第二十二章 静かだった現場
1
猫子が席を立ち、二階へ上がって行った。私もついて行こうとしたが、猫子に無言のまま掌を向けられたので、仕方なしにその場に留まった。
それはほんの数秒後のことだった。この静かな別荘地帯にとてつもない金切り声が轟いた。
「きゃああああああああ――」
それは猫子のものだった。世にも恐ろしい化け物に相対したかのような、そんな悲鳴だった。
「ねこさん?」
いったい何が起きたのか。場は困惑に包まれる。
「警部さん、いったい何が……」
すずが知世の胸に抱き着きながら言った。
「いや私にもさっぱり」
言いながら矢立警部は私の方へ近寄り、
「ねこのことだ、何か思惑があるんだろうが、万野原さんは何か聞いてるかい?」
「全く」
猫子は突拍子のないことはするが、意味のないことはしない。今の悲鳴も、何らかの意図があってのことなのだろうが、誰もがその突然の悲鳴の意味を理解できないでいた。
しかし、その場に流れる不穏な気配を感じていたのはたしかだった。三人をその場に残し、私と矢立警部は二階へ。
「ねこさん、どこですか?」
猫子の悲鳴はあの一回きりであった。二階にも捜査員が数名いた。その一人が恐る恐る言う。
「百合川さんはあの部屋に入っていきました」
彼が示したのはラウンジの奥にある、朱李の部屋だった。見るとその扉はしっかり閉まっている。
「どうして様子を見に行かない?」
矢立警部の詰問に別の捜査員が答える。
「いえその、百合川さんが、何があってもあなたたちはそこにいて、とおっしゃったものですから。しかし今の声はただごとじゃあないようでしたが……」
矢立警部はきっと目を走らせ、その扉を見た。真っ赤に塗られたその扉は、まるで地獄の底に通じているかのようなまがまがしい妖気を放っていた。
「猫ちゃん?」
背後に人の気配を感じ振り向くと、リビングに残したはずの三人がいた。知世を先頭に、新山とすずが戸惑いの表情を見せている。
その場にいた者たちの視線が一斉に矢立警部に、いや、彼の目の前の朱李の部屋の扉に向いた。
耳が痛くなるような静寂である。
矢立警部はしばし呆然とその扉を見つめていたが、やがてはっと我に返ったようにその扉に手をかけた。かちゃり、とドアノブを回してその扉を開く。
「おい、ねこ……」
猫子は背中を向けて部屋の中央に立っていた。その後ろ姿は哀愁が漂い、普段の彼女とはどこか違った。それでも、ひとまず彼女の無事に安堵した私だった。カーテンを閉め切っているからか、部屋は少しだけ暗い。
「いったい何の騒ぎだ? ゴキブリでも出たか?」
猫子は黙ったままだった。ゆらりとこちらを向いた彼女の顔は、まるで世捨て人のような陰が落ちていた。目には見る者を凍りつかせるような冷酷さがあり、への字に結んだ口は自分以外のすべてを憂いているようだった。
「ねこさん――」
私が問いかけようとしたのを、猫子はすっと掌を向けて制した。そして――
「今の声、あたしが出したんだけど、聞こえた?」
「はあ?」
「そんなに大きな声は出していないはずだけど、ここは静かな土地だからよく響いたでしょう?」
いったい彼女は何を言っているのか。私たちは苦りきった顔をせずにはいられなかった。
「シチュエーションはね、婚約者を突然殺された女性。目の前にはナイフを携えた殺人鬼。その刃先はまさに自分に向いている。女性は助けを求めるべく、悲鳴を上げた。どうぞ、入ってきて」
猫子は急に猫なで声になり、その顔には柔らかな笑みが浮かんだ。その彼女の急変に、私は異様な空気を感じ取った。後ろには矢立警部、そして知世たちが詰めかけている。それに背中を押されるようにして、私はその部屋に入った。「そこにいて」と釘を刺された捜査員たちは扉の外から中の様子を窺っている。
「猫ちゃん、どうしちゃったの?」
知世はドアの横の壁に寄り掛かり、猫子を見据えた。それに倣うように、一同はじっと猫子を注視する。
(……)
それに対し、猫子はその場にいた者たちの顔を一人一人順番に見返すと、やがて満足そうに頷いた。
「何から話せばいいのか」
そう彼女は切り出した。困ったように顔をしかめるが、口許は余裕があるように口角が上がっている。
「あたしがこれから話す内容はとある憶測に基づいたもの……今回の事件の黒幕とも呼ぶべき真犯人をこれから指摘するのだけど――」
「真犯人っ?」
矢立警部は叫んだ。
「うん、そう。あたしにはそれが判ったの。そしてそれは、この中にいる」
*
