第二十一章 芽衣子の日記
1
猫子が事務所を飛び出したのが午後三時十分頃。タクシーを拾い、紅月邸へ。
「紅月さん、どうして? ねこさん、何が何だか判らないですよ」
「あたしもだよ。まさか芽衣子ちゃんが? 彼女には動機がないんだ」
矢立警部の説明もほとんど耳に入らず、紅月邸で詳しい説明を受ける運びとなったのだ。しかし、いったいどうしてこのタイミングで芽衣子は自殺を図ったのだろうか。いや、そもそもそれは本当に自殺なのだろうか。
仮に芽衣子が本当に自殺を図ったとしよう。
しかし、それがなぜ彼女が犯人であるということに繫がるのだろうか。矢立警部はそこまで話さなかったが、もしかすると遺書があったのかもしれない。
一つだけ言えることは、中林から芽衣子に警察の目が向いた以上、それ相応の発見があったということなのだ。
「釣りはいらないから」
一万円札を投げるように渡し、猫子はタクシーを飛び出す。
事件発覚から数日間は紅月邸の周辺には大勢の報道関係者が詰めかけていたが、現在はがらんとしていて、普段の静かさに戻りつつあった。
まだ芽衣子の件について正式に発表がされていないのだろう。マスコミの代わりに物々しい雰囲気のパトカーが二台、停まっていた。
門の付近にいた警察官に来意を告げ、猫子は息を切らせながら邸内に駆け込んだ。リビングには数人の捜査員と矢立警部しかいない。
「待ってたぜ」
「もう訳が判らないよ。早く説明して」
「落ち着け。まずはそこに座りな」
言いながらも、矢立警部はぎこちない顔を作った。彼もまた、事態の急変に理性がついていけていないらしい。
「とりあえず、紅月さんが自殺をしたってのは本当なの? 遺書は? 動機は?」
まくしたてる猫子に押されながらも、矢立警部は慎重に応対した。
「腹部をナイフで刺し、自殺を図ったようだ。遺書は見つかってない。が、諸々の状況を合わせて考えてみると、自殺であると断定するに十分な証拠が――」
「証拠って何なのさ?」
「……日記だ」
「日記?」
猫子のおうむ返しに、矢立警部は神妙に頷く。
「紅月芽衣子の日記が現場に遺されていた。おいっ、写真を」
傍にいた捜査員の一人が数枚の写真を猫子に手渡した。
「現物は鑑識に回してある。本人の日記帳で間違いないと思われる」
私と猫子は手元の写真に目を落とす。革装丁のもので、かなり分厚そうな日記帳だった。別の写真には開かれたページを写したものもあり、内容を読むことができた。
六月二十日。天気は晴れ。
あなたの横顔を見るだけで胸が苦しい。ああ、どうして神様はこのような試練をお与えになったのでしょう。こんなことになるくらいだったらいっそのこと、何も知らないままでいたかった。何も……
「これは……」
六月二十日、それは猫子が芽衣子に調査の結果を伝えた日だった。文章を目で追ううちに、絶望に打ちひしがれた彼女の、あの日の顔が浮かび上がってくる。
「例の事件と関わりがありそうなページもあってな。例えばここ……」
矢立警部は横から別の写真を指で示す。
六月二十五日。天気は雨のち曇り。
もしあなたが兄でなかったら。もし私が妹でなかったら。そう考えるたびに、どうしようもならない現実が私の心を激しく揺さぶるの。ああ、あなたは知っているの? 私のこの想いを。言いたい。でも言えない。言ったらきっと全部壊れてしまう。
「どうやら紅月芽衣子は兄、朱李に好意――兄弟のそれではなく、男女の想いを寄せていたようなんだ。そしてそれがおそらく一週間前の事件の動機。婚約者に取られるくらいなら、いっそ自分の手で、と考えたんだろう。これで谷山佐夜子が巻き添えを食ったのにも説明がつく。彼女は犯人にとって、許しがたい恋敵だった。その証拠に、ほらこれ」
再び矢立警部がその太い指で写真を指した。
「これと同じものが日記帳に挟まっていた」
それは紅月朱李を被写体にした写真だった。背景はどこかのレストランのようだ。シックなスーツに身を包んだ朱李の快活な笑顔が眩しい。
(ああ……)
