第十九章  谷山家

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 七月二十四日。

 あれから一週間が経った。


 警察は中林を重要参考人として取り調べを続けているが、芳しい成果は上がっていない。決定的な証拠を掴めぬまま、時間ばかりが無駄に過ぎていく。結局物証が上がらなかったため、自白に頼るほかないのだという。


 若い夫婦――それもあの紅月空次郎の息子夫婦を襲った悲劇として、マスコミはこの事件を大きく取り上げた。

 週刊誌やネットでもセンセーショナルな話題として騒がれたが、事件発生から今日までの一週間で、目立った進展がなかったことからだんだんと勢いは下火になっていった。

 ただ、週刊誌は空次郎の過去の恋愛遍歴を改めて掲載するなどして、事件とは無関係と思える方向で注目を集めていた。


 朱李と佐夜子の葬儀は三日前に合同で執り行われ、私と猫子もそれに参列した。その際、芽衣子と言葉を交わす機会があったが、そこで目にした彼女の哀傷はすさまじいものだった。葬儀という儀式が、彼女に改めて兄の死を突き付けたのだろう。


「さて、と行くよ、きーちゃん」

「はい」


 猫子と私は急ぎ足で事務所を出た。ちらりと腕時計に目を落とす。時刻は正午ぴったり。遠くの方から昼の時報が鳴り始めた。

 日は高く、真夏の日差しがぎらぎらとアスファルトを焼いている。青い葉を茂らせた街路樹からは、じりじりとセミの鳴き声が聞こえてきた。


 夏もそろそろ本番だ。


 私たちが向かっているのは市内東部にある谷山佐夜子の実家だ。無論、例の婚約の件について裏を取るためである。葬儀の際にも顔を合わせたが、あの場で訊くのはさすがにはばかられたので、後日改めてアポを取った。そのために今日は業務を午前で切り上げたのだ。


 三十分ほど歩き詰め、目的地に着いた。

 谷山邸は落ち着きある二階建ての数寄屋建築だった。塀の上から松が大きくはみ出ている。


「……きーちゃん、滝にでも打たれたの?」

「汗ですよ、汗。もう、死にそうです。あっ、まだ呼び鈴押しちゃだめですよ」

 今日に限って空に雲はない。これでもか、というほどの熱気が街を覆っている。汗っかきな私にとっては最悪の日である。タオルで汗を拭きとり、デオドラントシートで全身をくまなく拭う。


「ふう、すっきり。もういいですよ」

「ほいよ」


 猫子が呼び鈴に手を伸ばす。


「はーい」


 ややあって、中年の女が現れた。佐夜子の母、谷山敦子あつこである。色白で全体的にほっそりとした女で、くっきりと刻まれたほうれい線が目についた。それでも整った顔立ちをしており、若い頃はたいそうな美人であったと窺える。彼女には、たしかに佐夜子の面影があった。


 猫子は小さく会釈をして、


「この度はご愁傷様でございます。心からお悔やみ申し上げます」

「ああ、先日はどうも。百合川さんに万野原さんですね」


 私たちの顔を覚えていたらしく、敦子はゆっくり頭を下げた。


 実のところ、猫子が連絡を取ったのは佐夜子の実父、谷山隼人はやとだけである。アポを取り付ける際、隼人から「妻には黙っていてくれ」と念を押されたのである。このことから、例の婚姻は空次郎と隼人の二人だけで秘密裏に進められたのであり、敦子は全く関与していなかったと推測できる。


「どうぞ、上がってください」


 敦子の反応を見るに、彼女は猫子がただ弔問のために訪れたと思っているのだろう。警戒心はまるでない。彼女の後について、私たちはまず佐夜子の仏壇に線香をあげた。


 落ち着いた和室に、神妙な空気が流れる。


 遺影の中の佐夜子の顔はあの日、紅月邸で目にした彼女とはまるで別人だった。朱李と共に訪れた彼女は、女性らしい奥ゆかしさとむやみに触れることすらためらうような高貴な雰囲気をまとっていた。しかし、遺影の中の彼女はそうではない。人を惹きつけるような無邪気な笑顔を見せている。


(これが本当の彼女なのかな)


 この笑顔が朱李の心を射止めたのだろう。あの二人は天国でも一緒にいるのだろうか、それとも望まぬ婚姻から解放されて、佐夜子は朱李の許を去ったのかもしれない。そんなことを考えると、思わず涙が溢れそうになる。


「お前、ちょっと席を外しなさい」


 後ろの方から野太い声が聞こえた。振り返ると、庭に面した縁側の方に、隼人が立っていた。敦子はその姿を認めると、


「あなた、こちら百合川さんに万野原さん」

「判ってる。先日はどうも。ここではなんですから、奥の方へ。ああ、お前はいいんだ。佐夜子の傍にいてあげなさい」


 隼人は明らかに妻を除外したがっていた。なぜ、といった顔をしている敦子だったが、私たちの手前、追及するようなことはせずにおずおずと引き下がった。そうして、隼人と共に、奥の座敷へと向かった。


 向かい合わせで座り、私はさりげなく隼人を観察した。

 年齢は四十後半くらいで、度の強い眼鏡をかけている。職業柄、心労が多いのか、それとも娘の死が堪えたのか――おそらく両方だろう――ひどく疲れ切った顔をしていた。目の下に薄い隈ができており、大きく後退した生え際が眩しい。

 ねずみ色の開襟シャツに紺のズボンといった地味な出で立ちである。左手首には高級そうな腕時計が巻かれている。


「この度は――」


 敦子にしたように、猫子はまずお悔やみを述べた。そうして今回の訪問の目的である、例の件について口にした。猫子が喋っている間、隼人は微動だにせず、じっと畳に目を落としていた。


