第45話 名誉の負傷
沈黙が流れる。 誰も、何も言えない。 身動きも取れない。 目の前で起きた出来事はそれほど衝撃的だった。
「そ……じ……くん?」
のろのろと顔を上げた春が、壁にぶつかり倒れる野上を見て、総司へと顔を向ける。
何が起きたのか──見ていなかった春には分からない。 見ていたとしても理解などできなかっただろう。 自分と同じ思いを味わえと、そう言っていた総司が春を助けるなど、それもそのために人を殴るなど信じられなかった。
それでも、野上が完全に気を失って倒れているのを見て、その理由を考えて、出てくる答えは一つしかない。
「ぐぅっ──!!」
わけの分からないまま涙が溢れそうになった春の前で、沈黙が打ち破られた。 総司が苦鳴を上げて、右拳を抱え込む。
「総司くん!」
脂汗を流しながら顔を歪める総司に春がすがり付くと、突然の事態に固まっていた先輩男子も弾かれたように動いていた。
「お前! 何してんだ!?」
友人が殴られたことに激昂した木村が総司を思い切り突き飛ばす。 右拳の痛みに必死に耐える総司に、受け身を取ろうなどと考える余裕もなかった。 右拳を庇うように、体を支えようと咄嗟に床に突いた左手にも激痛が走り悲鳴が上がる。
「総司くん! 大丈夫!?」
答える余裕もなく呻く総司の手を見て、春は言葉を失っていた。 総司の右手の甲は腫れ上がり変色している。 骨折しているのはほぼ間違いないと、素人目ですら分かるほどにひどかった。
突き飛ばしただけでは気が済まず、蹲る総司に殴りかかろうとする木村を洋介が慌てて羽交い締めにしていた。
「須原っ! 離せ、てめぇ! こいつ、悟を──」
「木村先輩! 野上先輩が悪いんじゃないですか! 春は嫌だって──」
「うるせぇ!──進一! そいつやっちまえ!」
洋介に羽交い締めにされて暴れながら、木村が野上の様子を見ていた遠野に総司をただでおくなと怒鳴り付ける。 それに応えて総司に駆け寄ろうとする遠野に、そうはさせじと賢也と優太が飛び付いて邪魔をする。
「由美! 先生呼んでこい! それと救急車!」
「わ、分かった!」
由美が騒然とする教室を飛び出し、やがて騒ぎは学校全体に広がった。 複数の教師が駆けつけ、まだ残っていた一年と三年も何事かと二年の教室にやってくる。
苦しそうな総司と泣きながら総司にすがり付く春。 倒れて気絶した野上。 洋介と木村、賢也と優太と遠野が揉み合って騒いでいるその混沌とした有り様に、教師がそれぞれに分かれて対応をする。 野次馬の生徒たちはすぐに追い払われた。
程なく駆け付けた救急車に総司と野上は運ばれていき、終業式を終えて静寂に包まれるはずの学校は大騒ぎになった。
追い払われた野次馬に事件の詳細は知らされない。 事件があったと、それだけが知らされ、一つの注意が全校生徒に為されることになる。
真相を知らされなかったことで、野次馬の生徒たちはこの事件について想像を広げていった。 この時の光景と降された処分、それにその注意を基に、生徒の間ではある噂が流れることになる。
学校から大分離れた総合病院の診察室で、総司は医師と向かい合って座っていた。 隣には心配そうに春が付き添っている。
学校側は事情の聞き取りのために春は残らせようとしたが、当事者の総司と野上への聞き取りはどうせ後日になるのだし、春も落ち着いて聞き取りができる状態ではなさそうだからと、渡部がそう進言して総司に付き添うことを許された。
総司は春の方を見もしない。 それはいつもの態度で、つい先ほど暴露された春の汚ならしい性体験に何かを感じてるようには見えなかった。 少なくともそばにいることをまだ、変わらずに許している。
鎮痛剤を射たれ多少は痛みも落ち着いたが、鈍い痛みは未だに襲ってくる。 骨折しているんだろうと想像は着く。 それがどれほどのものなのか、骨折など初めての総司には分からない。
レントゲン写真を見て、年配の医師は難しい顔をしている。
「君ねぇ……どんな力で殴ったんだい?」
呆れたような、信じられないような口調で言う医師は、質問というわけでもなく独り言だったのかそのまま続ける。
「人を殴ったのも初めてなんじゃないかい? まったく……こんなのぼくも初めて見るよ」
独りごちながら、医師は総司の右手のレントゲン写真を指で指して説明していく。
「まずね、この指の付け根の関節の手首側が折れてるの、分かる? 中手骨剄部骨折──いわゆるボクサー骨折ってやつでね。 小指と薬指はよくあるけど中指まで揃ってっていうのはなかなかないねぇ。 おまけに中指基節骨と環指基節骨も折れてると……骨が脆いわけでもないのに普通はそうないよ」
医師から語られる総司の骨折の具合は相当にひどかった。 総司にとって人を殴るのは初めての経験だ。 鍛えられてもいない拳で、怒りに任せて手加減などなく、下手くそな殴り方をして、そのくせ体重が綺麗に乗ってしまった。 おまけに顔面を殴るつもりだったのに冷静さを失っていたため狙いがずれ、当たったのは拳の防御にも使われる頑丈な額だ。 骨折するのも当たり前だろう。