私の中で何かが壊れる音がした。
頭の中で竜巻が暴れているような感覚だ。思考がまとまらない。考えたことを言葉にしようとすると、途端に暴風がそれをめちゃくちゃに吹き飛ばしてしまう。
「関係者一同を集めて、事の経緯を聞かせようか」
そうして矢立警部は離れていった。
「だいじょうぶ、きーちゃん」
「え、ええ。でもねこさん、これって」
「うん。おかしいね。でもこれではっきりした。これは自殺なんかじゃない。仕組んだ奴は、あのことを知らなかったんだよ」
手に力が入らず。持っていた写真がパラパラと床に舞い散った。拾い集める気力も起きず、散らばった写真を呆然と見下ろす。
その時、私の目に留まった写真があった。事件が起きたとされる。七月十六日付のページを写した写真だ。一行にも満たない文字の羅列。血と思われる赤い点々が余った空白に落ちている。
七月十六日。天気は曇りのち雨。
忌まわしい、この血が
*
矢立警部に召集され、現在この紅月邸にいる者がリビングに集まった。知世、すず、新山の三人だけである。空次郎は三木松の運転する車に乗り込み、芽衣子が緊急手術を受けている病院へ向かったようだ。
誰もが沈痛な面持ちであった。
新山もすずも押し黙ったまま、顔を伏せている。知世は相変わらず自分は関係ない、といった冷めた態度だったが、両手をこすり合わせながら落ち着きなく周囲に目を走らせている。
矢立警部は険しい顔のまま一同を見回し、
「まず猫と万野原さんには最近の紅月芽衣子さんの様子をについて説明しましょう。事件の後、彼女は葬儀に参列する以外はずっと家に籠っていたそうです。ですよね」
「はい、学校にも行かず、ずっとご自分の部屋に」
すずが答えた。
「その当時の彼女の様子については?」
「お嬢様はそれはもうたいそうな落ち込みようで、お食事をなさるのも億劫なご様子でした。ずっとベッドに横になっていて、私と新山とで交互にお世話をしていました」
「その時、何か気になったことは?」
これは新山とすず、両名に向けた質問だった。しばしの沈黙の後、すずが答える。
「特に何も……」
新山も同じように「なかった」と返した。
「何か自殺をほのめかすような発言や行動などはありませんでしたか?」
これにも二人は首を縦に振らない。警察はあの日記を根拠に自殺の線で捜査を進めるという。
それから今日の経緯について話が進んだ。意外にも矢立警部が指名したのは知世だった。どうやら彼女が今回の事件(自殺騒動?)の第一発見者のようである。
「さて、五十嵐さん。もう一度あなたの口から芽衣子さんの自殺を発見した経緯をお聞かせください。皆さんも、同じような話の繰り返しになりますが、どうかご協力をお願いします」
促され、知世はふっと鼻で息を吐くと、アンニュイな面持ちで語り始めた。
今日の午前十一時頃、知世はとある理由から芽衣子の部屋を訪れたという。
「いったいどんな理由で?」
猫子が疑心たっぷりの視線を向ける。
「そんな怖い顔をしないでよ、仔猫ちゃん。気になっていたことを彼女にたしかめに行っただけ。あの子が兄である朱李くんに恋をしていた、ということをね」
知世が言うことによれば、知世は数日前――朱李の事件の後――芽衣子が風呂に入っている隙に彼女の部屋に忍び込み、そこであの日記帳を見つけたという。
「びっくりしちゃったわ。元々は義理の娘に優位な立場になれるようにちょっと弱みを見つけられれば御の字ってくらい軽い気持ちだったのに、とんでもない爆弾を発掘しちゃった。で、思ったの。これが本当なら、もしかしたら朱李くんを殺したのもあの子だったんじゃないかって」
「その時、他の二人は何をしていたの?」
知世の証言に思うところがありながらもそこは場の流れを読み、猫子は続いて新山とすずに当時の状況を尋ねた。
それによると、すずはキッチンで昼食を作っており、新山は自室にいたという。また、三木松は庭で洗車をしており、空次郎は自室で昼寝をしていたらしい。