「というわけで、お二人の婚約の裏に、谷山さんと紅月さんの間で何かあったのではないか、と気になった次第なのです」


 一息に伝え終えると、猫子はいったん言葉を切った。相手の反応を窺っているのだろう。隼人は何かを言うでもなく、もごもごと口を動かしていた。

 探られると痛い物が腹の中にあるのだろう。さっさと吐いて楽になってしまえ、と私が念じたところでその気持ちが通じたのか、隼人は口を開いた。


「百合川さんは探偵だそうですが、警察ではこの事を?」

「私が知る限りでは、警察はこの件に関してはあまり積極的な姿勢は見られません。あまり詳しいことは言えないのですが、すでにマークしている人物が一人いるようです」


「……百合川さんから見ても、その方が犯人だと?」

「どうでしょう。現時点では何とも言えませんね。現在、有力な動機らしい動機を持つ者がその人物しかいないのです。ただ、それも――私個人の意見としては、重箱の隅をつついてでっち上げたような印象を受けざるを得ません」


 これは少し大げさな表現だったが、隼人の心には大きな波紋を落としたようだ。眼鏡の奥でぎょっと目を開き、


「判りました。このままでは事件の解決は厳しいかもしれない、ということですね。私の知っていることをありのままをお話ししましょう。娘のために」


 その顔に何やら決意めいたものを感じ、猫子はついに切り出した。


「では、単刀直入にお訊きます。佐夜子さんは、家の都合で朱李さんと無理やり結婚させられたのですね」


「はい」


  2


「私は娘を自分の出世のための道具として使ってしまった。それは揺るぎない事実です。だが、同時にこれは娘のためでもあると思った。あの紅月家の嫁に入り、ゆくゆくは院長夫人として大成すれば、きっと幸せな人生を歩んでいってくれる、と」


 隼人は眼鏡の奥の目を細めた。猫子は黙って耳をそばだてる。


「……」


「しかし、それは結局私のエゴだったんですね。そう思い込んで、罪悪感を少しでも消そうとしていたんだ」


 隼人は声を震わせ、悔いるような顔で語った。時おり、眼鏡を外し、目にハンカチを当てる。


「その話は空次郎さんから直接?」

「はい。院長のご子息が佐夜子に好意を持っている、とそう聞いた時はそれはもう飛び上がるほどの衝撃を受けたものです。戸惑う私の目の前に院長は大きなエサをぶら下げました。次期医長への推薦です。あの紅月家と関係を結べる上に、昇進まで付いてくる……ああ、私は本当に愚かでした」


「佐夜子さんから反発は?」

「全くなかった、と言えば嘘になります。悔やんでも悔やみきれない」


「佐夜子さんは結婚について愚痴を漏らしたりしていましたか?」

「私の前では全く。昔から何にでも機敏に反応する子だった。ああ、怖かったろう。苦しかったろう。佐夜子、私を許してくれ」


「いえ、谷山さん。このことがお嬢さんの事件と関連があるとは決まったわけではありません」


「いや、全て私が悪いんだ。娘があの日、院長の家に行かなければ、事件に巻き込まれて死ぬことはなかった。そうでしょう?」


 隼人は同意を求めるように猫子へ視線を向けた。今の彼は尋常でない自責の感情に包まれているのだろう。私はある疑問を覚え、それをそのまま口にする。


「あの、私からもう一つよろしいですか。縁談がのお嬢さんと朱李さんの関係はどうでしたか?」

「はぁ」


 一瞬、質問の意味を捉えそこねたように隼人は眉をひそめたが、すぐに真顔に戻って言った。


「先ほども申しましたように私の前で婚約について愚痴を言ったりはありませんでした。しかし、なぜそんなことを……」


「いえ、事件の日、佐夜子さんが紅月家に来たのは、彼女の方から朱李さんに『会いたい』と連絡を取ったからなんです。それを受けて、朱李さんがお嬢さんを迎えに行った次第でして」


 ちなみに佐夜子は実家住まいではなく、ここから二キロほど離れたところにあるマンションに一人暮らしの身であったという。


「すると万野原さん、佐夜子は少なくとも最近は、朱李くんとの関係がまんざらでもなかった、ということなんでしょうか」

「いや、そこまではなんとも」


「しかし、今おっしゃられたことは。そういう風にも受け取れますよね?」


 猫子が小さくため息をつくのが聞こえた。


 そうするといったいどういうことになるのだろう。


 私は考える。


 当初は歯牙にもかけなかったが、次第に佐夜子は朱李に好意を寄せ始めていたのだろうか。芽衣子によると、佐夜子は頻繁に紅月家を訪れていたそうだ。

 もし二人の仲が進展していたとするならば、それを動機に事件を起こす者はいないはず……やはりこの件は事件とは関わりがないのだろうか。それとも――


(……紅月さんが?)


 紅月芽衣子の、あのとりすました顔が突然浮かんだ。

 まさか、とは自分でも思った。


 彼女のことなど最初から除外して考えていた。思い返してみれば、たしかにあの日、佐夜子を前にした芽衣子の様子はどこか変だった。

 中林も言っていたではないか。彼女は昔からだった、と。もしや兄を奪われることに嫉妬した芽衣子が……


(いやいや、それこそ本当にまさかよね)


 頭に浮かんだその考えを振り払うようにぶんぶんと首を振った。それを見て、隼人が怪訝そうな顔をする。


「どうしましたか?」

「いや、何でもありません」


 その後、十五分ほど事件とは関係ない雑談をし、いとまを告げた。


 帰り際、仏壇のある部屋を覗くと、敦子の小さな背中が見えた。私たちの視線には気づいていないのだろう。肩を小刻みに震わせ、低い嗚咽を漏らしている。娘を失った母親のもの哀しい後ろ姿が、私の網膜に焼き付いた。

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