第49話 感謝の笑顔
公正じゃない──総司のその呟きの重さはそのまま、総司の中でそれがどれだけの重さを持つのかを如実に表していた。
公正であること、正しくあること。 総司の価値観の中にこれより大事な、重みのあることは存在しない。 それこそ、価値観を大事にするという智宏の教えよりもそれは遥かに重く、遥かに強く、頑丈な鎖のように総司に絡み付き、総司を縛り付けている。
約束を守るのも、自分の言葉に責任を持つのも、そうするのが公正で、当たり前のことだと思っている。 正当な理由がない限り、総司はそうすることを自分にも相手にも求め、そうできないことは恥ずかしいことと、常に心に刻んでいる。
だから春が何をしても、それこそ風呂にまで入ってこようと自分の言葉を守って無視を続けたし、自分の言葉に反していない春に、内心の感情はどうあれ怒りをぶつけるようなことはしなかった。
そして、無視することをやめるならそれを前提に決めたこと──春をそばにいさせることもやめにするのが筋になってしまう。 自分の言葉を二つも、正当な理由もなしに翻すのは総司には認められなかった。 一度だけ春を無視するのをやめたのは春が約束を破ろうとするのを止めるという、総司が正当だと思う理由があったからだ。
母親の浮気を一度の過ちならば見逃そうとした。──それまではいい母親だったから。
母親の浮気を暴露した。──いい母親だった事実でも容認できない裏切りだったから。
春たち六人に罵声を浴びせることすらせずに、関係を断つだけにしようとしたこともそうだ。
みんないいやつらで、そこにあったのは悪意ではなく好意で、春には特に世話になっていた。 愚かさで傷付けられ、許せない気持ちをいくら抱えようと、その愚かさだけに目を奪われることも、許せない気持ちに目を曇らせることもしたくなかった。 相手のことを感情に捕らわれず、公正に見ようと
総司は決して優しくない。 優しくないと、自分では思っている。 ただただ正しくあろうとしているだけだと。
責任があるならばそれを糾弾することに躊躇いなどない。 いや、糾弾してこそ公正だと、それが総司の考えだ。
今回のことに春の責任はないと、そう考えている。 春にどんな感情を抱いていようと、責任を押し付けることも、関係のない怒りを向けることもしてはいけない。 それは総司にとって当たり前の話で、だから総司は今日の事件に対して怒りは感じていなかった。
だが、それは春には伝わらない。 言葉を尽くしても伝わらないと思っている──いや、伝わらなかった実例があるから、総司はわざわざ話すつもりがなかった。
「……違う」
だからなおさら、春には総司の気持ちは伝わらない。 総司は間違っていると、その思いにまた何度目かの違うと、否定の言葉が春の口から漏れていた。
「あたしに責任がないわけない……野上先輩がきたのだって……それに、あたしがもっとしっかり断ってれば……だから総司くんは……あたしに怒っていいんだよ! そうしたって何も間違ってなんかいないんだよ!」
庇う理由も優しくする理由もない。 そんなことを思えないくらいの感情を抱いていると、それを思い知らされた。 なのにそれをぶつけようとしない総司は、公正であろうとして感情を無理に押し殺しているんだと、春にはそう感じられた。 それは間違っていると、感じたままに強く吐き出していた。
しかし、総司の心に春の叫びは響かない。 総司にとって間違った考えから出た言葉が響くわけがなかった。
総司もまた、何回目かも知れない、苛立ちを乗せたため息を吐き出しながら同じ言葉を繰り返す。
「それはさっきも言った。 ああ言われて断られたって思わないのは日本人としておかしいだろ。 戸倉に責任はない。 あの先輩と俺の責任だ」
総司には自分の考えを覆す気はなかった。 正しいと、そう思っている考えを覆すのは間違いでしかない。
理性で自分の責任と考える総司と、感情で自分の責任と思う春。 見る角度を変えれば寸分のずれなく重なって見えるのに、実際には重なることも、交わることすらない平行線だ。 どちらかが曲がらない限り、決して理解できない。
「だけど──」
「何度も言わせるな!」
総司の突然の激昂に、リビングの空気が凍り付いた。 さらに言い募ろうとしていた春が、怯えたように顔を引き攣らせ目尻に涙を浮かばせる。
ほんの一瞬──しかし、総司が見せたその怒気は空気を震わせたように感じさせられるほどに凄まじかった。 あの晩、総司が春たちを罵った時よりも激しい怒りに、それを吐き出した総司も大きく呼吸をして肩を上下させている。
