第31話 二人の決意
凍り付いたように、総司も桜も動かなかった。 桜にはもう何も言えることがない。 そして総司も、桜から聞いた話にすぐに言葉が浮かばなかった。
春が自殺しようとした──そのことをどう受け止めるか。
春がどう思っていようと、罪の意識で苦しんでいようと、許せない気持ちは何も変わらない。 許そうとは思えない。
ただ苦しんでほしいと、その願い通りになっているのが分かっただけだ。 願い通りであっても、それを嬉しいともいい気味とも思わない。
春に何も望んでいない総司は春に対して何も思わなかった。 自分と同じ思いをさせられない。 罪悪感をいつまでも感じさせることもできない。 だったら苦しんでるかどうかすらもどうでもいい。 思い出したくない、顔も見たくない、さっさと忘れたい──総司の希望はそれだけで、春に望むことは何もなかった。
できれば転校でもして二度と顔を合わせないのがいい。 そういう意味では春が死んでも総司には同じことだった。
しかし、そう思いかけたところで総司は頭を振る。
──春に死んでほしいわけじゃない。
許せないことをされた。 だが、そこまで思うのは行き過ぎだ。 そんな最低な人間にはなりたくなかった。
殺したいと、そう思っても誰も責めないような仕打ちを受けてなお、総司は決してそうは思わなかった。
春たちに悪意はなかった。 総司に対する純粋な好意で犯した過ちで、許せるはずもないが死んで償えと、そこまで思うことは総司にはできなかった。
それに、総司が自覚していない思いも心の底にあった。 総司にとって認めたくない思いで、だから総司の心は咄嗟に、それに気付かないよう、春に死んでほしくない理由を作っていた。
「……死んで逃げようなんて許せない」
総司の呟きに桜は頭を上げる。 表情は何も変わらない。 春に対する気持ちも何も変わっていないだろう。 それでも、春が死ぬのを望んでいないと、どんな形であれ総司は桜に言葉で示した。
総司はそのまま考え込む。 桜の話は分かったし春に死んでほしいわけではない。──いや、死んでほしくない。
悩んだ挙げ句に総司は大きくため息を吐き、
「……いいですよ」
「総司くん……」
苦虫を噛み潰したような歪んだ顔で頷く総司に、桜は安堵の涙を流しながらもう一度頭を下げる。
「ありがとう……こんな無茶なお願い……本当に──」
「別に……死んでほしいとまでは思わないし、死んで苦しみから逃げようなんて許したくないだけです」
罪悪感をいつまでも感じさせられないと諦めていた。 だからどうでもいいと、そう思っていたことと矛盾していることに総司は気付かない。 取って付けた理由でしかないことで自分の本心でないことに、総司は気付きたくなかった。
「だけど……俺は戸倉を相手にする気はないですよ」
心の中の矛盾はそのままに、総司にとっては当たり前のこと──それを桜に念押しする。
「俺のそばで苦しんでることを見せて償いになると思うなら、俺に許すつもりはないけどそうさせればいいです。 だけど俺は戸倉を見てあのことを思い出したくない……空気のつもりでいますよ。 何かしても話しかけても一切相手にしない……それでいいなら好きにしてください」
「もちろんです……ありがとう……本当にありがとう!」
桜は総司に対する申し訳なさと感謝の気持ちで、ずっと頭を下げ続けた。 総司はそれに何を言うでなく、桜のするがままに任せていた。
しばらくそうした後、立ち上がった桜は春を連れてくると言ってまた頭を下げながら出て行った。 一人になって、総司は桜のいなくなったリビングのソファで思考に耽る。
春が家にくる。 自分のそばで苦しんでいることを見せるために。 そうして春のことを意識した総司の脳裏に、あの時のことが鮮明に思い出された。
唐突にこみ上げてきた吐き気に、慌ててトイレに駆け込み久しぶりに思い切り吐いた。 少しは落ち着いていた不快感が想像だけで刺激されたことに、目を逸らすことができるようになっただけで自分の心は何も変わっていないことを実感してしまう。
「大……丈夫……」
へたり込みながら自分に言い聞かせるように総司は呟く。
こんなことが続くと考えると後悔はある。 しかし、自分で決めたことだ。 逃げない。──空気と思えば何てことはない。
目を逸らすことができていたのだから目を逸らしていればいい。
春と向き合うつもりはない。 それでも、自分が決めたことから逃げるつもりもなかった。
そうして、総司は客用の布団を確認しに行く。 荷物は用意してくるにしても布団まではさすがに持ってこないだろうと、当たり前に考えての行動だった。 春のための準備を当たり前にしている自分に、総司は何の違和感も感じなかった。
二時間ほどして、桜は春を連れてやってきた。 着替えやその他の荷物を色々と抱えて桜の後ろについてきた春は、総司の顔を見れなかった。 申し訳なさに消えてしまいたいと言うように縮こまっていた。
家に帰った桜から話を聞いて、春は狼狽しきりそんなことはできないと拒絶した。 自分がいたら総司を苦しめる、そんなことをできるはずがないと。 総司をこれ以上苦しめることなどしたくなかった。