矢立警部は狼狽しているようだった。それは私も同じだ。顔を薄い靄で覆われたように、視界が不明瞭になる。無理もない。猫子は一体どうやって犯人を特定できたというのか。何が何だか判らなかった。
「この中ってのは、あたしも含まれているわけ?」
こんな時でも知世は自分というものを崩さないらしい。人を食ったような態度で猫子をねめつける。
「ええ、この中っていうのは、今この家の中にいてかつ、事件当時の夜もこの家にいた三人よ。知世さん、すずさん、新山さんのね」
「ちょっと待ってよ。それには当然猫ちゃんや桔梗ちゃんも含まれるじゃない。三人でなく五人でしょう」
言葉尻を捉えるように知世が言うが、猫子は余裕の態度を崩さない。
「そうね、そうだったね。訂正しましょう。犯人はあたしときーちゃんを含めたこの五人の中にいる」
自信満々に猫子は言い切った。矢立警部はようやく落ち着きを取り戻し、深い呼吸をしながら言った。
「ねこ、さっきから何を話しているのか、俺には理解ができない。真犯人? 犯人は紅月芽衣子じゃねーのか? それに今しがたの悲鳴は何だったんだ?」
新山もすずもそれぞれ思いつめたような顔をしながらも、その視線は猫子を捉えて離さない。
「まずは一度事件の流れを整理しましょう。皆さん、少しの間、口を挟まずにあたしの話をしっかり聞いていてください。第一の事件、そう言ってもいいでしょう。これは今から一週間前に起こりました。紅月朱李さんと谷山佐夜子さんがそれぞれ命を奪われた事件」
それぞれ命を奪われた、と猫子は何だか微妙な表現を使った。そのことに疑問を抱いた私だったが、とりあえず話を聞くことに専念した。
「この事件が起きたのは、七月十六日の午後十一時から、翌十七日の午前零時までの一時間とされていますが、朱李さんが死の直前に友人とメールアプリのやり取りをしていたことから、犯行時刻はさらに絞り込まれ、午後十一時四十三分頃から零時までの約二十分間となります。ちなみに犯人が部屋に侵入したと思われるのがラウンジから人がいなくなった十一時三十五分以降。凶器は朱李さんの私物のナイフ。これはそこの棚にしまわれており、またその棚は朱李さんの目と鼻の先にありました。そのナイフと朱李さんの血が谷山さんの胸に残っていたこと、そして朱李さんの遺体があった机から谷山さんの遺体があったベッドに血痕が残っていたことを合わせて考えると、殺された順番は朱李さん、次いで谷山さんということが判ります。ここまではよろしいですか?」
一同は静かに頷く。
「そして重要なのが、犯人と朱李さんとの関係です。朱李さんは死の直前まで机に向かっていた。その場には婚約者もいたはずです。そんな状況で部屋に招き入れるとなると、それはとても親しい間柄であったと推測することができます。しかし、同時にこの状況には一つの矛盾が存在するのです」
「矛盾?」
新山が首を傾げる。
「犯人は朱李さんに殺意を抱いていながら、朱李さんはその人物を部屋に招き入れた。普通そんなことをしますか?」
「それはだから、朱李くんは犯人の殺意に気づいていなかったのでしょう」
知世が髪を指に絡ませながら言った。
「そうです。まずそこが一つ、重要なポイントなんです。朱李さんは犯人の殺意に気づいていなかった。そして次の問題です。――これ」
猫子は例のナイフがしまわれている棚を指さした。
「凶器はここにあったわけです。先ほども言いましたが、位置関係は朱李さんの目と鼻の先。また朱李さんは几帳面な性格だったようですから、机の上にナイフが放置してあったとは考えられません」
すずがうんうんと頷いた。
「また、もしここからナイフを取り出すとなれば朱李さんの許可がいるでしょう。彼の目を盗んでこっそり取るのは不可能ですし、谷山さんの目もありますから。どんな理由で手に取ったのかは判りませんが、とにかく、犯人は朱李さんの許可の下、凶器を手に入れた。そして不意を突いて彼を刺殺したわけです」
「なるほど、朱李くんは犯人に殺意があったとは気づかなかったからおかしくはないわね」
知世が得心したように言った。
「ここまでのことをまとめてみましょう。犯人の取った行動は十一時三十五分から零時までの間に朱李さんの部屋に入り、そこで何かしらの理由をつけて凶器を手にする。そして四十三分以降に朱李さんの隙をついて彼を殺した。そしてその次に谷山さんを殺した……おかしくないかしら?」
「はあ? どこがですか」
私は気の抜けた返事をしてしまった。今の話のどこかに矛盾点があっただろうか?
