第29話 母のエゴ

 春が総司の家で暮らすことになった──その異常事態の発端は土曜日、洋介たちが春の家を訪ねる少し前のことになる。



「それで、何の用ですか?」


 リビングで桜と向かい合いながら、総司は不機嫌さを隠そうともせずにいた。 春の母親がきて春のことを思い出さずにいられるわけがないのだから当然だ。

 何をする気も起きず、ベッドに横になっていた総司は突然鳴らされたインターホンも無視していた。 だが、あまりにもしつこく鳴らされるので仕方なく出てみれば、訪ねてきたのは桜だ。


 そのまま帰ってもらおうとも考えた。 事情を知ればそれを非難する人間などいないだろう。 だが、総司は桜の暗い、悲壮な表情と、話をしたいという沈痛な願いに、桜を家に上げた。

 直接ではないものの、大変だろうから力になってあげなさいと、娘が男子の家に夜までいるのを認めてくれた桜だ。 間接的にだが気にかけてくれて世話になったことを、総司は無視できなかった。

 だからと言って、中で話をさせてほしいと言うのを受け入れるまでが限界だ。 気分が沈んでいるのを隠してにこやかに対応する気になどなれるわけがない。


「いきなりごめんなさい。 その……具合はどう?」

「……そんなすぐに落ち着かないですよ」


 答えの分かりきったことを訊かれて当たり前に答える。 それだけで総司の心情は桜にも窺えた。

 自分は本当にひどいことをお願いしようとしている。──その思いに口を開くのを躊躇いそうになる。 他の道は本当にないのか、確かめるように桜は慎重に口を開いていた。


「総司くん……春もね、総司くんに罵られたこともそうだけど……総司くんにひどいことをして傷付けたって苦しんでるの」


 総司は無言だ。 当たり前だろうと、それがどうしたと、同情など湧きもしない。 無感情な目で桜を見て黙っている。


「総司くんに謝りたい、償いたいって……総司くんは──」

「あの晩に言った通りですよ。 俺と同じ思いを味わいもせずにそんなこと認めない……する気になったんですか?」


 最後まで聞きもせずに総司は桜の言葉を遮る。

 総司の心境は何も変わっていなかった。 そんなわけないと、そう分かって聞いている総司に、桜は首を横に振る。


「あの娘……ずっとバカやってた。 でもね、自分でもそれが分かったし……好きな相手がいて無理だよ」

「だったら話は終わりですよ……それで俺にどうしろって言うんですか?」

「総司くん……総司くんがどんな思いをしたかなんて同じことをされないと分からないかも知れない。 だけど、自分がバカなことをしたって、総司くんを傷付けたってことはちゃんと春も分かってる。 総司くんに許してもらえないのは当然だって……だけど謝りたいし償いたいって……できることをしたいって……それも許してもらえないの?」

「……帰ってください。 戸倉のことは思い出したくもないんです……」


 家に上げなければよかった。 心底からそう思い、もたげてきた嫌な気分を吐き出すように総司はため息を吐く。

 ひょっとしたら、総司の心境が少しでも変わっていないかと、桜のその期待はやはり無駄だった。


「……総司くんは春をどうしたい? 春にどうさせたい?」

「……何も期待してないですよ」


 すがるように問いかける桜に、総司の答えは何より冷たく、どうしようもないものだった。


「何もしたくないしさせたくない。 そんなことで罪悪感を薄めさせるなんてごめんです……」

「……春が苦しんでれば総司くんの救いになる?」

「……それだってどうせ長続きはしないだろうしどうでもいいです」


 本当に何も求めていない。──それでも、総司にとって願いがあるとすればそれだけだと、桜は自分の思ったことが間違ってなかったことを確認した。

 本当にひどいことを今からお願いする。 総司のことを苦しめる身勝手な願いだ。 それどころか春の望みですらない。 春の望むことでありながら春が決して望まないこと──総司も春も望まないことを自分のエゴで頼む。

 人でなしの所業だと、桜の心中は苦いものでいっぱいだった。 それでも、春のためにはこれしかないと、桜は覚悟を決めた。


 ソファから立ち上がる桜にもう帰ってくれるのかと、正直もっと粘られると思っていた総司は意外な感に捕らわれる。 だが、桜はリビングから出ようとはしなかった。 総司の前で正座すると、両手を床について頭を下げる。


