第30話 母の決意

 桜の頭につい先刻の、総司の家へと足を向かわせ非道な願い事をする決意をさせたそのことが思い浮かぶ。



 昼食を済ませ軽く家事を片付けて落ち着いた13時半頃、桜は春の部屋へと向かった。

 総司の家で聞かされた実の娘の乱行と、総司に対して犯した罪──それに対する怒りや情けなさ、色んな感情がない交ぜになったまま、家に帰ってから春を怒鳴り付け、罵ってしまった。

 恥知らずな行為をそうと思わずに続けていたことも、その延長であれほど憔悴するまで総司を傷付けていたことも、とても許せるものではなかった。

 春も総司に言われてそれを自覚し、傷付き、後悔しているのは分かっていた。 それでも許すことはできずに怒鳴り付け、トイレと入浴と食事以外では部屋を出ることも禁止した。


 恥知らずな真似をした仲間との連絡を取れないようスマホも取り上げ、桜の監視の下での謹慎を命じて一週間が過ぎた。

 桜が言うまでもなく、春も傷心のあまり部屋から出てこようとしない。 食事に呼んでも出てこないので、お盆に乗せて部屋まで運ぶようにしていた。

 部屋に入ると春はいつも呆けたようにベッドに座っている。 たまにベッドに横になって、桜が呼び掛けても返事もしない。 まるで脱け殻のようにそうしている娘に、桜は何もしてやれなかった。


 最初の数日は食事も摂ろうとしなかった。 そばにいて食べるように言って、それでわずかな量を食べるくらいだった。 今では食事を持って行けば食べはするものの、ほんの少ししか食べないのは変わらない。

 怒りはあった。 だが、娘が憔悴している姿は母親として胸が痛み、大丈夫だろうかと心配だった。 病院に連れて行くべきか──心も体も、こんな状況が続いたら壊れてしまう。 そう考えながら食器を取りに春の部屋に向かう。


「春。 入るよ」


 返事がないのはいつものこと。 それでもいつも通りに声をかけてからドアを開けた桜の目にそれが飛び込んできた。

──虚ろな目で手首を見ながらカッターを手にした春の姿が。


「春っ!」


 慌てて駆け寄りカッターを手で払いのけると、ぼんやりとした顔のまま、春が桜へ顔を向ける。

 久しぶりに真っ直ぐ見た娘の、その目の生気のなさに桜はぞっとした。 娘への心配はあったが見えていなかった。 春がこれほどに思い詰めていたことに気付かなかった。


「春っ! あんた、何バカな真似しようとしてんの!?」

「おかあ……さん……?」


 桜に怒鳴られ、今気付いたと言うように春がぽつりと言葉を漏らす。


「春……そんなことしてどうするの!? 死んだってあんたがしたことはなくならないんだよ!?」

「……どう……すれば……いいの?」


 虚ろな目のまま、春の唇から力のない声が漏れる。


「総司くん……傷付けて……汚い女って……思われて……」


 茫然としたまま、意識して話してるのかも怪しい春が総司の名前を口にして、ぼろぼろと涙を溢し始める。


「だからって……総司くんがそんなこと喜ぶと思ってるの?」

「総司くん……何も思わないよ……」


 自分で言葉にしてしまった思いに春の顔が歪む。 総司は気にも留めてくれないと、それだけのことをしてしまったんだと、その悲しみが春を現実に引き戻していた。


「あたしが……あたしなんかが死んだって……何とも思わないよ……死んだって……許してなんかもらえない……生きてたって……謝らせてももらえない……汚い女って思われて……償わせても……もらえなくて……何も……うっ……うぁぁぁぁぁぁん!」


