第48話 感情と信念
渡部が消えて二人きりになり、総司と春にはいつものように沈黙が訪れる。
春が総司の横顔を窺うように見ると、総司はいつもと何も変わらない。 変わっていない。 口を開こうとせずに沈黙したまま、春の方を見ようとはしない。
総司の世話を全てすると決めた。 しかしそれは春が勝手に、総司の意思も確認せずに決めたことだ。
総司は何も言わなかった。 総司が認めてくれたのか、それともいないものとするという決め事を貫いて春の言葉をそもそもなかったものとしているのか、そこまでは春には分からない。
「あ、あの……」
春が声を上げるのと、総司がため息を吐きながらリビングへと足を向けるのは同時だった。 春を無視して歩き出す総司の背中に、春は悲しげにうつ向く。 出端を挫かれた春に再び総司へと声をかける勇気はなかった。 黙って総司の後を追うようにとぼとぼと歩き出す。
ソファに座る総司の隣に同じように腰を下ろし、春は総司の様子を遠慮がちに窺う。 総司はそんな春に気付いていないのか、不機嫌そうな顔をしながらため息を吐いている。 手の怪我がなかったら頭を掻きむしっているだろうと、そう感じるほどに不機嫌そうだ。
「麦茶……」
どうしようもない思いにまたうつ向く春の耳に、総司の小さな呟きが届いた。
突然のことに呆けたように総司へと顔を向けると、総司と目があった。 不機嫌そうな顔で、それでも総司は春へとしっかり顔を向けていた。
「……えっ?」
総司の世話をすると、そう言ったが無視されるのだと、そう思い始めていた春は意外すぎてすぐに理解ができなかった。
間の抜けた声を上げる春に、総司は再度はっきりと、春に向けて言葉を投げる。
「喉が渇いたから麦茶飲ませてくれないか?」
「え……う、うん!」
渡部に麦茶を出す時、総司にも麦茶を出していた。 普通のコップで出された麦茶を今の総司が自分で飲めるわけもなく、そのまま残っていたそれを慌ててつかむと、総司の口許に当ててこぼれないよう気を付けて傾ける。
「……ありがとう」
数口、啜るようにして麦茶を飲んだ総司が春に礼を言う。 一瞬、驚きに目を見開いた春が、しかし暗い顔でうつ向いていた。
「違うよ、総司くん……」
嬉しかった。 それでも違う。 こんなことは春がしてしまったこと、春がしてもらったことを考えれば礼を言われるようなことではない。
「総司くんがそんな怪我したのだってあたしのせいで……あたしを助けてくれたからで……何したってお礼なんか──」
「……また勘違いしてないか?」
呆れたような総司の声。 あの時と同じだ。 総司が勘違いしているから春を側に置いてくれるのだと、それを否定された時と同じ──春の思いが完全な思い違いだと、総司はそう考えているのだと、それが春にも伝わっていた。
「でも……総司くん、あたしのこと……野上先輩から──」
「……戸倉を助ける理由なんかあるわけないだろ」
「……そうだけど……それなのに助けてもらって──」
「人の話をまともに聞かないで、勝手に解釈して、無理やりに人にそういうことをさせた」
静かな言葉──しかし、春は総司のその言葉に身を竦めていた。 それは野上がしようとしたことで、自分が犯した過ちだ。
「絶対に許せない……理由は分かるよな?」
静かで、だが穏やかではない。 燃え盛ることはなくとも燻り続ける怒りの込められた、傷付けることを望んでいるような鋭い棘のある言葉──春のことを許していない、許せないと、総司の思いに春はますます身を縮こまらせる。
「戸倉を助ける気なんかなかった。 許せないことをしようとしてるバカを殴っただけだ。 だから──」
その言葉を口にしようとして、一度、総司は言葉を切り口を閉じる。 葛藤があった。 当たり前のことで、総司も確かにそう考えていた。 しかし総司の感情はそれを否定しようとしている。
春を許せない、その気持ちは僅かも薄まっていない。 全て春のせいだと、感情は怒鳴り散らそうとしている。 ぶつける先を探している。
それでも、今回のことは話が違う。 春を許せなくても一緒にしてはいけない。
見誤りたくない。 だから総司ははっきりと、自分の感情をねじ伏せるために、自分の信念を改めて心に刻むように、その言葉を口にしていた。
「……戸倉は悪くない。 悪いのはあのバカと殴った俺だよ」
呆けた声すら出ず、春は口を開けたまま固まっていた。 自分が犯した過ちを許せないと、そう
「違う……違うよ、総司くん!」
春は思わず立ち上がり、否定の言葉をさっきよりも強く吐き出していた。
「全部あたしの……あたしのせいで! あたしが悪いから……バカだったから! だから先輩がきて……あんなことになって……総司くんはそんな──」