誰も互いの姿を監視していないのなら、その目を盗んで芽衣子を刺しに行くことも可能なはず。
「……」
ここで矢立警部が口を挟む。
「そのことを問いただすために今日、芽衣子さんの部屋を訪れた、というわけですな。事前に警察にそのことを知らせなかったのは?」
「だってもしそれが間違った情報だったら、あたしの立場が悪くなっちゃうじゃない。ちゃんとそれが『正しいこと』なのかどうかを見極めてからでも遅くないって、その時は思ったの」
知世は悪びれるふうでもなく、淡々とした調子である。
「あなたがもっと早くその事実を警察に教えてくれていれば、こんな形で事件に決着がつくことはなかった」
「それは結果論でしょう?」
知世はひるむどころか、煽るような視線を矢立警部に向けた。二人の間に険悪な視線のやり取りがあった。場の空気が張り詰めていく。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。知世さん、それで?」
猫子に促され、知世は続ける。
「それで今日の十一時頃にあの子の部屋に入ったの。最初はいつも通りベッドで寝てるのかと思ったけど、ほら、あの子の部屋は真っ赤でしょう。流れる血にも最初は気づかなかった。でも、あの子のおなかに刺さってるナイフを見て……」
知世は眉間にしわを寄せ、肩をさする。
「あたし、本当にびっくりしちゃって、自分でも驚くくらい大きな声で叫んだわ。それで皆、集まってきたの」
「声……?」
その時、猫子のまぶたがひくりと動いた。
「あたしの声に驚いた皆が来て、それで警察と消防に通報してって感じね」
「そうでしたか?」
矢立警部の問いかけに、すずと新山は曖昧に頷く。
「声……」
「ねこさん、どうしました?」
心ここにあらずといった様子の猫子だった。私の声すらも聞こえていないのか。
「まさか、お嬢様が……」
すずは肩を抱きながら声を震わせる。
「朱李様に恋をしていた、というのがあの事件の動機なのですね。なんて悲しいことなのでしょう。その、本当に今回の件はお嬢様の自殺なのですか? 言いにくいのですが、これもまたあの事件の続き、ということは……」
新山も強張った顔をして言った。それを受けて、矢立警部は言う。
「その可能性は無きにしも非ず、といったところですが、ただ芽衣子さんを殺す動機がある者はこの中にいそうにありません。朱李さんたちが殺害されていた事件で唯一動機を持っていたとされる中林氏も、今回の件では蚊帳の外にいましたから」
「あの子の容体はどうなの?」
知世が尋ねる。
「ナイフは内臓まで達しており、まだ手術中だそうです」
ちなみにナイフは朱李の部屋に残されていたものを使用したらしい。
「お嬢様……」
すずが言った。
「いったいどうして」
新山が言った。
「恋心ってのは怖いわね」
知世が言った。
「一命を取りとめてくれればよいのですが」
矢立警部が言った。
「ねこさん、聞いてます?」
私が言った。
そのどれも、猫子の耳には入らなかったようだ。
*
――一同が思い思いの言葉を口にする中、猫子はひたすら考えていた。ようやく、事件があったあの日から、胸の中にしこりのように残っていたあの事実に気づけたのだ。それを起点に、猫子はひたすら考えていた。
今まで得た情報を一つ一つ組み合わせていく。それは自分でも驚くほどすんなり噛み合い、また自分でも目を背けたくなるほど、その事実は残酷だった。
朱李と佐夜子の死。そしてこの事件の根幹を成す禁断の恋。
「……」
事件の発端となったあのいびつな愛の形に、猫子は全身が粟立つのを禁じえなかった。もしこのまま芽衣子が死の淵から生還することが叶わなければ、猫子は悔やんでも悔やみきれないだろう。こんな単純なこと、もっと早く気づけていれば、今日、芽衣子は襲われることもなかっただろうに。
「……」
今、全てが繫がった。
そのことを確かめるため猫子は静かに席を立った。
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