第39話 約束の再確認

 鉛筆をノートに走らせる音が止まった。 うつ向いた春には見えない。 だが、春を無視すると言った総司が無視することをやめて反応したのは感じ取れた。

 総司の顔を見れない。 見る勇気が湧かなかった。 総司が自分に向けてくれるもの──傷付けられて、それをした自分に向けてくれる優しさに似た感情が全て総司の思い違いによるものだと、それを伝えてどんな反応をされるか、怖かった。

 しかし、総司が自分のために苦しむ道を選んだのがそのせいだと、自分が総司のために色々していたように総司が勘違いしていると、そう思った春は我慢ができなかった。 それは間違いなのに、それで総司を苦しめていると思うと止まらなかった。


「あたし……総司くんのためになんて何一つしてなかった……自分のためにしてて……そんなあたしのことなんて……」


 総司と一緒にいるのが楽しくて、総司を好きだったから、だからそうしていたこと。

 最初は近所の友達ができたのが嬉しくて、できることをしてあげたいと思った。 それは確か──それがいつの間にか変わっていた。

 優しくて、真面目で、大人しくて、落ち着いていて、口数がそんなに多いわけではないけど楽しそうに話を聞いてくれて、春から聞いたことには色んな言葉を返してくれる。 そんな総司と接していて、自覚したのは間違いを犯した後だが、惹かれていたのは多分ほとんど最初から。

 総司に何かしてあげていたのではない。 自分が総司と一緒にいたかった。 そうなっていたのは間違いないと、春はそのくらいに自分の気持ちを自覚して、理解していた。


 総司のためではなく自分のためにしていたこと。 自分には本当に、総司にこんな風にしてもらえる資格も、価値もない。 こんな風にしてもらえるようなことを何一つしていない。

 傷付けて、苦しめて、迷惑をかけて、今日もそうだ。 また嫌な思いをさせた。


「ごめんね……総司くん……」


 申し訳なさと情けなさに春は涙を流していた。 今、総司が苦しんでいるのも総司が勘違いしているから。 謝りたくて、伝えたくて、うつ向きながら春は言葉を絞り出す。


「あたし……本当にバカで……総司くんに嫌な思い……ばっか……だから……もうあたしのことなんて──」

「……勝手な勘違いするなよ」


 呆れたような、静かな声。 この家にきて最初に話して以来、決して自分に向けられることのなかった声に、春は顔を上げる。

 総司は春を真っ直ぐ見ていた。 明るい感情はない。 それでも、その目は春を無視することなく、確かに春に向けられていた。


 無視すると決めた。 相手にする気はない。 どうあろうとそれを曲げる気はない。 そんな総司だから今の春を無視することはできなかった。

 約束したこと、決めたことを破ろうと言うのならそれは絶対に許せない。 黙っている気はなかった。


他人ひとの言葉を真っ直ぐ受け止めないで、他人の気持ちを勝手に曲解して、それで自分が何をしでかしたか分かってるんだよな?」

「うん……」

「だったら何でまた同じことしようとしてるんだよ?」


 本当に反省してるのか──取り返しの付かない罪を犯した時と同じことをしていると突き付けられ項垂れる春に、総司は心底から呆れたようにため息を吐く。


「俺は何て言ってそばにいるように言った?」

「……総司くんが苦しんでる間はあたしも一緒に苦しめって……逃げるなって」

「理由は?」

「……あたしが総司くんにしたことを忘れてたらいい気分はしないから」

「それがどうしたら戸倉が俺に何をしてたとかそんな話になるんだよ?」


 過ちを犯したことを反省して言葉をそのままに受け取ったならそもそもそんな話は出てこないだろうと、どう考えたらそんな話が出てくるんだと、総司に詰問されて春はうつ向きながらしばし考え込み──


「総司くん……おかしいくらいに優しいから……何でこんなに優しいのかって考えて……」


 総司から見て自分がおかしかったことも、まだおかしいことも分かっている。 その自分から見ても、総司の対応が普通ならあり得ないものだと思わざるを得ない。 だから考えずにいられなかった。 どんな理由があってそうしているのか。

 そうして考えて、それで出した答えを総司は勘違いだと、勘違いをしてるのは春の方だと否定する。


「……戸倉を無視してる俺のどこが優しいんだよ?」

「だって……あんなことしたあたしのこと……普通ならそばになんて──」

「戸倉が苦しんでるんだって確認したい……そう言ったろ?」

「でも……総司くんに嫌な思いばっかさせてるのに……追い出されたっておかしくないのに……」


 土曜日から自分がいることで総司がどれだけ苦しんだか、春はそれを思い返す。 何度も吐いていたし、ずっと機嫌が悪いことも分からないはずはなかった。

 昼休みのことも思い出される。 話していいことなのか、躊躇いはしたが結局話してしまい、挙げ句にそれを総司に聞かれた。 総司は何も言わなかったが、あの表情を見て総司がどんな思いでいたか、それが分からないほどバカではない。