怒りを吐き出すように大きく息を吐き、それでも収まり切らず、総司はその言葉を吐き出していた。
「……
不快感と苛立ちを
春にさせられたこと──人に見られながら、勘違いのままにセックスを強要されて、それに深く傷付いた。 総司にとって人生最悪な出来事であるそれよりも最悪なことをさせようとしていると、そう糾弾され、春の胸は押し寄せる後悔に潰されそうだった。
総司にとってはそれほどまでに重いことなのだと、それを理解できずにまた総司に嫌な思いをさせていた。 総司が間違っていると思っても、それを押し付けるべきではなかった。 感情で押し付けるべきではなかった。
総司がどれほどの不快感を感じたか、それは呼び方にも表れていた。
総司はずっと──春を名字で呼ぶようになってからそれで通してきた。 『お前ら』と、洋介たちとまとめて呼ぶことはあっても、春のことを『お前』と、そう呼んだことはない。
親しいようにも、蔑むようにも呼びたくない。 無関係に近い、感情を込めない関係性でありたいと、それを表すように『戸倉』と常に呼んでいた。
そこまで春に理解できるはずもない。 それでも、突然呼び方が変わったことはそれだけの感情の動きがあったのだと、そしてそれがこの状況でいい意味を持つはずがないと、それくらいは感じ取れる。
「ごめ……なさい……」
震える春の口からか細い声が漏れる。 総司に嫌な思いをさせないようにがんばろうと、誓ったはずのことを守れない自分に対して、心底からの嫌悪感を抑えられなかった。
「あたし……また……勝手に……」
嗚咽を上げながら謝る春に、総司はまた苛立ちに囚われる。
春が自分のことを心配していたのも、知らなかったからああ言い張っていたことも分かっている。 野上を殴った時と同じだ。 ちゃんと話せば理解させられたのに感情的になってしまった自分に対して、総司は苛立ちを感じていた。
後悔して、反省しているのも分かっている。 春はその姿を見せている。 反省を活かせずに過ちを繰り返すのはいただけないが、それでも許せないわけではない。
自分に感じている苛立ちを何度か深呼吸して落ち着かせると、総司は春に言い聞かせるように語りかける。
「……戸倉に責任があるなんて思ってない。 だからぶつける怒りもない」
「……うん」
「俺の責任で怪我して、まともに生活もできないのを戸倉に面倒見てもらうんだ。 それに対して礼も言うし、悪いと思ったら謝ることもある。──当たり前だろ?」
「……」
「戸倉のことをどう思っててもそれは関係ない。 人として当たり前のことは守りたい……それだけだ」
「……分かった……ごめん……総司くん」
苛立ちが収まりきったわけではない。 それでも、先の激昂から考えれば驚くほど穏やかに、諭すように話され春は頷く。 自分の納得などどうでもよかった。
総司は自分が総司の世話をすることを認めてくれた。 これからはちゃんと、総司に訊ける。 今もそうだ。 総司はちゃんと話してくれていた。 だから考えて、押し付けたりしないで、総司に訊いていく。 総司に嫌な思いをさせないように、そうすればできる。
「総司くん……ありがとう」
「……別に、礼を言われるようなことはしてない」
「でも……野上先輩からはやっぱり助けてもらったから」
微かに笑みを浮かべて何度も否定したことを繰り返す春に、総司は呆れたような顔を向ける。 学習能力がないのかと、そう言いたげな総司に、しかし春はこれは間違ってないと、そう確信を持っていた。 だからはっきり伝えたかった。
「総司くん……見てくれたから」
どう言おうか、考えていた総司は春の一言で黙り込んでいた。
「あたしのこと……空気と思うって……だったらあたしが何されてたって無視してよかったのに……総司くん、そうしなかったもん」
「……」
「だからさ、総司くんは違うって言うけど、あたしは総司くんに助けられたんだって思う」
総司の隣に腰を下ろし、春は言葉に詰まる総司を真っ直ぐ見る。 総司が野上の手を掴んだ時のことを思い出した春の顔には、その時には驚きが強くて浮かべることができなかった表情が浮かんでいた。
「助けてくれてありがとう、総司くん」
涙を浮かべたまま、泣き笑いのようなおかしな笑顔に、総司は何も言えず、ただ黙って顔を逸らしていた。
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