第32話 父の決意

 総司にはそれから、春が家で暮らすに当たっての決まりについて話された。 とは言え、それは春を束縛するようなものではなかった。 むしろ逆だ。

 食器を使ったりテレビを見たり冷蔵庫の物を飲み食いしたり、何かするのにいちいち話しかけられたくない。 そもそも相手をするつもりがないのだから許可なんか出せない。 だから全て自由にしろと。 布団は客用のを用意してあるからそれを使えと、それだけだ。


 どこにいるのも何をするのも、出掛けるのも自由。 何一つ言うつもりはない。 ただ一つ、自分のそばで苦しむことから逃げることだけはするなと、それだけだった。

 それに春が頷くと、総司は口をつぐんだ。 事前に宣告したように春をいないものとして扱う、その通りにした。


「その……おうちのこと……させてもらうね」


 自由にしろと言われたが、それでも何も言わずにするのは気が引けて、返事はないと分かっていながらも総司に話してから春は言葉の通りに色々と始めた。

 とは言え夕方の時間だ。 さほどにやることがあるでもなく、夕飯の準備をして風呂の掃除をする。

 その間、総司はリビングのソファに座り、見るともなしにテレビをつけていた。 自分の部屋に行こうとしないのは、春のことを意識していないと、そう自分に言い聞かせていたのかも知れない。


 一通りやることを終わらせると、春は総司の隣に腰を下ろし、黙ってテレビを見る。 総司と接触しようとはしない。 きっと総司は嫌な気分になる。 だから距離は空けている。

 春の頭の中は総司に言われたこと──総司を苦しめるのは嫌だが総司に言われたからそれを守ると、そのことでいっぱいだった。 逃げずに総司のそばにいる、それだけだ。

 総司が春をいないものとすると、そう意固地になっていたように、春もまた総司に言われたことだから総司を苦しめても守らないとと、そう思い込んでしまっていた。

 この夜、総司は自分が言ったことを後悔することになった。 一言やめろと、それを言えば済んだ話ではある。 だが、春をいないものとして扱うと決めた総司は、それを破るのが嫌でどうしても言えなかった。



 22時、今日も智宏の帰宅は夜遅くになった。 離婚、引っ越し、それに総司の色々で、不意に有給をかなり使うことになり周囲には大分迷惑をかけてしまった。 それを取り戻すために毎日遅くまで頑張っている。

 同僚は仕方のないことと言ってくれるが、それでも智宏は悪いという気持ちが拭えなかった。 そんな智宏だからこそ同僚や現場からの信頼も厚いのだが、智宏はそれに甘えるつもりはなかった。


 引っ越してまだ間もない自宅の周りは何もなく、暗闇に包まれていた。 玄関の明かりだけが存在を示してくれるのが常の家で、しかし今日は久しぶりに様子が違っていた。 息子の部屋から漏れる明かりを見て、まだ起きているのかと少し意外に思う。

 あれ以来、総司は智宏が帰宅するよりも早くに寝てしまう。 何をしても楽しめるわけもなく、時間をもて余すのだろう。

 眠りは人間の忘却を助けてくれるとも言うし、息子のためにもそれはいいことだろうと、智宏は考えていた。 眠れるようになっただけ、当初よりはましになったと喜んでいた。


 本当はちゃんと早くに帰って話を聞いて、自分がその助けになってやれるのが一番いいのにと、その点は申し訳なく思っていた。

 車を停めて玄関に向かい、そこに人影があることに智宏は驚いた。 不審者か、と一瞬身構える智宏だが、その人物は智宏の姿を確認すると頭を下げる。 玄関の明かりに照らされたのは春の母親の桜だった。


「……こんばんは」

「こんばんは。 こんな時間にどうされましたか?」


 もう話すことは何もない。 あの晩に話すべきことは話した。 総司も何も求めないのだからそれ以上はないと、連絡先の交換もしていない。 自分に対する迷惑料など好きにすればいいと思っていた智宏は連絡先を伝える必要も感じなかった。