何もしていない、そんな自分が総司に責められないのが春にはつらかった。
何も悪くない、悪いわけがない総司が春に責任を求めないことが心に刺さった。
悪いのは自分なのだから自分を責めてほしい──総司に総司自身を責めてなどほしくなかった。
「もう二度とする気はなかったんだろ?」
堪えきれずに吐露する春に対して、総司は落ち着いていた。 投げたのは、分かりきっていることを確認する淡々とした言葉だ。
「……うん」
「だから断ってたんだよな?」
「……うん」
「あいつと約束してて、それを忘れてたわけでもないんだろ?」
「……うん」
「だったら、どこに戸倉の責任があるんだよ?」
総司の
そしてそれは、春にとっては向けられる
「だって……あたしが……総司くんに汚い女って……そう思われるようなこと……してなかったら……」
「そんなこと言うならそもそも俺がここにこなけりゃこんなことにはならなかった。 元母親の浮気を父さんに教えて離婚の引き金を引いた俺の責任になるだろ」
「ち、違う──」
「それとも浮気した元母親の責任か? 単身赴任を受け入れた父さんの責任か? 命令した会社の責任か?」
「そんなの全然──」
「関係あるはずがない──戸倉のことも同じだ」
戸倉は悪くない。──そう繰り返す総司に、春は困惑していた。 いや、困惑を通り越して、混乱しきっていた。
総司を理解できるかも知れないと、確かに思えた。 だが、総司の話を聞くほどに、総司への理解が遠のいていくのを感じた。
「……どうしてなの?」
うつ向いた春が漏らした小さな声に、総司は無言でため息を吐く。 春への許せない気持ちを強く意識しているところに言い募られ、総司の不機嫌さは増していた。
それを感じながら、それでも春は言わずにいられなかった。
「あたしのこと……許せるわけないし……怒ってて……嫌いでしょ? なのに……何であたしに怒らないの?」
総司が自分にどんな感情を抱いているか、分かってもいたしそれを改めて言葉で突き付けられた。 罵られて、殴られて、怒りを思い切りぶつけられて当たり前だと思う。
春が以前に野上と性行為をしていたせいで野上がやってきた──それを関係ないなどと思えるはずがない。
総司の考えが理解できない──だから知りたいと、その気持ちを春はぶつけていた。 そしてそれは、総司がぶつけたくない、正しい考えに反する
「……許せない」
ゆっくり、大きく呼吸をしながら総司は下を向く。 春を見たくなかった。 ぶつけるべきでない感情を少しでも刺激しないようにして──それでも抑えきれなかった。
「あんなことされて……生き恥晒させられて……あいつら以外にも何人もと平然とセックスしてた汚い女なんか嫌悪感しか湧かない」
押し殺し切れない怒りの込められた罵声に、春の目から涙が溢れていた。 汚い女とそれまで以上に思われているのだと、その事実が春の心を抉る。 しかしそれは思われて当然のことで、受けて当たり前の罵声だ。 そして何より、春が知りたかった総司の本心だった。
耳を塞ぎたい、その場から逃げたい──その思いを堪えて春は黙って総司の言葉を受け止める。
「戸倉を庇うつもりも、助けるつもりもない。 そんなことしてやろうなんて思えるわけないだろ」
許せない理由がある。 怒る理由がある。 嫌う理由がある。
助ける理由はない。 庇う理由もない。 優しくする理由もない。
抑えきれずに僅かに漏れ出ただけの総司の感情──本当に僅かでしかないが、それでも総司が春をどう思っているか、ただ言葉で突き付けられるよりも遥かに深く春は思い知らされる。
分かっていたはずで、しかし決してそれを表すことのなかった総司にはっきりと突き付けられ、春は涙を流しながら自分が総司のことをどれだけ分かっていなかったのか、思い知った。
理解していなくて、勘違いして──心のどこかでほんの微かにでも期待してしまっていた。 総司がこんな自分にも優しさを向けてくれているのだと。
涙を溢す春を見ず、総司は深く息を吐き出す。 ほんの少し、漏れ出た感情を吐き出しただけで、総司の心は落ち着きを取り戻していた。
春に抱いて当然の感情を、それでも今、理由もなく吐き出す間違いを犯したことを後悔しながら、総司は自分に言い聞かせるように、自分が正しいとする
「だからって……俺が戸倉をどう思ってたって今回のことで戸倉を責めるのは間違ってるだろ。 戸倉の責任じゃないのに戸倉のせいにするなんて──」
「そんなのは
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