第38話 気付きと焦燥

 家に帰ってからずっと、総司はベッドに横になっていた。 春は家事をしていて部屋にいない。

 土曜日から総司は部屋に閉じ籠ることをしなかった。 春を意識してないと自分に言い聞かせるようにリビングにいて、ドアも開け放して春の存在を感じられるようにしていた。


 春が来て以来、春の存在を感じないようにこうしているのは初めてのことだ。 こうでもしていないと春に八つ当たりをしそうだった。

 行動に出なくても、ただ感情を向けることもしたくない。 春に責任がないことで春に怒りを向ける、そんなことはしたくなかった。


 春に怒りを向ける理由はある。 進路指導室から戻ってみたら夢中で話していたことについてだ。

 好きでしたわけではない。 情欲など感じるわけもなく、ただ一緒に入っただけ。 それでも、何を話しているんだと怒りと羞恥を感じて、無視すると決めていた春を睨み付けてしまった。


 それだけでも、自分が決めたことを破ったと総司は苛立ちを感じている。 帰り道で謝ってきたがそれで済む問題ではないし、こうしてまた、春を無視できないでいる自分になおさら苛立ってしまう。

 だが、そのことで春に怒りを向けると、今はそこに自分でも分からない怒りが混じってしまいそうだった。 総司は春に対する怒りを堪えるしかなく、自分を冷静に見ることもできないくらいに心を掻き乱されるばかりだ。


 昨日の日曜日は春と二人、一言も話さずに鬱々と過ごした。

 覚悟はしていたつもりだ。 その結果がどうであっても逃げるつもりはなかった。 しかし、思っていた以上の重苦しさは精神的に相当きつく、それくらいならと試しに学校に行ってみたわけだが気が晴れるどころではなかった。


 総司はゆっくりと息を吐き出し、ささくれた心を落ち着かせようとしながら考える。 何がそんなに気に障ったのか──総司には分からなかった。

 仲直りしたいと、やり直したいんだと、そう切々と訴える優太の自分の心境を考えない無神経さに怒りを感じた──そうではない。


 関わりたくないと言うのに関わろうとすることに何も感じないわけではないが、怒りを感じるほどではなかった。 なのに、なぜかどうしようもなく苛立ちが湧いてきた。

 何に対してかはっきりとしない、しかし優太にでも、他の五人にでも、春にでもない、それははっきりとしている苛立ち。


 はっきりしないからこそ、消化できない苛立ちを誰かにぶつけたくなかった。 そうしないように、総司は教室を飛び出した。

 簡単な答えだが総司には分からない。 無意識に目を逸らしている総司には見えず、苛立たしげに頭を掻きむしる。


 このままではダメだ。 帰ってから着替えて、少し休んで春は家事を始めた。 掃除、洗濯物の整理、風呂の用意──夕飯の準備も、総司が食べないのは分かっているのにしっかりやっているだろう。

 とは言え、もう二時間近く経っている。 そろそろ家事も終わって春はまた自分のそばにくる。


 風呂のことを話していたのを聞かれて気まずいだろうが、だからこそ、今の春は自分のそばにいようとするはずだ。 自分のそばで苦しむことから逃げないと、自分と同じように意固地になっている。


 戻ってきた春にこの苛立ちを向けたくない。 しかし、うじうじ考え込んでもそれまでに苛立ちが収まるとは総司には思えなかった。


──確かゴルフクラブがあったよな──


 何かこの苛立ちを発散させる方法はないか──そう考えていた総司は、智宏が使っているゴルフクラブを物置にしまったのをふと思い出した。

 別にやったことがあるわけではない。 ゴルフクラブでなくても、バットでも木刀でもよかった。 素振りでもしてとりあえず体を動かせば少しは落ち着くかも知れないし、試しにやってみるかと総司は体を起こす。


 動きやすい服に着替えようとクローゼットに向かう総司の耳に、電話が鳴る音が聞こえた。 スマホではなく、引っ越してから初めて聞く固定電話の音だ。

 一体どこからの電話かと思いながら、総司はドアを開け──


「は、はい! とく──いえ、し、柴谷です」


 妙に噛みながら電話に出る春に、総司は思わず渋面になる。 おそらくだが、柴谷を名乗ることで『新婚みたい』と、またそんなことを思ったのだろう。 別にそれくらいで責めるつもりはないが、ため息は抑えられない。


「先生? はい……総司くんに……ちょっと待ってもらえますか?」


 受話器を耳から離すと春は総司の部屋を向いて、総司と目が合う。


「そ──」


 開きかけた口を閉じて、春は困ったように総司と受話器を交互に見る。 総司に代わらないといけないのに総司には声をかけられないしどうしようと悩んでいるのだろう。


 またため息を吐くと、総司は春のところに向かい受話器を春の手から奪い取る。 電話が鳴っていたから出ただけ。 春に呼ばれたわけでもないから問題ない。 ハンズフリーボタンを押したのも別に意味があるわけではなく、指が当たってしまっただけだ。