 それが今さら何をしにきたのかと、智宏は不審に思う。


「その……柴谷さんにお詫びにあがりました」

「その話ならもう済んでいるはずですが?」


 もうあなた方を息子と関わらせたくない。──そんな思いが透けて見える態度に、桜は頭を下げたまま、総司に話した時と同様に罵られることを覚悟しながら口を開く。


「総司くんに……春をそばに置いて償わせてほしいと、そうお願いしました。 総司くんもそれを受け入れてくれて──」


 桜の言葉を最後まで聞かず、智宏は家に飛び込んでいた。 靴を脱ぎ捨てると廊下を早足で総司の部屋に向かいドアを乱暴に開ける。


「おかえり、父さん」


 パソコンに向かっていた総司が勢いよく開けられたドアに驚くでもなく、帰宅した智宏に普通に声をかける。 車の音は聞こえていたし、玄関が開けられる音も廊下を歩く音も聞こえていた。 それ以前に分かりきっていたことでもある。

 落ち着き払う総司と対照的に、智宏はそんな平静ではいられなかった。 全く想像もしていなかった話をいきなり聞かされ落ち着いていられるはずもなかった。

 してや、息子を最も傷付けた張本人が、息子の部屋で、パジャマ姿で、床に敷いた布団に座っているのを見て、平然としていられるわけがなかった。

 春が智宏の姿に恐縮したように頭を下げるが、智宏は一瞥しただけで総司に目を向ける。


「総司……どういうつもりだ?」

「何のこと?」


 総司は平然と、本当に何を言っているのか分からない様子で問い返す。 その姿があまりに自然で、智宏も一瞬、自分の目がおかしいのかと疑うほどだった。

 しかし現実に、春の姿は確かにそこにある。 確かにそこにいる。

 智宏は一つ深呼吸をすると改めて総司へと視線を向ける。


「戸倉さんのお母さんから話を聞いた。 何でそんなことを認めたんだ?」

「俺のそばには誰もいないよ。 そういうことになってる」


 悲しげにうつ向く春を見て、総司がどういうつもりでいるのか智宏も理解した。 だが、だからと言ってそれならいいと、息子の心の傷を心配する智宏が認められるわけもなかった。


「総司……そう思い込むことにしたということはひとまず置きなさい。──何でお前がそこまでする必要がある?」


 春も傷付いていると、そんなことは智宏も想像はできている。 だからと言って、誰よりも傷付いているのは総司で、加害者のために息子が傷付く必要などないと、それが智宏の、親として当たり前の考えだ。

 意識しないようにしているのを意識させられ、少し嫌な気分を抱えながら総司は智宏に向き直る。


「父さんはさ……俺があいつらに死んでほしいとか言ってたら言い過ぎだって止めたよね?」


 セックスをしろと、総司がそう言ったことは止めなかった。 それはあくまで総司が受けた仕打ちよりも軽いと、そう判断していたからだ。 だが、さすがにそこまで言っていたら止めていた。

 総司に頷き、そして一瞬遅れて智宏もそれがどういうことなのかを察した。 春を見て、少し痛ましそうな顔をする。

 総司のことは何よりも大切だ。 その総司が苦しむようなことを本来なら認められない。 認められるわけがない。

 だが、智宏も総司を傷付けた春に対して死んでも構わないと、そこまでは思えなかった。


 春の話は総司から毎日聞いていた。 教えてもらいながら作ったという料理を食べながら、春とどんな話をしたか、春がどんな娘か、どれだけお世話になっているか、総司は楽しそうに話していた。 恋人になるのではないかと、あの夜に総司の話を聞くまでは思っていた。 

 総司は春をそういう対象には見れなかったが、友人としてどれだけ大切に思っていたか、春が総司に対してどれくらいの好意を向けてくれたか──春がどれくらいいい娘だったか、そこはちゃんと分かっている。


 総司を傷付けたがそこに悪意はなかったと、自分の快楽のために嫌がる相手に強いたわけではないと、だからといって許せはしないが、そこはちゃんと理解して公正に見ていた。 一つの側面だけで人間を否定しない、そんな総司の公正さと寛容さは智宏から受け継いだものだ。