「総司くんにお願いがあります」


 いきなりの土下座に総司が呆気に取られる中、桜は静かにそれを、あり得ない願いを切り出す。


「この家に……総司くんのそばに春を置いてください」



──……何て言った?──


 桜の言葉に総司の思考は停止した。 何を言われたのか全く理解ができない。

 桜は目の前で土下座のまま、頭を床に擦り付けている。 そうするだけのことを言ったのだということは分かる。

 総司はもう一度、今聞いた言葉を反芻してみる。


『春をそばに置いてほしい』


 間違っていないと思う。 どういう意味だろうか──頭の中でじっくりと考えて、何か聞き間違いや勘違いがないかと、たっぷり一分は思考を重ねた。


「……何を考えてるんですか?」


 どれだけ考えても、桜が言ってることもその意味も他に捉えようがなかった。──頭おかしいんじゃないかと、そう思った。

 桜も自分で分かっている。 総司が頷くはずもない、あり得ない願いだと。 総司の傷をえぐり続ける非道なことを頼んでいると、自分でも嫌になるくらい分かっていた。

 それでも、桜は娘のために退けなかった。


「総司くんの身の回りのこと、全部やらせます。 春のことも総司くんの好きにしてもらって構いません」

「……何もさせたくないって──」

「罵っても、叩いても、気の済むようにしてください。 総司くんの好きにしてもらって──」

「俺がそんなこと望むと思ってるんですか?」


 総司の言葉の温度が下がったのを、比喩でもなしに桜は体感した。 それこそ春に抱いているのと変わらないほどの不快感が、総司の胸中には渦巻いていた。


「いくら不愉快だからって女を殴りたいなんて思わない……そんな最低野郎になりたくないし罵るのももうごめんなんですよ」


 あの時、春たちを思い切り罵って総司が感じたのも不快感でしかなかった。 殴ったところで、後で自分に対する嫌悪感が溢れてくるのが目に見えている。

 本当に、総司の中で春たちに求めることは何もなかった。 嫌悪感をぶつけることすら嫌だった。 あえて言うなら関係したくない、それだけが総司の願いだ。

 それを分かってなお、桜は総司に言葉を重ね懇願する。


「お願いです。 春が苦しむのが総司くんの望みなら、総司くんのそばで春が苦しむのを見てやって……あの娘を苦しめてあげてください!」


 桜の必死の懇願に総司は言葉を失った。 自分の娘を苦しめろと、尋常でない桜の様子に何を考えているのか本気で分からなくなった。


「……総司くんもあの娘が罪悪感も忘れてると思ったら嫌な気分になるでしょう?」

「…………」

「あの娘が総司くんへの罪悪感を忘れてないって……苦しんでるって……総司くんのそばでそれを示し続けさせてやってください」


 桜は頭を上げない。 床にめり込めと、そう願わんばかりに額を床に押し付け懇願する。

 その必死の有り様に、総司はようやく『何を考えてるのか?』ではなく『何があったのか?』と疑問に感じた。


「戸倉がそばにいたら俺はあのことを思い出す……思い出し続ける……それは分かってるんですよね?」

「……分かってます」

「あんなことをした戸倉のために俺に苦しみ続けろと……そう言ってるんですか?」

「……はい」

「……何があったんですか?」


 全て分かった上でそんな無理筋なお願いをする。──どんな理由があるのかと問い質す総司に、桜は一拍置いて口を開いた。


「春……自殺しようとしたの……」


 総司が言葉を失うのが分かった。 嘘でないと、総司に受け止めてもらえたと、それを感じて桜はほっと安堵の息を吐く。

 春が自殺しようとしたと、最初に言っても信じてもらえなかったかも知れない。 だから桜はそれは言わず、必死で恥知らずなことをお願いした。 それを見てからなら信じてもらえると思って。

 同情を買うための作り話と思われて門前払いにされるわけにはいかなかった。 桜も春のために、春を失わないために必死だったのだ。


 それでも残る不安はある。 総司が春が死のうとどうでもいいと、もしそこまで春を憎んでいたらどうにもならない。 それはもはや祈る以外になかった。


「母として、娘を失いたくなくて、ひどいことをお願いしてると分かってます。 それでも他にないんです……お願いします……春に償わせてやってください」


 これ以上、桜に言えることは何もなかった。 どうか娘を助けてくださいと、祈るような気持ちで、桜は涙を流しながら総司に頭を下げ続けた。

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