「何もおかしくはないわ」
私の代弁をするように知世が言った。新山もすずもそれに同調するように頷いている。
「いえ、まあおかしいというよりかは不自然と言った方が正しいのかもしれないね。これこそがまさにさっきあたしが言った憶測であり、あたしの仮説の根幹となるものなの。矢立警部は事件当時この家にいなかったから判らないかもしれないけど、そこの三人ときーちゃんにはきっと理解してもらえると思う」
猫子は私、知世、新山、すずに目を向ける。
「あの事件のあった夜、それはとても静かな夜だった」
猫子は遠い昔の思い出を懐かしむような口調でそう言った。その真意が汲み取れず、場には沈黙が流れた。
「雨が降っていた。その雨音さえ聞こえるほどにこの家は静かだった……ところでさっきのあたしの悲鳴が聞こえた人はいる? 知世さん、聞こえた?」
突然の名指しに戸惑いつつも知世は平静を保ちながら、
「ええ」
と答えた。
「新山さんも、金田さんも?」
二人は顔を見合わせた後、同時に「はい」と返した。三人の対応に猫子は満足そうに腕を組んだ。そしてこう続ける。
「これは仮定の話なのだけど、もしあなたたちが目の前で恋人を殺され、次に自分が殺されるかもしれない、とそんな状況になったらどうしますか?」
「……何が言いたいの?」
知世が眉をひそめた。その言葉とは裏腹に彼女にはその言葉の意味が理解できたらしい。目尻にしわが寄り、表情が硬くなった。
「そのままの意味よ。あの夜の谷山さんの立場になって考えて欲しいの。突然婚約者が殺され、そのナイフは自分に向けられている……そんな時、あなたたちだったらどうします?」
それはとても奇妙な問いだった。
「あたしだったら絶対に大声を上げて助けを求める。もしあまりの恐怖でそれができなくとも、何かしら抵抗をする。物を投げたり、走り回って逃げたりしてね。でも、あの夜そんな物音はいっさい聞こえなかったし現場には抵抗の跡は認められなかった」
その時、すずが両手で顔を覆い、悲痛な叫び声を上げた。
「いやぁっ」
「そしてこの辺り一帯はとても静かな場所で、誰かが大きな声を出せば、すぐにその音はこの家中を駆けまわる。それは皆さんよく承知のことでしょう。谷山さんが虫に驚いた時も、金田さんが遺体を発見した時も、それ以外にも思い当たる節はたくさんあるはずよ」
「……まさか、いやでも」
知世の顔が初めて青ざめた。
「一人の人間が一本のナイフで二人の人間を同時に殺すことはできないし、別々の場所で殺したとも考えられない。遺体には動かした形跡がなかったから。また、死の順番は朱李さんが先であり、凶器は部屋にあったナイフである。第三者が犯人であるなら、谷山さんの抵抗の音や跡がないのはあり得ない。よって朱李さんを殺害したのは谷山佐夜子である、と断定することができます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます