第35話 フラッシュバック

──本当にあり得ない。──


 苛立たしい気持ちを紛らわせるようにまた寝返りを打ちながら、総司は内心で一人ごつ。

 なぜ、春の裸を見てこちらまで見られなくてはいけないのか。

 洋介たちをあれだけ罵った総司だ。 そういう相手とそういう状況でなければ見られたくないと思っている。 そして春はそういう相手ではない。


 限界で隠す余裕もなく立ち上がった自分も悪かったが、何で春まで立ち上がって、自分の体を隠そうともしないで、人のそれをまじまじと見てるんだと、物申したい気分でいっぱいだ。

 動揺して風呂場を飛び出して脱衣所をかなり水浸しにしてしまったが、それは不可抗力だろう。

 反応していなかったのがせめてもの救いだった。 総司はふとそのことを考える。


──興奮なんかするわけないけど……──


 心配したような吐き気を感じることもなかった。 あの時のことを思い出すこともなかった。

 料理を見て吐いたくらいなのに、あんなものを見て色んな意味で何の反応もしなかった自分に、総司は疑問を覚える。

 ただ、その答えは出そうにない。 吐き気を感じる余裕もないくらいに衝撃的だったのかと、そう想像するくらいしかできなかった。

 何しろ生で見たのは初めてのことだ。 性欲の対象にならないとかそういう問題じゃなしに気まずさもあれば緊張もする。


──でもまあ……吐かなくて済むのは助かるな──


 何しろこれから毎晩起こることだ。 その度に吐いていては総司の身が保たないし問題だ。

 問題にならなくてよかったと安堵のため息を吐き、総司はもう寝ようと枕に頭を沈める。


──……いや、大問題だろ!──


 五秒ほどして、安心しかけた自分に思わずツッコミを入れながら飛び起きてしまった。

 勢いよく身を起こした総司に春がびくっと反応する。


「あ、ご──」


 謝りかけて口をつぐみながら、総司は苛立たしげに頭を掻きむしって乱暴に体を投げ出す。 春を無視しきれていない自分に対して苛立ちを抑えられなかった。


──無視するって決めたんだ。 だったら無視すればいいだけ──


 逃げるなと言ったのも、自由にしろと言ったのも自分だ。 春はそうしてるだけで、自分がそう言った以上は春が何をしても追い出すつもりは総司には全くなかった。

──無視しきれない自分が悪い。

 春はいない、風呂に入ってこようが何の問題もない、今日も入ってくるなら普通にしてやる、それでいいだろう。

 総司は半ばやけくそになりながらそう決めると、それ以上考えないようにして布団を頭からかぶった。


 お互いを意識しあってまんじりとしないまま時間は過ぎていく。 眠れるような状況ではない。 総司は落ち着かないあまりに意味もなく寝返りを繰り返し、春は息を殺して微動だにせず、対照的な二人なのにお互いを意識していることだけは変わらなかった。

 しかし、二人とも色々あって精神的に相当な疲労を抱えていたのだろう。 とても眠れそうにないとそう思っていた二人とも、やがて自然と、どちらからということもなく、静かに眠りに落ちていた。

 暗い心境の二人ではあったが、部屋に静かに流れる寝息はただこの時だけ、二人に優しい時間が流れていることを誰にともなく伝えているようだった。



 朝の目覚めは総司にとって不本意・・・ながら爽快だった。 途中、悪夢に魘された記憶はある。 だが、それで飛び起きることもなく、寝付きが悪かった割にはよく眠れたようだ。

 目を開けた総司はその理由に対して思い切りため息を吐いていた。──自分の手をしっかりと握って、ベッドに頭を乗せたまま寝ている春の姿に。

 多分、夜中に魘されてる自分に対して、目が覚めた春がそうしたんだろう。

 人間の温もりや肌の感触は安心や安らぎをくれる。 それは総司も分かっている。

 しかしだ──


──何で悪夢の元凶がそんなことしてるんだよ……──


 家にきてから春は総司に触れないように避けていた。 総司は本当なら春をそばに寄せたくない。 それなのにそばにいさせてもらっているからと、そういう気遣いだろうと思う。

 眠っているから大丈夫だと、躊躇いがちにしてただろうことが総司の目に浮かぶ。 そしてそのまま、自分が魘されなくなったことに安堵してそのまま眠ってしまったんだろうと。

 断じて、眠っている間の無意識とは言え、自分が握って離さなかったからこうなったなどとは思いたくない。


 先に起きて布団に戻ってくれてればよかったのにと、総司がそう思いながらしっかり握っている春の手を離そうとすると、それに反応した春が目を覚ました。

 寝起きはあまりよくないのか、寝ぼけたような目が総司を捉えると春はぼんやりしたまま笑み崩れていた。


「んっ……おはよ……総司くん……」


 総司との今の関係を忘れたように、そもそも目が覚めて総司がいることにも疑問を感じていないように屈託なく挨拶する春に、寝ぼけているなと総司は苦々しく感じ──そのとろんとした顔があの時・・・の春の顔と微妙に重なる。