 もしも自分だったら耐えられない。 そんな思いに縮こまる春に、総司はまた長く深いため息を吐き出す。


「……俺のそばで苦しむことから逃げるな。 それ以外は自由にしていい。 そう約束した……そうだよな?」

「……うん」

「約束を破らない限り、俺は戸倉を無視し続けるし追い出したりはしない。 約束したんだから当たり前の話だ」


 春を無視すると決めて、ずっと言いたいことの一つも決して口にしなかった総司は、やはり相当な鬱憤が溜まっていたのだろう。 無視できないことを言い出した春を無視する必要はなく、いい機会だからと言葉を重ねていく。


「何も考えずに言葉をそのまま受け止めろとは言わない。 だけどそこだけは間違えるなよ。 考えるなら何をしたら俺が嫌な気分になるか、違うか?」

「うん……でも……あたし……総司くんの気持ちが分からなくて……」

「戸倉だってちゃんと俺の気持ちが分かった時はあっただろ?」


 総司の考えが理解できない──だからどうすればいいのか分からなくて嫌な気持ちにさせてしまうし、またさせてしまうだろう。

 そんな不安を抱える春に、総司の言葉はあまりに思いがけないもの──春にとっては自分が犯した過ち以来、初めて総司から肯定されるもので、もはやあり得ないと思っていたことが不意に起こり頭が真っ白になっていた。


「あの晩のこと……覚えてるか?」


 あの晩──総司が内心をぶちまけた時のことと、それはすぐに分かった。 そして、あの時に一度、総司から罵倒されなかったことが春の脳裏に甦った。


『……最後の謝罪だけは受け入れるよ』


 総司は姿を消す前にそう言い残した。 春が最後に総司に謝ったこと──


「戸倉たちを罵って、俺が嫌な気持ちになったって、俺が何も言わなくても分かったんだろ?」


 それまで接してきた総司は優しい人で、誰かをひどく言うことも好まないと、そう思っていた。 思い込みで的外れかも知れないが、そう思って口にしただけ。 考えてちゃんと理解できていたかと言えば決してそうではない。

 しかし、それを間違ってなかったと、春はちゃんと総司のことを見て、感覚的にでも理解していたんだと、他でもない総司に肯定されて春はまたうつ向いていた。 溢れる涙はあれ以来初めての、嬉しさから溢れる涙だ。


 自分が仕出かしたこと、総司を苦しめ傷付けていること、それらへの後悔や悲哀、苦悩に満たされ苛まれ続けていた心に唐突に訪れた優しさは、春の人生の中で経験がないくらいの感動をもたらしていた。


「俺のそばで苦しむことから逃げるな……二度は言わないからな」

「…………うん」

「自由にしろって言ったんだから何をしたって構わないし戸倉に構うつもりもない。 俺を嫌な気持ちにさせたくないならどうすればいいのか、それは自分で考えろ」

「うん……ごめん、総司くん……あたし……がんばるから……」


 嗚咽を堪えながら春が頷くと、総司は話は終わりと言うようにまたノートに鉛筆を走らせる。 約束を破らないと分かったならもう話すことはない。 これまで通りに無視をする。

 総司の態度からそれを感じ取ると、春は顔を押さえながら立ち上がり洗面所に向かう。 顔を洗って帰ってきた春は無言で座ると総司と同じように勉強を始めていた。 春を無視して勉強に集中する総司は気付かなかったが、春の顔には以前のような元気がほんの少しだが戻っていた。


 総司のことを理解できるかも知れない。

 総司を苦しめずに済むようになるかも知れない。

 自分が総司に与えた傷を癒せるかも知れない。

 まだ『知れない』ばかりだが、春の心は総司から与えられた希望で満たされていた。

 無視されてできることは多くない。 それでも、総司に嫌な思いをさせないようにすることはきっと、ちゃんと考えればできるはずだ。 そうできるようがんばろうと、精一杯がんばろうと、春は心に固く誓っていた。



 この晩、総司は自分の失策に気付いたが後の祭だった。 春を無視すると決めてしまったせいで話すことができなかったことを話して聞かせるいい機会だったのにと、後悔したところでどうにもならない。 無視することをやめる口実も、もう春は与えてはくれないだろう。

 そばにいることから逃げるなと、何をするのも自由だと、それを改めて強調したせいでこれ・・については春の中で否定されなかった。


──一緒に湯船に浸かりながら、タオルで体を隠す春をそれでも直視できずに目を逸らしながら、総司の心は自分の間抜けさ加減に対する不機嫌さでいっぱいになっていた。

 そして春も、総司のそばにいることで総司を苦しめ不愉快にさせてしまうことは避けられないんだと、その事実にまた暗い気分になってしまった。

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