「もしもし、柴谷です」

『おぉ、柴谷か。 調子はどうだ?』

「……色んな意味でよくはないですよ」


 特に精神状態がよろしくない。 誰かにぶつける気はないがそれを吐き出すくらいは許されるだろうと、総司は率直に口に出していた。 渡部を信頼できると、昼休みに話して感じたことがそうさせていたのかも知れない。

 電話越しに渡部が苦笑したような雰囲気が伝わってきた。


『まあそうだろうな。 学校の方はどうする? まだしばらく休むのか?』

「気分次第ですけど……何かありますか?」

『ああ。 休むのはいいとして来週には期末テストだろ? それくらいはきた方がいいと思うんだがお前はどうするかと思ったんでな』


 言われて総司は初めて気付いた。 そう言えば今日から7月だった。 10日前後に期末テストでその後、試験休みから夏休みに突入する流れはここでも変わらない。


 休み続けているのだから確かにテストくらいは受けた方がいいだろう。 しかしこれまで休んだ分でも厳しいのに、さらにこれから試験まで休むとなるとろくな点数は取れないだろうと、総司はその事実に頭を抱える。


 教科書で勉強するだけでは限界がある。 それだけで足りるなら塾や学校の勉強など意味はない。

 あまり行きたくはないが、学校に行ってこれから試験までの間だけでもしっかり授業を受けるか。 そう悩む総司に渡部は軽い調子で続ける。


『まあ勉強の方は大分遅れてるしちょっとは準備してやろうと思ってな。 テストまでこないならそれなりに考えないといけないし、明日の朝にはどうするか連絡くれるか? とりあえず試験範囲だけ教えるから今日のとこは自分なりに勉強しとけ』


 渡部の告げたテスト範囲をメモすると電話を切り、総司は深くため息を吐く。

 率直に言って、事件から十日間、一切勉強をしていなかった。 そんな気分になどなれなかったのだから仕方がない。 少しでも遅れを取り戻すためには体など動かしている場合ではなかった。


 総司は部屋に戻ると教科書とノート、それにタブレットを持ってダイニングに行く。 自室の机にはパソコンがあって勉強しづらい。

 数学の教科書を開くと、説明を見ながら例題を解いていく。 まずは授業を受けていた範囲から始めると普通に解くことができた。


 数学が得意と胸を張れるほどではないが、暗記系の科目よりは得意と言える。 公式を覚えてそれをいかに当てはめるか、パズルゲームのような感覚でできる好きな科目だ。


 何問か解いていると、春も教科書とノートを持ってダイニングにやってきた。 総司の隣と向かいの席を考え込むようにしながら交互に見て、結局、春は総司の左斜め前に腰を下ろす。


 ちらっと、総司が何を勉強しているのか見ると同じように数学の教科書を手元に置く。 好きな教科を勉強すればいいのにわざわざ総司と同じ教科を選んだのは、総司と近くあろうとする気持ちの表れだろうか。

 教科書を開きかけて、春は難しい顔で固まる。


──試験範囲……どこだっけ?──


 試験範囲をメモしていたのは総司で、春はしていなかった。 そのメモは当然、総司が持っている。

 一度聞いただけで覚えられるほど記憶力のいい人間などそうはいない。 見せてもらえないかと、そう声をかけたいが総司は春を相手にしないと言っている。


 どうしようか困って遠慮がちに総司に向けた春の目に、テーブルに置かれたメモが映った。

 テーブルの真ん中、総司からすると左前に置かれたメモ──テスト範囲を確認するために置いたのだとすると少し不自然だ。 自分が確認するだけなら手前側に置くだろう。


 春も勉強しにくるだろうと、試験範囲のメモが必要になるだろうと、それでそこに置いたのが窺えた。

 春のためにしたことではない。 春に話しかけられるのが嫌でそうした。 それでも結局、春が試験範囲を確認できるようにと、春に気を遣っていたことにはなる。


「……ちょっと見せてね」


 ノートに鉛筆を走らせる総司は無言で顔も上げない。 無視されて、だが、気遣われているのも確かだ。

 本当に、春には総司のことが分からない。

 教科書を開いて問題を見ながら、春の頭の中は数学の問題などより遥かに難しい難問でいっぱいだった。


 どうしてこんな自分に気を遣ってくれるのか。

 どうしてこんな自分をそばにいさせてくれるのか。

 どうしてこんな自分を怒らないのか。

 自分にそうしてもらえる資格もなければ、総司にもそうする理由はないはずだ。


 春が聞きたいと言わなかったら、総司は罵声の一つも浴びせることはなかった。 あれだけの気持ちを、傷を抱えながら、それを与えた相手に何も言わないで済まそうだなんて、そんなことがどうしてできるのか春には本当に分からない。


 世話になったからと、総司はそう言っていた。 それは総司に気遣ってもらえる、そんな価値のあることだったろうか。

 もしも総司がそのことを忘れないでいてくれて、それでこうして苦しむ道を選んでくれているのだとしたら──そう考えた春はたまらず口走っていた。


「総司くん……あたしのこと……気にしないで……出てけって……言って」

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