 自分の手を握るこの手で春が何を・・したか──フラッシュバックは一瞬だった。 何をされたか、どんな気分だったか、全てを不意に、鮮明に思い出し、強烈な吐き気が込み上げてきた。


 寝ぼけた春の手を振りほどくと、総司はベッドを飛び降り部屋から飛び出した。 トイレへと駆け込むその背中を、一瞬で意識が覚醒した春は真っ白な顔で呆然と、初夏の陽気にも抑えられない震えに襲われながら見送っていた。



──最悪だ……──


 ソファに座ってテレビを眺めながら、総司はため息を吐いて内心で一人ごちていた。 起きた直後にあのことを思い出し、思い切り吐くことになったのだ。 いい気分のわけがない。

 テレビには昼時の情報番組が流れている。 ローカル局の全然知らない番組で、正直面白くも何ともない。 別に見たいわけではなく、手持ち無沙汰なのを誤魔化すために流しているだけだ。 何もしないで春のことを意識するのは御免だった。


 春は総司の隣で座っている。 うつ向いたその表情はどうしようもなく暗い。

 総司の手を握ったまま寝てしまい、目が覚めたら総司はすぐにトイレへと駆け込んでいった。 落ち込むなと言う方が無理だろう。

 総司が魘されているのをそのままにできず、思わず手を握ってしまっていた。 しばらくして総司が落ち着いてくれた時は総司の助けになれた気がしてすごく嬉しかった。

 だが、結局は総司を自分が苦しめている、その事実を思い知らされた。


『……ごめんなさい』


 そう謝っても当然無視された。──無視してくれている。

 無視されるのはやはりつらい。 しかし、総司もつらいだろうに無視している、無視してくれて追い出そうとは決してしないこと、あの時みたいに罵ったりしないことは、自分をそばにいさせてくれようとしてるんだと、春にとっては嬉しく、同時につらいことだった。


 春は落ち込みながらも家事を黙々とこなしていた。 掃除も洗濯も手際よく済ませたが、朝食の用意だけはするべきかどうか躊躇してしまった。 また総司が吐かないかと、吐いた直後なだけに心配になるのは当然の話だ。

 お粥でも作ろうかと思ったがそれすらも不安で、食べてもらうことが一番大事だと、結局レトルトのお粥に梅干しを添えて出した。

 総司は渋い顔をしたが、スプーンを手にするとお粥をゆっくりすくい、まるで毒物でも警戒しているかのようゆっくりと口に運んでいた。 軽く咀嚼して飲み込みしばし考え込むようにしていたが、気分が悪くなるようなことはなかったようだ。


 自分が準備しても、自分が作ったものでなければ食べてくれるんだと、嬉しくはあったが同時に切なく、そして不思議だった。

 総司も春も、二人とも疑問に思っていた。 なぜ風呂で裸を見ても気分が悪くならなかった総司が料理を見て吐いたのか。

 裸を見て吐かなかった理由は総司には何となく想像が付いていた。 今朝、吐いたことでこういうことだろうと当たりが付いていた。

 あの時、春は服を脱がなかった。 服を着たまま、何も見えないままだったから、だから裸を見ても連想されることがなかったんだと。 見えないままにされたからこそ触覚の方が強く記憶に残っている。 そして、春がいつもとあまりにも違う表情をしていたのが印象に残ってしまった。 春に握られた手とあの時を思い起こさせる表情に刺激され、トイレに飛び込んだ今朝の出来事がそれを裏付けていた。


 だが、料理については本当に分からない。 春には分かるわけもなく、総司には認めたくない、直視したくなくて目を逸らしている気持ちがそこにはあった。

 二人で同じ疑問を感じていようと総司と春がそのことを話すわけがない。 1mと離れず、仲睦まじい恋人のようでありながら心の距離は離れている。

 時折、春が総司に話しかけようとしてしまい慌てて口をつぐみ、総司はそんな春に苛立ちを感じながら、それでも無視を貫いて重苦しい一日を過ごした。


 昼も夜も躊躇いながら料理は用意したが、総司は吐きこそしなかったものの不快さは抑えられなかったようだ。 顔を歪め、無言でキッチンに行くとレトルトのカレーを温めてそれで夕飯を済ませていた。 春にとって一番つらかったのはそれだったかも知れない。


 ずっとこんな日が続く。──自分が苦しむのはいい。 春はそう思っていた。

 こうして苦しんでいるのを見るのが総司の望みなら、そうするべきだと思っていた。 だが、総司の苦しさを思うと胸が苦しかった。

 何か気分転換をさせてあげられないかと、そう悩む春に布団の中で総司が独り言のように呟いていた。


「……明日は学校に行く」


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