 そんな事情があったのなら──それで総司が認めたのならば──


「……お前はいいんだな?」

「いいも悪いもないよ……そう決めた」


 総司が頷くと、智宏はそれ以上は何も言わず、春へとまた視線を向ける。 申し訳なさそうに春が頭を下げるのを見て、智宏はドアを閉めると玄関へと向かった。

 玄関の外では桜がそのまま待っていた。 怒りを露にしながら家に飛び込んだ智宏だが、少し落ち着いているように桜には見えた。


「あの……申し訳ありません。 総司くんを苦しめるとんでもないお願いをしてしまって……」


 頭を下げる桜に、事情を知った智宏は幾分落ち着いた気持ちで口を開く。


「子供が大切な気持ちは分かりますよ。 本当なら認められるものではない……だけどそういった事情があったのなら仕方ありません」

「……本当に申し訳ありません」

「ただし、私も総司が何より大切です。 もし総司が苦しんで、さらに傷付くようであればその時は──」


 何があっても追い出す。 言葉にされなかったがそれも当然のことと、桜は改めて頭を下げる。


「当然のことです。 ありがとうございます」


 何はともあれ認めてもらえた。 そのことに、総司に対してと同じように申し訳ない気持ちになる。

 総司が認めた。 そして総司の意思を自分も認めた。 認めた以上、智宏にはそれで桜を責めるつもりはなかった。

 とは言え、思うところはある。 ついさっき見た光景については親として、何も言わずにはいられなかった。


「それ以外では私は口出ししません。──とは言え、同じ部屋で寝ることについては苦言を呈したいところですが」


 智宏にしては珍しく、皮肉げに笑いながら告げられた言葉に桜が想わず固まる。 信じがたいことを聞いた桜は顔を上げ、恐る恐るといった感じに聞き返していた。


「あの……それは──」

「総司の部屋に布団を敷いて、パジャマに着替えていましたからね。 まあそういうことでしょう」


 桜は思わず顔が赤くなった。 間違いは起こらない。 起こるはずがない。 総司も春もそんな心境になるはずがなかった。 総司が春を許したとしても、そもそも春は対象外だとはっきり言っているのだから、そんなことになるなどあるはずもなかった。

 だからと言って、総司のそばにいるチャンスとも言ったが、いきなり距離を詰めすぎだろうと、娘の行動に恥ずかしくなった。


 春をいないものとして扱うと、そう言った総司にも我慢の限界はあるだろう。 早々にそれがきて追い出されはしないかと不安で仕方なかった。

 この時、すでに春がやらかしたことを知ったならその程度で追い出されることはないと安堵したかも知れないが、感じる恥ずかしさは今の比ではなかっただろう。


「まあないとは思いますが……総司だっていずれは落ち着くでしょうし、その時に間違いがあったとしても責任は持てませんからね」


 冗談めかした智宏の言葉は、どこかそれを願う気持ちの表れだった。

 総司が春と恋人になることなど望んではいない。 無自覚であったとしても、自覚して後悔しているのであっても、乱れた生活をしていた春を息子の恋人として受け入れるのは難しい。 それくらいに総司が立ち直ってくれればと、そんな切な望みだ。

 そしてそれは、桜にとっては智宏以上に強く願うことだ。


「総司くんがそれくらいに春を許してくれたなら、この年でお祖母ちゃんになるのも嬉しく思いますよ」


 桜も冗談めかして返し、傷を負った子を持つ親同士の間に少し柔らかい空気が流れる。

 好ましくない状況になった。 それでも、なってしまったのならそれがいい方向に転がってくれればと、そんな期待が込められていた。

 何かあったら連絡するためにと電話番号とメールアドレスを交換し、深々と頭を下げて帰るという桜を智宏は送っていった。 ご近所とは言え女性をこんな時間に一人で帰せないと、そんな智宏にいつも春を送ってくれた総司の父親らしいと感心しながら、桜は厚意に甘えることにした。

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