「それと君、親指を握り込んでいたんじゃないかい? 母指MP関節……まあ親指の根本の関節だけどここも靭帯をかなり傷めてるね。──まあ幸いなことに基節骨の骨折は綺麗なもんだし、中手骨頸部も衝撃が分散されたのか転位は大きくはない。 これが小指と薬指だけだったらどうだったかは分からないけどね。 手術しなくても整復とギプス固定でいけるよ。 ただしばらくは右手は完全に使えないね」
医師の診断に春は言葉を失った。 また自分のせいで総司がひどい目に遭ったと、自分なんかを守ったためにそうさせてしまったと、涙が出そうだった。
それが勘違いだと総司に否定されるなど思いもしない。 春たちを、春たちがしたことを許せなくて、だからやったなどと想像できるはずがなかった。 ましてや、だから春は悪くないと言われるなど夢にも思わない。
春と対照的にショックを受けた様子もない総司に、医師は左手のレントゲン写真を示して説明を続ける。
「こっちは骨はまあ大丈夫だけど……かなり強く手をついたみたいだね。 親指、人差し指、中指の靭帯をひどく傷めてる。 薬指と小指は無事だけど手首もひどく捻挫しているし、テーピングでガチガチに固めるからこっちもまともに使えないね」
「……どれくらいの間ですか?」
総司の質問に医師はカルテを見て、軽く考え込みながら頬をかく。
「まあ指の骨は細い分、治りも早いからね。 おまけに君は若いし、基節骨は二週間もすればある程度くっつくだろう。 ただ中手骨頸部の方は1ヶ月程度、左手靭帯もその程度は固定してそれからリハビリに一、二ヶ月だね。 最近はもっといいやり方もあるんだがこんな田舎じゃあそんな技術も設備もなくて……すまないね」
1ヶ月は日常生活もままならない。 そう聞かされ総司はため息を吐く。 この後の展開がどうなるかなど、想像するのは難しくもない。 むしろ分からない方がおかしいだろう。
「恥ずかしいかも知れないがお母さんに介護してもらうんだね。 お母さんも仕事で忙しくて難しいなら訪問介護をお願いするかだけど……この辺だと難しいかな」
カルテの住所を見て、医師は難しい顔をする。 介護士の人材不足はどこでも問題となっているが、総司の住んでいる田舎町も介護士は不足している。
「まあ、お母さんがいない時間はご近所の方にお願いできるなら──」
「あたしがやります!」
医師の言葉を遮り、春が立ち上がり宣言していた。
「総司くん……あたしのせいでこんなことになって……だから……あたしが総司くんのこと全部します!」
思った通りの展開に、総司は軽くため息を吐く。 元々、身の回りのことを全てさせると、桜がそう約束して春は総司の家に、総司のそばにいる。 勘違いして責任を感じていなくても、そう言い出すことは目に見えていた。
もちろん、それを拒絶することもできる。 日常生活がまともに送れないなら入院も頼めばできなくはないだろう。
しかし、智宏は見舞いにくることもままならない状況だ。 こんな怪我をしただけでもまた心労をかけてしまう。 入院して見舞いにも行けないなどと、さらに余計な心労をかけることは避けたかった。
介護を頼めるならばそれが一番ありがたい。 春と二人きりでいる重苦しさも少しは和らぐだろう。 だが、春との異常な空気に無関係の第三者が入ってどう思われるか。 詮索されないとしても興味を抱かれるのは間違いない。 それには抵抗がある。
一つの問題を無視するなら春に世話を頼むのが最も無難な選択と、総司は諦め混じりに受け入れていた。
春の勢いにきょとんとした医師は、納得したように頷きながら総司に柔らかな笑みを向けていた。
「彼女を守ってそんな怪我をしたわけだね。 君もなかなかの男だし健気ないい彼女じゃあないか」
微笑ましそうな医師に、総司は別段反駁はしなかった。 知り合いでもない医師にどう思われようと構わないし、説明したいことでもない。
「そういうことなら警察に通報はしないでおこう。 ま、届出義務もないし、子供の喧嘩でいちいち通報していたらきりがないからねぇ。 とは言え相手が被害届を出したらそれはどうしようもないんだが、ま、その辺は相手と上手く話を着けることだね」
医師の忠告に総司はゆっくり、大きく頷く。 覚悟はしていた。 怒りに任せて殴ったが衝動的に、弾みで殴ってしまったわけではない。 許せない思いに罪になることも覚悟した上で殴った。 自分にとって最も許せないことを目の前でしようとするのを放置はできなかった。
「じゃあ施術の準備をするから少し待っててもらえるかな? なに、そんなにはかからないよ」
医師に促されて、総司は診察室を出る。 総司に付き従うように後に続く春の表情は暗い。 総司の力になれる、役に立てる。 しかし、その原因が自分にあると、それを思うと素直に嬉しいなどと思えはしなかった。
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