だが、春が苦しんでる姿を見せる以外に春が総司にできることはない、総司も認めてくれた、それなのに苦しいからと逃げるのかと、桜に言われて頷かざるを得なかった。
『いい、春? 総司くんはあんたをいないものと思うって言ってる。 だけどね、本当に見えないわけじゃない……ちゃんと見てもらえるチャンスなんだよ。 苦しいからって逃げないで。──総司くんは認めてくれたんだよ? 総司くんに償いたいならどんなに苦しくてもがんばりなさい』
償いたかった。 許してもらえるなどと思えるわけもなく、それでも何かをしたい。──春の望みはそれだけだった。
それが叶うチャンスかも知れない。 しかし、その代償が総司を苦しめることであるのならそれを選べるわけがなかった。 それくらいならそれこそ死んだ方がましだ。 総司の『死んで逃げようなんて許さない』と、その言葉がなければ春は今度こそその道を選んでいたかも知れない。
悩んだ挙げ句に春は総司の家へとやってきた。 桜は智宏の帰宅時間を確認すると総司に申し訳ない、春をよろしく頼むと、そう頭を下げて帰っていった。
桜がいなくなり、二人はリビングのソファに座ってただ黙って向かい合っている。
何か言わないといけない。 言うことはいくつもある。 しかし、春はどう言えばいいのか、そもそも自分をいないものとして扱うと言った総司が答えてくれるのか分からず、口を開きあぐねていた。
総司も何も言わない。 何を考えているのか、春の目の前で顔を覆ったまま座っている。 春を拒絶して自分の部屋へ行こうともしない。
「あ、あの……」
何をすればいいのか、何をしていいのか、何が許されるのか──席を立つことすら許されない気がして、仕方なしに春が口を開く。
「ご、ごめんね。 こんなこと……お母さんがお願いしちゃって……め、迷惑だよね?」
総司は何も言わなかった。 春の言葉に顔を上げようともしない。
話したくない、顔も見たくない──そう言われている気がして、春はうつ向いてしまう。
総司に嫌われている、そのことを感じるのもつらかったが、それ以上に総司の負担になっていると、それを感じるのがつらかった。
くるべきではなかったと、桜には悪いが帰ろうと、春は消沈してソファから腰を上げる。
「……やっぱり帰るね……あたしなんかがそばにいたら総司くん……嫌だもんね」
「……逃げるなよ」
立ち上がりかけた春が総司の言葉に縫い止められたように固まる。 桜の話からも何か言われるとは思っていなかった。 どんな形であれ、声をかけられるとは思っていなかった。
総司をまじまじと見て固まる春の前で、総司は春の方を見ようとしないまま、それでも春に向けて、春を相手に言葉を続ける。
「人にあんなことして、罪悪感からさっさと逃げて楽になりたいのか?」
「……違うよ……あたしそんなこと……」
「自殺しようとしてたんだろ?」
否定しようとして、しかしそれを言われれば春に返す言葉はなかった。 どうしていいか分からず、何も考えられずに気付いたらしてしまっていたこと。
死のうと明確に思ったわけではない。 だが、それをしてしまっていた自分の内にそんな思いがあったことは否めない。
「……おばさんに言われたよ。 もうどうでもいいと思ってたけど、確かに俺にしたことを忘れて楽しんでるって、そう思ったらいい気分はしない」
「でも……」
「俺と同じ思いを味わうの……できるのか?」
春は勢いよく首を振り否定する。 総司のことが好き──その気持ちは罵られ踏みにじられた。 それでも、春にはそれはできなかった。 踏みにじられたのは自分の責任で、踏みにじられてなお、春の中では捨てられない大事な気持ちだった。
顔も上げない総司にも春が否定したのは伝わっていた。
「だったら、俺が苦しんでる分は戸倉も苦しんでるんだって、せめてそれを示すくらいのことはしてみせろよ」
「だけど……あたしがそばにいたら総司くん……」
思い出して苦しむ、そんなことをさせたくない。──そんな春の思いを総司は認めなかった。
「俺がそうしろって言ってるんだよ。 死ぬなんて許さないし死んでほしいとまでは思ってない……」
「総司くん……」
「俺が苦しんでる間は戸倉も俺のそばで一緒に苦しんでろよ。 逃げるな」
一緒に苦しめ、そばにいろと、総司の言葉は違う形で春が欲しかった言葉だった。 それでも、春にとっては嬉しく、申し訳なくても断れなかった。
「うん……ごめんね、総司くん……」
申し訳なさと、総司が示した優しさ──死んでほしいとまでは思っていないと、ただそれだけの、それだけなのにこれほどまでに深く傷付けた自分に対してあり得ないくらいの気持ちを示された嬉しさに涙しながら、春は総司のそばにいると、そう決めた。
何があっても、例え総司を苦しめてしまってもそうすると、そのことを固く心に決めていた。
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