は決してそうは言わなかった。
そうじゃない、分からないと、はっきり否定してくれた。 悪いと、それが春に対して謝っているのか、食材を無駄にさせていたことへの申し訳なさかは分からないが、春の料理を食べないのは総司の本意でないことを示してくれた。 それが嬉しくて、春は涙を溢していた。
「それだけがね……どうしようもなくて……」
自分の努力だけではどうにもならない、総司と話せるようになっても解決しない問題に、春は沈痛な表情でテーブルを見つめていた。
その様子に梨子も何も言えず、リビングに重い沈黙が流れる。 部屋にいる総司から声がかかることもなく、二人の沈黙が破られるにはしばしの時間が必要となった。
自転車を走らせる梨子の心中は複雑なものでいっぱいだった。
あまり長く話すのも総司に悪く、あの後は少しだけ春の話を聞いて総司の家を辞した。 長く話したわけではないがその中で色々と感じられた。 強く実感させられた。
「……どうしよう」
途方に暮れたような呟きは誰に届くこともなく、蝉時雨にかき消されるように宙に消えていた。
春は苦しんでいる。 あの胸が切り裂かれるような痛み、あの胸が潰れるような苦しさ──総司とすれ違い、自覚し、梨子が感じたそれよりも遥かにひどいそれを、総司のそばで受け止め続けている。
それを感じた梨子は賢也の考えたこと──男子三人がやろうとしていることをやめろなどとはとても言えなくなってしまった。
三日間の謹慎から解放された梨子はすぐに洋介の家に行った。
賢也が呼びかけた集まりでどんな話をしたのか、Wireで訊いても男子は教えてくれずどうにも様子がおかしかった。 知らなくていい、自分たちが勝手にやることと、頑なに教えようとしない。
気にならないわけがなかった。 だから、三人で集まっているならここだと洋介の家に向かい、それは当たっていた。
三人がやってることを見て、話を聞いて、最初に唖然とした梨子はすぐに三人に怒りを感じた。 総司にそんなことをさせて総司がどんな思いをするか、それを考えたら怒らずにいられなかった。 総司がやってくれるわけないだろうと、そうも言った。
春のことを何とかしてやりたいと、それについては梨子も同意したが、だからといってそのやり方はどうなんだと、納得などできるわけがない。
それでも、洋介たちは退かない。 ダメかも知れないけどやると。 だから、梨子は春に会いに行った。 春の様子を見に行った。 そこまでする必要があるのか、自分の目で確かめるために春の下を訪れた。
──そして、自分自身が春と同じ苦しみを感じた。
梨子にはもう、洋介たちにやめろと言うことはできなかった。 諦める覚悟をして、全てが無駄になるかも知れなくても、それでも春のためにできることをしてやろうと、そんな三人を止められない。
それなのに、止めなくてはいけないと、その声もまた梨子の中で強く叫んでいる。
総司が自分たちと関わりたくないと思っている、それがどれほど強い気持ちかも梨子ははっきりと感じさせられた。 洋介たちがやろうとしていることを許すわけにはいかないと、そう思う気持ちも強かった。
総司の拒絶を感じた。
春の苦しみを感じた。
そのどちらもが、梨子にとっては見過ごすこともできず、どちらをすくい取るかなど選べるはずもなかった。
どちらにも進めない心境を表すように自転車を止めた梨子は、自分がどこへ進むべきか、選ぶべき道を探すようにしばらくその場から動けなかった。
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