 何かできるなら春だってそれをがんばれた。 がんばって総司に許してもらおうと──許してもらえなくても何かできるなら救いがあった。

 だが、総司には全てを拒絶された。 謝罪も償いもすることを許されない。 総司が求めたことはただ一つ──同じ思いを味わえと。 それは春にはどうしてもできなかった。

 どうすることもできなくて泣き崩れる春を、桜は抱き締めていた。 春も桜に抱きついて、子供のように泣きじゃくる。 春も桜もそれしかできなかった。


「ごめんね、春……あんたも苦しかったよね」

「総司……くん……あたしより……苦しんでる……おかあ……うぐっ……あたし……どうすれば……うぅっ……」


 やってきたことも、やってしまったことも、何一つなかったことにできない。 取り返しの付かない過ちを犯して、どうしていいのか分からず途方に暮れる春に、桜は何をしてやれるのか必死で考える。


「春……あんたはどうしたいの?」

「……償いたい……」


 桜の問いかけに春は小さく、叶わない願いを口にした。


「……謝りたいし……償いたい……あたしができることなら……」


 何でもすると、そう口にしかけて、総司が求めたことはどうしてもできなかったことを思い出し口をつぐむ。 しかし、その思いは桜にはしっかり伝わっていた。


「総司くんはあんたが何かするのを嫌がるよ? それでも?」

「分かってる……だから……どうしようもなくて……」

「何かさせてもらえても許してもらえないし……ひどいことを言われたり叩かれたりして当然なんだよ?」

「……つらいの……当たり前だもん……総司くんがそれで……気が済むなら……」

「総司くんに何かできるなら……どんなにつらくても耐えられる?」


 自分のしたことは許してもらえなくても仕方のないこと。 一生をかけてでも償わないといけないことで、そうできるならしたかった。 総司に拒絶されて何かすることさえ許してもらえない今の状況が──自分が傷付けた総司のために何もできないことが春には何よりもつらかった。


 総司に何かできるならそれがどれだけつらくても耐えられる。 頷く春の頭を桜は優しく撫でていた。

 馬鹿なことをしていて、馬鹿なことをやった娘──それでも大事な娘だ。

 その娘のために母親として、できるだけのことをしてやろうと、人でなしと罵られるようなことでもしようと、桜は決意していた。


「春……あんたは少し休んでなさい。 ちゃんと頭を落ち着かせて、それからだよ」

「うん……」


 桜に促され、春はベッドに横になる。 眠くはなくても横になるだけで体も、心も少しは休まるだろう。

 桜は横になった春の頭をまた撫でると、そっとベッドから離れ、また同じことをしないようにと払いのけたカッターを拾い上げる。 刃は出ていなかった。

 春も躊躇っていたのだろう。 そうしたところで償いにはならないと分かっていて、それなのにどうしようもない状況に耐えられなくて、考えてしまったが踏み切れなかった。 それとも何も考えられずに無意識にしようとしていたのか。


 いずれにせよ、今は未遂で済んだがいつ実行に移してしまうかは分からない。 微かな安心はすぐに不安で塗り潰され、すぐにでも行かなくてはと、桜は心に決めた。


「春。 お母さん、ちょっと出掛けてくるから。 ちゃんと休んでるんだよ」


 そう声をかけて部屋を出ると、桜は早足で玄関へ向かう。

 どこに行くのか、何をするのか、桜は春に言わなかった。 言えば春はきっと嫌がる。 自分のためではなく総司のためにやめてと言うだろう。

 自分がこれからしようとしてることは本当に人でなしなことだ。 総司にも、総司の父親にも罵られるだろう。 そもそも受け入れてもらえるとも思えない。


 罪を忘れることは許されない。 だが、春が償うことを諦められるなら、忘れられるならそれが一番いいと思う。 思ってしまう。 春の犯した罪の重さは分かっていても、苦しみ続けろなどとは言えなかった。 死を選ぶくらいならそうしてほしかった。

 罪悪感は決して消えないだろう。 それでも過去のことになり、薄まっていく。 加害者が考えていいことではない。 考えること自体、総司に対して悪いと思う。 しかし、それも一つの選択だ。 

 だが、それが春にできるとは思えない。──桜は不安だった。


 春が心配で、春を失いたくなくて、春と総司の二人を苦しめる道を差し出そうとしてる。 母親の醜いエゴだと、分かっていても桜にはそれしか選べなかった。

 それがどんな道であれ、春の救いの道を作ってみせる──その覚悟を持って、桜は総司の家を訪ねた。

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